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正体を隠して魔法の添削をしていたら、敵国の宮廷魔術師を育てていた  作者: てへろっぱ


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2/2

第二話 弟子に会ったら、まず朝飯の心配をした


 初めて会う弟子に何と言うべきか、朝から考えていた。

 よく来た、では歓迎しすぎている。昨日あいつの仕事で町が水浸しになったことを思えば、少なくとも渡し場で大声を張り上げる言葉ではない。会えて嬉しい、も違う気がした。嬉しくないわけではないが、俺の知っているすずめは帳面の向こう側にいる細かな字であって、これから川を渡ってくる宮廷魔術師と、まだうまく重なっていなかった。

 結局、何も決まらないまま道具袋の口を縛った。

 右の人差し指には、昨夜巻き直した包帯がある。革紐を引くと焼けたところが痛んだので、口を使って締めた。こういう姿を初対面の弟子に見られるのは、いささか具合が悪い。もっとも、俺を立派な教師だと思っているのなら、早いうちに誤解を解いておいたほうがお互いのためだろう。

 帳面を置いていた机の端だけが、妙に広かった。

 分かち帳は、昨日の復旧のやり取りが済んだところでドレナが持っていった。今朝の待ち合わせについても、弟子と直接相談したわけではない。夜半に警備所から届いた通行許可の写しには、立ち入りは日没まで、移動は監督官の同行する経路に限る、とあった。

 その下に、俺の名も添えられている。

 通訳兼、被害状況説明のための同行者。

 同じ言葉を喋る相手に通訳がいるのかと思ったが、魔法の話を普通の人間にも分かるようにする役だと聞けば、断りにくかった。昨日から俺の仕事は、修理屋の値段表にないものばかり増えている。

 戸締まりをして路地へ出ると、パン屋の勝手口からトゥーラが顔を出した。

「川へ行くんだろ。これ持っていきな」

 差し出された籠には、布に包んだ丸パンが六つ入っていた。焼きたての匂いはするが、いつもの肉入りではない。

「今日は余ったにしては早すぎるぞ」

「余ったなんて言ってないよ。あんたの昼飯。昨日、ちゃんとしたもの食べたかい」

「肉入りのパンをもらった」

「それだけじゃないか」

 六つとも俺の腹に収まる予定らしい。籠を受け取ろうとすると、トゥーラの目が包帯に止まった。何か言われるかと身構えたが、彼女は布の端を直しただけだった。

「焼く水は西の井戸から汲んだよ。東の水を使えるのは、あんたたちが大丈夫だって言ってからにする」

「ああ。そのほうがいい」

「なら、そう言っておくれ。無理に安心させなくていいから」

 うなずくと、彼女はようやく手を離した。

 町の不安は、昨日水が引いたのと一緒には消えない。戸口の前に濡れた敷物を広げている家も、朝から桶を持って西へ歩く子供もあった。俺は道を譲りながら、パンの籠を道具袋とは逆の手に持ち替えた。


 旧渡し場には、すでにドレナと警備兵が二人来ていた。

 昔の渡し守小屋は屋根が少し傾いているものの、壁も窓も残っている。今日のために中を掃除したのか、開いた戸口から乾いた埃の匂いがした。川岸では兵の一人が杭に縄を掛け、舟を寄せる場所を確かめていた。

「許可は下りたんだな」

「被害確認と事情聴取についてはな。君への私的な訪問という項目は削った」

 ドレナは書類から目を上げずに答えた。

「それから、昨日の続きだからといって、何でも教えていいわけではない。復旧に必要な説明は私が判断する。新しい術式を渡すのは駄目だ」

「分かってる。帳面は?」

「小屋の中にある。先方にも見えるよう、必要なときはここで使う」

 言われて窓を見ると、机の上に見慣れた茶色の表紙があった。返ってきたわけでもないのに、見えるだけで少し落ち着いたのが腹立たしい。

「向こうの護衛は二人だったか」

「ああ。武器は舟で預かる。本人にも携帯魔導器の申告をさせる。こちらの町中で魔法を使うときは、必ず私を通してもらう」

 そこまで言ってから、ドレナは俺の籠を見た。

「それは?」

「昼飯」

「六人分にも見えるな」

「俺の昼飯だそうだ」

 彼女の口元がわずかに動いた。そのとき、川の向こうから櫂の音がした。

 舟の先に帝国の旗はなかった。休戦監視所の白い小旗を立てた平底舟が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。舟縁に片手を置いている女が一人、その後ろに外套姿の男が二人。女のほうは灰色の上着を着ていて、遠目には役所の書記のように見えた。

