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虎穴に入らずんば虎児を得ず。
思考を麻痺させるみたいに、その考えに酔う。
だが、頭の片隅では常に逆の相反する考えが出てくる。
君子危うきに近寄らず、と。
イニシアティブがどちらにあるのか。
誘われているだけなのに、強制に感じるということは、俺に選択肢はないのだろう。
大きく息を吐いて、諦めにも似た思いで返事を打つ。
【場所も時間もリコが決めてかまわないよ。楽しみにしてる】
パタリと携帯を閉じて、シャワールームの扉を開いた。
浮き足立つな。冷静に。深く、深く、潜れ。潜在意識に刷り込むように、自分の脳髄に命令する。
仮面をかぶることぐらい、お前にもできるはずだろ?
鏡の前の自分に言い聞かせる。
髭を剃り、眉を整えて。準備は万端だ。一度きり、自分を奮い立たせる。
約束の時間まで、まだ余裕はあるが…いつもの癖でまた早く出てしまった。
待ち合わせは西駅。よほどの事故がない限り、およそ20分とかからないだろう。
ガタンゴトンと揺れる電車。疲れた身体、気持ち、まとめて受け入れて、揺らす。空はもう暗いのに、生活の光が夜を拒否する。こうして…何かが狂っていくのだろう。そんな思いさえ、黙って静かに運ばれる。
駅前に到着する。年の瀬ということもあり、家族連れが多く、日常のようなスーツ姿は少なく見受けられる。
子どものはしゃぐ姿に、少しだけ目尻を下げ、温かな気持ちになる。
いけない。気を引き締めないと。あたりをキョロキョロと見渡しても、まだ彼女の姿は見えない。
微かな違和感。なぜか不安にかられる。沸き上がる焦燥感。昨日までは、なぜか先にいたはずなのに。
落ち着け。落ち着けっ駅の構内を離れ、耳にヘッドホンをかぶせる。ポケットのiPodを操作して、鼓膜を優しく包み込む様な音を流す。喫煙所を見つけ、あまりの煙たさに顔をしかめながらも、タバコに火をつけた。
流れ出すアルペジオ。それは強く高らかに。だけど、耳に刺さらない。そして…柔らかな歌声が、包むんだ。
タバコを吸い終える間に、幾分落ち着きを取り戻した。
喫煙所の扉を閉め、外に出ると、少し風が出てきたみたいで、前髪を揺らした。
そのまま壁にもたれかかり、音だけを楽しんだ。目は行き交う人からリコを探しているが、漠然と見るでもなく動きだけを捉えていた。
約束の時間まで、あとわずか。腕時計をチラリと眺め、また視線を戻した。




