第一話 弟子の就職先を、俺は聞いていなかった
不定期投稿予定です。
教え子から就職の報告が届いたので、俺はまず祝いの言葉を書いた。
六年だ。どこの誰とも知らない相手の魔法陣に赤を入れ、たまに愚痴を聞き、こちらの愚痴はなるべく書かずにやってきた。最初は灯火一つ満足に保てなかった奴が、とうとう望んだ職に就いたのだという。めでたい話だった。少なくとも、手紙を最後まで読むまでは。
『追伸。着任先をまだお伝えしていませんでした。ヴァルゼン帝国、宮廷魔術院です。第三席を拝命しました』
俺は赤いペンを持ったまま、作業台の向こうの壁を見た。
壁には町役場が配った布告が貼ってある。酒税改定のお知らせ、堤防工事の人足募集、それから、ヴァルゼン帝国への術式情報の提供および魔導器部品の持ち出しを禁ずる布告。最後の一枚だけ、立派な王冠の印が押してあった。
もう一度、手紙を見る。国名は変わらない。見間違えようがなかった。
「……先に言えよ」
誰もいない工房でつぶやいても、返事はない。窓の外では粉挽き場の水車が回り、通りを行く魚売りが今日も値段でもめている。俺の人生にだけ、とんでもないことが起きていた。
まだ乾いていない『おめでとう』の文字が、白い頁の上で妙に明るかった。
俺が使っている帳面には、宛名を書く欄がない。
分かち帳という、今ではほとんど作られていない魔導器だ。一冊の紙を交互に二つへ分け、同じ核石の粉を漉き込んで綴じ直す。片方に書いた文字がもう片方にも浮かぶ。物は送れない。声も聞けない。ただ筆跡がそのまま伝わるだけだが、相手が遠くにいても、途中で紙が失われる心配がなかった。
六年前、俺はこの帳面を、潰れた質屋の競売で買った。欲しかったのは帳面ではなく、一緒に箱に放り込まれていた銀の導線だった。帳面は留め金が曲がり、表紙も煙で黒ずんでいて、対になる一冊は行方不明だと札がついていた。
直せば紙代くらいにはなる。そう思って留め金を起こし、切れた導線を一本つなぎ直した、その夜のことだった。
『どなたか、読めますか』
誰も触っていない頁に文字が現れたとき、俺は危うく煮込みをこぼすところだった。
相手は自分を『すずめ』と名乗った。俺は少し考えてから『余白』と書いた。署名を求められたのが頁の端だった、それだけの理由だ。まさか六年間、その名前で呼ばれることになるとは思っていなかった。
互いに本名も住所も聞かなかったのには、訳がある。相手の持つ帳面は亡くなった母親の遺品で、以前の持ち主の間では、素性を明かさないことが約束になっていたという。俺の側は質流れ品だったが、貴族や商人の秘密のやり取りに使われた物なら、持ち主を探すほうが面倒を招く。どちらも、それ以上踏み込まないほうが都合がよかった。
最初に送られてきたのは、灯火の術式だった。
ひどい出来だった。ただし、書いた人間の腕が悪かったわけではない。教本の図を丁寧に写しているのに、肝心の熱の逃がし先が抜け落ちていたのだ。そのまま動かせば、明かりが消えるたびに指先へ熱が戻る。相手はそれを、魔力の足りない自分に課された罰だと思い込んでいた。
『十七行目の折り返しを消せ。指を焼いて覚える必要はない』
俺はそう書き、図の端に小さな逃がし輪を足した。
翌朝、帳面の見開きいっぱいに『つきました』と書いてあった。大きな字の周りを、喜びすぎて筆先を止められなくなったような、小さな文字が埋めていた。灯油を買わなくてよくなったこと。両手で本を持てたこと。夜に字を読むと、母親が隣にいる気がすること。
礼の最後には、術式を試した時間と、指先の温度の変化まで几帳面に添えてあった。
俺はそれを読んで、次の頁にもっと小さな灯火を書いた。明るさは半分、その代わり消費する魔力は四分の一。寝床で読むなら、こっちで十分だろうと思ったのだ。
そこから六年。
すずめは実によく食いついた。こちらが一つ直すと、自分で三つ試す。失敗も隠さず書く。分からない箇所に丸をつけ、分かったふりをすると後で余計に叱られると学んでからは、遠慮なく頁を埋めるようになった。