 もっと立派なものを想像していたのかもしれない。宮廷魔術師という言葉から俺が思い浮かべられる服は、祭りの見世物で悪役が着る、やたらと襟の高い長衣くらいだった。

 舟が寄る前に、女が立ちかけた。すぐ後ろの護衛が何か言い、彼女は座り直した。川岸までは、まだ櫂一本分ほどもある。

 ああ、と思った。

 結果を書く前に、嬉しさのあまり次の実験の話を始める字が、頭に浮かんだ。

 縄が掛かり、兵が板を渡す。先に降りた護衛が足場を確かめてから、彼女に手を差し出した。女は礼を言い、その手を一度借りて岸へ下りた。薄茶の髪を襟足でひとつに束ね、革の書類筒を大事そうに抱えている。昨日あれほどの荷重を受け止めた人間にしては、肩が細かった。

「ヴァルゼン帝国、宮廷魔術院第三席、イェスカ・ローディンです。本日は、立ち入りをお認めいただき、ありがとうございます」

 ドレナに向けて、深く頭を下げた。

 思っていたより低く、落ち着いた声だった。俺は六年間、この声を知らなかったのだ。字を見れば機嫌の悪い日まで当てられるのに、たった一言の挨拶がひどく新鮮だった。

 ドレナが許可の範囲を読み上げ、携行品の確認をする。護衛たちは外套を開いて武器のないことを示し、彼女は書類筒と、小さな財布と、布に包んだ自分の分かち帳を差し出した。

「術式を補助する指輪は持参していません。昨日、使用を中止したためです」

「承知した。こちらが、現地の修理を担当するオルヴェン・ラグだ」

 俺の名を聞いたとたん、彼女の指が書類筒の留め金の上で止まった。

 それから視線が、俺の顔と、道具袋と、包帯を巻いた指の間を往復した。何を確かめたいのかは分かったが、こちらから言う台詞は、朝から考えても決まっていない。

「……余白、さん、ですか」

「普段はオルヴェンで通ってる」

 彼女が息を吸った。礼儀正しい宮廷魔術師の顔が崩れ、驚きとも安堵ともつかない表情になった。

「もっと、お年を召した方かと」

「俺はもっと落ち着きのない子供だと思ってた」

「六年も経ちましたから」

「それは、そうだな」

 六年前、灯火で指を焼いていた相手は、もう二十三歳なのだった。

 イェスカは両手を前で重ね、改めて背筋を伸ばした。

「お師匠様。昨日は、私の判断で、こちらの町に被害を――」

 そこで、腹が鳴った。

 川の音があるのだから聞こえなかったことにできそうなものだが、俺も彼女も、あいにく向かい合っていた。後ろの護衛がじっと対岸を見た。ドレナは通行許可を折り畳む手を止めなかった。

「朝飯は」

「いただく、つもりでした」

「いつ」

「渡る前に。その、持ち出す書類の確認に時間がかかって」

 俺は籠の布をめくった。

 よく来たとも、会えて嬉しいとも言わなかった。六年も教えてきて、顔を見て最初にすることがこれかと思いながら、まだ温かい丸パンを一つ差し出した。

「食え。謝るのにも、話を聞くのにも、腹はいる」


 渡し守小屋で簡単な打ち合わせをする間、イェスカはパンを両手で持っていた。

 一口かじってから、少し驚いたように中を見た。何か入っていると思ったらしい。

「そこのパン屋のだ。川へ行くと言ったら持たされた」

「私が、いただいてもよかったのでしょうか」

「もらった俺がいいと言ってる。ただ、町全体から歓迎されたと思うなよ」

「はい」

 彼女は次の一口を、さっきよりゆっくり噛んだ。

 護衛たちは戸の外で待った。一人が中に残ることを望んだが、事情聴取のあいだは窓から本人の姿が確認できる位置に立つことで折り合いがついた。ドレナは余計な威圧をせず、譲れないところだけを短く説明する。俺には到底できそうにない仕事だった。

