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漠然と前ばかり気にしていたから、不意に後ろから肩を叩かれビクリとしてしまった。
『…ごめんね。待ったでしょ?手もこんなに冷たい…』小さな両手が俺の右手を包む。温かい。
先に手に触れられては、言い訳もできるはずもなく。
『本当にごめんね。"用事"が長引いて…』
"用事"?昨日の画像に関係あるのだろうか。やはりあれには…秘密がある。
「ごめん。俺も早く来すぎたんだ。これから…どこ行く?」
その問いには答えず、そのまま左手を包む。
視線を合わせると、申し訳なさそうな目で見つめ返される。目は時に口よりも雄弁に語る。
その表情には嘘は…ないと思う。
『やっと暖まった』と自己満足のようにつぶやいて、俺の手を取りタクシーに乗り込んだ。
事前に連絡してあったのか…メーターには【貸切】と出ている。
行き先を告げられずに連れ回されるのは、恐怖に近い。人は"知らない"ということに恐れを抱くように出来ているんだ。DNAに刷り込まれている太古からの記憶。
緩やかに車体のスピードが落ちる。着いた先は…普通のカラオケボックスだった。
『行こう?』手はつないだまま、タクシーを降りる。
受付を済ませ、案内されるまま部屋に入る。
小さな密室。それは俺にとって触れ合える喜びよりも、緊張感を高めるだけであった。
それは…彼女も同じであったのか、何だか緊張するね、とストローに口をつけていた。
「今日は飲まないんだ?」
『…これでも反省の心ぐらいは持ち合わせてるのよ?』と、苦笑いしながら吐き出す彼女。
そうだった。昨日のお詫びとして、誘われていたのを忘れていた。
そしてそれは…飲まない理由にもなる。
一度、疑い始めると、全てが疑わしく思え、関連付けしようとしてしまう、豊かな想像力が…邪魔になった。
『…ねえ…これ歌える?』最近の邦楽のヒットチャートの上位の歌手。
「…悪いけど一曲も知らない」
『…じゃあ、これは?』
「それも」
『じゃあ好きな歌手は?』
「エリック・マーティン」
まるで暗号のように聞こえたのか、珍しくリコはフリーズしていた。
「Mr.Bigのボーカルだよ」
『余計にわからないよ』
…ジェネレーションギャップなのだろうか。けれど本当に、邦楽はわからないのだ。
「ごめん、俺は洋楽しか聞かないんだ」
…少し気まずい空気が室内を包み、エアコンの稼働する音だけが響いた。