 イェスカが最初に広げたのは、昨日の工事図面ではなく、被害を受けた家について書き留めるための紙だった。

「補償の申し入れは、昨夜のうちに監視所へ預けました。ただ、私の手元で確約できる範囲には限りがあります。今日お話を伺った分を、正式な記録に追加したいんです」

「支払いの日付が言えないものを、すぐ払えるように話すな。それだけ守ってくれればいい」

 ドレナの言葉に、彼女はうなずいた。

 俺は籠を机の端へ寄せた。

「直せるものを見分ける前に、全部新しくするなんて約束もしないでくれ。金があっても同じものが手に入らない道具はある」

「はい。勝手に処分しません」

 返事と一緒に、紙の端に小さく書き添える。その字を見て、ようやく目の前の女とすずめが、一人の人間になった気がした。

 持ってきた別の書類について聞きたかった。俺の父親と同じ「ラグ」の署名があるという、二十七年前の術式だ。書類筒から出された薄い板挟みを見た瞬間、喉まで質問が上がったが、イェスカはそれを開かず、膝の上へ置いた。

「こちらは、被害の確認が済んでからでもよろしいでしょうか」

「ああ」

 向こうからそう言われると、少し恥ずかしかった。

 父親のことが気にならないわけではない。しかし今は、床下に水を入れられた人間が俺たちを待っている。


 最初の二軒では、ほとんどドレナが話した。

 俺が配管と床下を確かめ、イェスカが被害を記録する。一軒では家主が門口に立ったまま彼女を中へ入れず、もう一軒では濡れた寝具を指して、これをどこで乾かせと言うのかと尋ねた。用意してきた挨拶を最後まで言えたのは、一度だけだった。

 イェスカは反論しなかった。だからといって、叱られればそれで責任を果たせるわけでもない。寝具の家では干す場所を警備所に相談するとドレナが答え、通りを空けてから兵の一人を走らせた。

 三軒目は、ベノットが先に入っていた。

 川に近い低い土地に建つ、織物職人の家だった。表の二部屋を作業場にしており、窓からは幅の広い織機が見える。入口に積まれた濡れ布から、泥と、染料と、洗っても落ちそうにない川の匂いがしていた。

「来たか。水は抜けてるが、こっちがな」

 ベノットが顎で示した先に、年配の男が座っていた。

 家主は座面の低い椅子に腰を下ろし、織機の横木を布で拭いていた。右膝が曲がりにくいらしく、片脚を前へ投げ出している。俺が名を呼ぶと顔を上げたが、イェスカを見ると、すぐ手元へ視線を戻した。

「帝国のお偉いさんか」

「工事の試験を許可した者です。昨日は――」

「聞いてる。役人が来るってな」

 拭いた布を裏返す。もうどこも濡れていて、水分を吸っていなかった。

「記録ならそこの積んだ布を書いてくれ。十反。納めるはずだった日付も、向こうの札にある。床は自分でどうにかする」

「織機も水を被ったのですね」

「下のほうだけだ」

 イェスカが一歩近づくと、男は布を置いた。

「それまで駄目だとは、言わんでくれよ」

 怒鳴ったわけではなかった。それだけに、部屋の中が静かになった。

 織機には、織りかけの布が掛かっている。上の経糸は無事だったが、踏み板と脚、それに下部の横木が濡れていた。泥は拭き取ってある。急いで手入れしたのだろう。継ぎ目に入り込んだ水は、表面を擦ったくらいでは出てこない。

 男の膝の横には、古い木箱が置かれていた。中には交換用の小さな木片が、形ごとに分けて並べられている。買ったときからの織機ではない。使いながら何度も手を入れて、今の形になった道具だ。

「まず見せてくれ。駄目かどうかを決めるのは、それからだ」

 俺は袋を下ろして、床に片膝をついた。

 イェスカも膝をつきかけたが、泥が残っているのを見て上着の裾を押さえた。ためらったのは一瞬だけだった。書類をベノットに預けると、床に落ちた小さな木片を拾った。

「これは、こちらのものですか」

「踏み板の止めだ。なくすな」

「はい」

 彼女は胸の飾りではなく、拾った木片のほうを丁寧に拭いて、箱の空いていた一角に置いた。

 脚を指で叩くと、前と後ろで音が違った。川に近い後ろ側のほうが深く水に浸かったらしい。細い金属板を継ぎ目へ差し込み、抜いて明かりに透かす。板の先に水がついてきた。

「火鉢は入れなかったんだな」

「近くで焚いたら曲がる。そんなことは分かってる」

「助かる。表だけ先に乾くと、継ぎ目の締まりが変わるからな」

 家主の手が、横木の端を撫でた。その部分だけ、長年の手脂で艶が出ている。俺は横木を外せるか尋ねようとして、その手を見て言い方を変えた。

「いつも手入れするときは、どこからばらす?」

「上は触らん。下の楔を抜いて、踏み板を外す。左の脚は緩めるなよ。そこだけ床に合わせて削ってある」

 言われた場所を確かめると、なるほど、床板の傾きに合わせた薄い当て木が噛ませてあった。知らずに外せば、乾いてから元どおり組んでも座りが変わってしまう。

 イェスカは黙って聞いていたが、やがて俺の手元の金属板に目を向けた。

「中の水が残っている場所なら、調べられると思います。木を動かさずに」

 ドレナが顔を上げた。

「どうやって?」

「ごく弱い冷却で表面に出る湿り方を比べます。物を凍らせるほど温度は下げません。工事の石材を調べた方法と同じです」

 石材ならば知っている。水を含んだところと乾いたところで、熱の抜け方が違う。それを木に使うつもりなのだろう。

「塗りが傷まない程度にできるか」

「できます。ただ、初めて扱う材ですから、同じ木の切れ端があれば、先にそちらで試したいです」

 家主が、しばらく彼女を見た。

 それから椅子の横の箱を引き寄せ、底から短い木片を取り出した。

「去年換えた横木の端だ。捨てずに取ってある」

 ドレナの許可を得て、イェスカは木片を窓際に置いた。手をかざしただけでは、何も起きたように見えなかった。しばらくして、乾いた側にごく薄い曇りが浮かび、水に触れていた切り口には、それより早く小さな粒がついた。

 彼女は変化を確かめると、すぐに手を引いた。窓からの風で曇りが消える。家主が木片を持ち上げ、指の腹で何度も表面を擦った。

「冷たくはないな」

「はい。織機にも、この程度までしか掛けません」

 俺が同じことをやったら、たぶん一度は水滴を作りすぎる。仕組みを説明できることと、この細さで扱えることは別だった。

 許しを得たイェスカは、織機の脚を一本ずつ調べた。家主の見える位置から手を動かし、次に触れる場所を先に告げる。四本目を終えたとき、俺が湿っていると思っていた継ぎ目より一段上を指した。

「ここにも残っています。外から入り込んだ水が、内側の溝を伝ったのだと思います」

 家主が身を乗り出した。

「そこは中をくり抜いてある。前の親方が、木の癖を逃がすためにやったんだ」

 俺は横木の下面へ手を回した。指先に、塞がれた小さな穴が触れる。古い栓を外すと、数滴の水が床へ落ちた。

 表から見るだけなら、見落とすところだった。

「よく拾ったな」

「いつもより、ゆっくり見ました」

 彼女は少しだけ笑ったが、褒められた余韻に浸る暇もなく、次の脚の裏へ回り込んだ。

 そこからの仕事には、思いのほか時間がかかった。楔を抜く順番を家主に聞き、外した踏み板には左右が分かるよう紐を結ぶ。布を細く裂いて継ぎ目の水を吸わせ、床下の通気を塞いでいた泥を取り除いた。ベノットは俺たちより先に裏へ回り、床下の低いところへ溜まった水を掻き出していた。

 イェスカには、風を通してもらった。

 強い風は要らない。上に掛かった経糸を揺らさず、湿りの多い継ぎ目を一つずつ通って、開けた裏戸へ抜ける程度でいい。そう注文すると、彼女は織機の周りに細い空気の流れを幾筋も分けた。床に置いた布の端は動かないのに、濡れた木に近づけた糸くずだけが、ゆっくり横へ流れていく。

 家主は初め、心配そうに手を添えていた。そのうち俺に別の布を渡し、最後には自分で裏戸の前にあった箱をどかし始めた。

「それで、今日中には使えるか」

 問われたイェスカが、俺を見た。

 俺は首を横に振った。

「今日は無理だ。中まで乾いたか、明日また見る。そこでよければ組み直すが、駄目なら、もう少し待ってもらう」

「納めるものがあるんだ」

「急に乾かすと傷むのは、あんたが一番知ってるだろ」

 男は唇を噛んだ。

 イェスカの風が、一筋だけ細くなった。彼女も焦っているのだろう。今なら自分の魔法で何かできるのではないか、と考える気持ちは分かった。昨日も、その気持ちにつけ込まれて署名をしたのかもしれない。

 俺は、外した踏み板を壁に立てかけた。

「納品先に事情を説明する書付なら、ドレナが出してくれる。俺も、動かせない状態だと書く。使えないものを使えるとは言えないが、あんたが怠けて遅れたわけじゃないことは伝えられる」

「警備所の名で出そう。被害確認の記録はすでにある」

 ドレナが続けると、男の肩が少し下がった。

 イェスカは、風の通りを整え直した。

「私の名前も記してください。原因になった工事の担当者として」

 男は返事をしなかった。ただ、机の引き出しから納品先の札を出して、彼女の記録用紙の横へ置いた。


 家を出たころには、昼を大きく回っていた。

 残る二軒は配管の点検が中心で、ベノットが先に説明を済ませてくれていた。イェスカは家主の話を聞き取りながら、泥を出すために余分に使った水の量まで書き留めた。払い戻せると約束はしなかったが、聞かなかったことにもしていない。

 帰り際、織物職人の家の前を通ると、開いた窓から声がした。

「おい、帝国の」

 彼女が足を止めた。

「明日も来るのか」

「許可が下りれば、伺いたいと思っています」

「だったら、そのときに、ここの風の具合も見てくれ。奥の脚だけ乾きが遅い」

「はい」

 返事をしたあとで、イェスカはドレナを見た。勝手に約束をしたと気づいたらしい。

「明朝の点検は申請に入れよう」

 そう言われて、やっと息をついた。

 許されたわけではない。十反の布は傷んだままだし、納品は間に合わない。それでも、次に来たときの仕事を一つ渡された。その違いは、彼女にも分かったようだった。

 少し歩いてから、俺は尋ねた。

「さっきの風、何本に分けてた?」

「八本です。最後は裏の隙間にも通したので、九本になりました」

「よく喧嘩させずに通せるな」

 イェスカが、きょとんとした顔をした。

「お師匠様に教わったとおりです。行き先を先に決めて、途中を繋ぐんですよね」

「考え方はな。俺があの狭さで九本も分けたら、二本くらいは途中でぶつかる」

「……そう、なんですか?」

「俺は修理屋だぞ。一つずつ通して、済んだところから止める。手が二本しかない人間のやり方だ」

 彼女は何か言いかけて、やめた。

 落胆されたかと思ったが、少し遅れて、小さくうなずいた。

「昨日も、私ができることを、信じて任せてくださったんですね」

「できない相手に六割も荷を渡すか」

「はい」

 今度の返事は、ずいぶん柔らかかった。

 俺としては、もう少し腕の立つ師匠だと思われていたかった気もする。しかし、目の前に来てしまえば、そのうちばれる。今のところ失望した様子はないので、よしとした。


 渡し守小屋に戻ると、朝のパンが籠に二つ残っていた。

 一つをイェスカに渡し、もう一つを俺が食った。すっかり冷めていたが、歩き回ったあとの腹にはありがたい。彼女は今度は遠慮せずに受け取り、食べ終えてから指を拭いて、膝の上の板挟みを机へ置いた。

「お待たせしました。昨日お話ししたものです」

 ドレナが椅子を引き寄せた。

 表紙には、帝国の役所で使うらしい印が押されていた。国外での照合を許された箇所だけを収めた写しで、原本そのものではないという。ドレナが監視所経由で受け取った許可の書類と番号を突き合わせ、ようやく紐が解かれた。

 出てきたのは、薄い灰色の紙だった。

 文書用の転写紙だ。手で書き写したものと違い、原本の折り目や墨の染みまで淡く残っている。端には閲覧した者の記録があり、そのすぐ上に、二十七年前の日付があった。

「私が知っている術式に似ていたので、就任時の閲覧で確認しました。古い河川施設の記録です。禁庫というのは、危険な魔法だけを収める場所ではありません。今は公開されていない工事の記録も、そこに移されています」

 説明を聞きながら、俺の目は紙の左下に引き寄せられていた。

 赤い線がある。

 主回路の外へ小さく膨らみ、流れを戻すための輪になる。その脇に、三つの短い切り込みが並んでいた。最初の二本より、最後だけ少し短い。

 修理の済んだ板に印を刻む父の指を、覚えていた。

 子供の俺が三本とも長く削ると、父は、そんなに力を入れるな、印をつけるために板を割ってどうする、と笑った。短い一本は、別に何かの決まりではない。彫るときに手を返す、あの人の癖だった。

 図の下に、ラグ、とあった。

 それだけなら同じ姓の別人だと言えた。だが、俺は綴りの最後を見るたび、店の古い帳簿の数字を思い出した。父は最後の払いを長く引く。そのせいで、幼い俺は何度も隣の欄と繋がっていると思ってしまった。

「父親の字だと思う」

 声にすると、胸の中にあった疑いが、急に重くなった。

「断言できるか」

 ドレナが聞いた。

「家に残っている修理の控えと比べたい。少なくとも、俺が知ってる字とよく似てる」

 イェスカは黙っていた。昨日の帳面では、同じ印です、と急ぐような字で書いてきたのに、今は俺が続きを見るまで待ってくれている。

 図の中心は、魔法の陣ではなかった。

 川の断面と、両岸の石積み。そこに二つの水路が描かれ、その間を細い線が往復している。片岸で水が増えたとき、対岸へ知らせるための、ごく単純な連絡術式だった。知らせを受けた側が受け入れ口を開いてから、上流の水を逃がす。順番を間違えないように、確認の返りを待つ仕組みがついている。

 親父の赤字は、その返りを待たずに動かせる箇所を潰していた。

『急ぐときほど順番を省くな』

 短い一文を読んだ途端、声まで聞こえたような気がした。

 俺が店の古い水抜きを分解したときにも、同じことを言われた。早くやり直そうとして栓を抜き、二人で床を拭いた。父は叱る前に雑巾を投げてきたし、床が乾いてから改めて叱った。

 俺は紙から手を離した。

「帝国側だけの施設じゃないな」

「はい。両岸で使う前提の図です。ただ、記録には設置場所の古い呼び名しかなくて、こちらの現在の地名と合わせられませんでした」

 彼女が指した文字を、ドレナが読んだ。

「下流第三共同渡船場」

「この辺りに、三つも渡しがあったのか?」

 俺が尋ねると、開いていた戸口から声がした。

「上の橋が架かる前なら、もっとあった」

 ベノットだった。戻る途中で寄ったらしく、手には泥のついた長靴を下げている。敷居で靴底を確かめてから入ってきた彼は、ドレナの了解を得て図を覗き込んだ。

「第三ってのは、上から三番目じゃない。管理の番号だ。……ここの岸は、昔はこう曲がっとった」

 節くれだった指が、紙に触れない高さで止まる。

 俺は窓の外を見た。今はなだらかな斜面になっている岸が、図では小さくえぐれている。洪水のたびに積み直した石が、ところどころ色を変えていた。

「ここなのか」

「たぶんな。古い水番の帳簿を見れば分かる。お前の親父が出入りしていたのは覚えとるよ。国境の締めつけが、今ほどではなかった頃だ」

 ベノットは署名を見て、眉間に皺を寄せた。

「向こうに、こんなものが残っとったのか」

「親父は帝国へ行ったことはないって言ってた」

「行かんでも、向こうの技師はこっちへ来るだろう。川は両方の岸を削るんだぞ」

 言われてみれば、そのとおりだった。

 俺は六年間、会ったこともない人間に修理を教えていたくせに、父親の図面が国境を越えたと聞いただけで、父親自身も越えたのだと思い込んでいた。

 しかし、それなら別のことが気になる。

「この連絡の仕組み、今は残ってないのか」

 昨日、水番小屋にも揚水塔にも、対岸へ直接異常を知らせるものはなかった。向こうに聞く手段は俺の帳面しかなく、ドレナが警備の連絡を走らせる間に、地面の下では水が押し寄せていた。

「俺が引き継いだときには、もう使ってなかった。渡しの縮小に合わせて外したものもある。全部を知っとるわけじゃない」

 ベノットは首を振った。

 イェスカが、紙の右端を押さえた。

「私が気になったのも、そこです。今回渡された現地の資料には、対岸と繋がる設備はないと書かれていました。でも、少なくとも、昔は作ろうとしていたんです」

 実際にできたのか。できたあとで外したのか。それとも、図面だけで終わったのか。

 その違いは大きい。使わなくなった魔導器は、芯石を抜けば動かなくなる。しかし、石の下に埋めた水路は、書類の上で廃止してもなくならない。

 昨日の事故の原因を、全部それに押しつけるつもりはなかった。あれは戻りの輪を省いて試験をしたから起きた。だが、古い設備が残っているのなら、次の工事を始める前に知らなければならない。

 ドレナが机の端に置いた書類を開いた。

「まず王国側の記録を調べる。川岸を勝手に掘るなよ。対岸との連絡設備があったとなれば、私の判断だけでは扱えない」

「掘る前に、親父の控えを見る。ベノット、水番の帳簿も出せるか」

「年代が分かっとるなら探せる。今日中とは言わんでくれ」

「十分だ」

 イェスカが椅子の上で姿勢を正した。

「帝国側の資料は、私が調べます。図だけでなく、竣工と撤去の記録があるかも確認します」

「必要な照会は監視所を通す」

 ドレナはそう言って、明日の予定を書き加えた。

 俺たちの間に置かれた分かち帳には、まだ触れなかった。


 日が傾き、舟の迎えが来た。

 イェスカは泥の乾いた上着を払い、被害を書き留めた紙を自分の分かち帳とは別にしまった。護衛の一人が差し出した外套を受け取りながら、何度もこちらを見るので、忘れ物でもしたのかと思った。

「何かあったか」

「明日のことを、帳面で伺おうとしてしまいました」

 俺も、つられて小屋の机を見た。

 いつもなら戸を閉めたあとで、今日の続きを書けばよかった。眠る前に思いついた小さなことも、翌朝に返事が来ると思えば、そのまま書けた。今は、それをするだけにも許しがいる。

「明朝の立ち入りが認められたら、監視所から知らせる」

 ドレナが言った。

 イェスカは礼を返したが、まだその場を離れなかった。俺は、朝よりいくらか見慣れた顔を見た。帳面では、こういうとき余白に小さな点が増える。書きたいことを決めかねて、筆先を何度も置くのだ。

「聞きたいことがあるなら、今、聞け」

「……今日、ご一緒して分かりました。私、完成した図を送れば、見ていただいたつもりになっていました。使う人のことも、ちゃんと説明したつもりで」

 川からの風で、彼女の髪が頬へかかった。

「織機の左の脚を緩めてはいけないことなんて、図だけでは分かりませんでした」

「俺も、あの人に聞かなきゃ外してた」

「はい。だから、まず聞くんですね」

 その返事に、俺はうなずいた。

 六年教えても、まだ伝えていないことが山ほどある。逆に、俺の知らないところで身につけたものもある。今日九本の風を通していた手を思い出しながら、包帯の上から自分の指を軽く押さえた。

「明日、織機を見に来られるなら、同じ家だからって同じことをやろうとするなよ。一晩経てば、乾き方も変わる」

「はい。最初から、見直します」

 イェスカは今度こそ護衛のほうへ歩き出しかけ、振り返った。

「それと、お師匠様も、お怪我の手当てを忘れないでください。さっき、楔を抜くときに庇っていました」

「見てたのか」

「隣にいましたから」

 そう言って笑った。

 帳面には書かなかった痛みまで、会ってしまえば分かるらしい。

 舟に乗るとき、彼女は今度は板が掛かるのを待った。離れた岸から手を振ることはせず、深く一礼する。俺も軽く頭を下げ、舟が川の真ん中へ出るまで見送った。

 ベノットは、古い帳簿を探しに行くと言って帰った。ドレナが机の書類をまとめる間、俺は父親の図面の写しをもう一度見た。持ち帰ることはできない。だが、あの短い赤字は覚えた。

 急ぐときほど順番を省くな。

 まずは父の控えを探す。その前に手を洗って、薬を塗り直す。明日の朝には、パンを一つ余分に買っておく。

 帰り支度をする俺に、ドレナが背中から声を掛けた。

「オルヴェン。明日の点検にも、君の同行が必要だ。引き受けるか」

 道具袋の紐を、今度は口を使わずに結んだ。

「ああ。弟子が、乾き具合を見に来るからな」


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