俺が教えたのは、明かり、水を持ち上げる仕組み、霜を避ける囲い、崩れた壁の荷重を受ける支え。町の修理屋が日々扱うものばかりだ。傷つける術は教えないと最初に言ったら、相手も、それでいいと答えた。
工房の扉が開いたのは、俺が布告の『禁ずる』という文字を読み直していたときだった。
「オルヴェン。昨日頼んだ湯沸かし、直った?」
パン屋のトゥーラが籠を抱えて入ってきた。いつもなら扉を肘で押すところを、今日は腰で押している。籠の中身が多いらしい。焼きたての丸パンから、薄い湯気が上がっていた。
俺は帳面を閉じ、湯沸かしを棚から下ろした。
「石はまだ使える。弁の内側に水垢が詰まってただけだ。今度から月に一度、ここを外して洗ってくれ」
「それ、前も聞いた気がするわ」
「前も言ったからな」
「分かってる。でも朝の窯が忙しいと、湯沸かしの機嫌まで取ってられないのよ。いくら?」
銅貨四枚だと答えると、トゥーラは三枚とパンを二つ置いた。俺が何か言う前に、二つとも肉入りだと付け足した。交渉がうまい。俺の朝飯がまだだと、顔を見ただけで分かるのだから敵わない。
彼女は帳面をちらりと見た。赤いインクの染みたペンが、まだ俺の指に挟まっている。
「また文通? 今度こそ会いに来るの?」
「就職したらしい。立派なところに」
「よかったじゃない。あんたまでそんな顔しなくても。遠くへ行くから寂しいの?」
どこにいたのかも知らない。そう答えると説明が長くなるので、俺はパンをちぎった。肉の脂が温かく、ひどく腹が減っていることを思い出した。
俺、オルヴェン・ラグは、ラーディス王国の国境町セドで修理屋をしている。三十一歳。王都の学院を出たわけでも、魔術師の家に生まれたわけでもない。父が水門の保守係だったので、幼いころから、魔法陣は濡れた石や錆びた金具に刻まれているものだった。
紙の上できれいに動く術式が、なぜ雨の日には止まるのか。教本が同じなのに、なぜ西岸の揚水機だけ軸を折るのか。そういうことを追いかけているうちに、紙に書かれた魔法を信用しすぎない癖がついた。
「そういえば、東の水道、今朝から濁ってるわよ」
トゥーラが湯沸かしを籠に収めながら言った。
「川が増えたか?」
「水位は普段どおりだって。なのに共同栓から砂が出るの。粉を練る水は西の井戸から運んだけど、明日もあれだと腰がもたない。あんた、ついでがあったら見てきてよ」
ついでがなくても見に行くしかない。東の揚水塔を点検したのは四日前だ。俺は昼までに寄ると約束し、彼女を送り出した。
扉を閉めると、帳面の留め金がかすかに鳴った。
新しい文字が届いた合図だ。
『お祝い、ありがとうございます。お師匠様にそう言っていただけるのが、いちばん嬉しいです』
しまった。分かち帳は書いた瞬間に向こうへ伝わる。俺が衝撃を受けている間に、祝いの言葉だけは届いていたのだ。
続きが浮かんだ。
『まずは任された水防結界を、きちんと仕上げます。先日見ていただいた分流式です。西部の河岸に設置することになりました』
肉の味がしなくなった。
先日添削した図面を開く。増水時に堤防へかかる圧力を分け、川底へ逃がす術式。農地の冠水を防ぎたいという相談で、俺は土地の断面図を描かせた。地名はなかった。川幅と流速、土の種類、杭の深さだけが書かれていた。
王国の東と、帝国の西の間には、同じ川が流れている。
俺は地図を棚から引き抜き、セドの対岸を指でたどった。昨年まで葦原だった帝国側の高台に、この春、白い塔が建った。見張りの兵は、帝国が新しい軍用結界を造っているのだと言っていた。
俺はあれを、遠くから眺めたことがある。
自分の添削が採用された建物だとは、思いもしなかった。
『確認したい。設置場所は、川が南へ曲がる手前か。対岸に古い煉瓦の揚水塔はあるか』
返事はすぐには来なかった。俺はその間に、壁の布告を外して全文を読んだ。禁止が始まったのは二年前。分かち帳を拾ったのは六年前。知らなかったから勘弁してくれと頼んで、勘弁してもらえる内容には見えなかった。
ただ、そんなことより引っかかる箇所があった。送られてきた分流式の図は、俺が見た時点では三つの排水口を持っていた。しかし対岸の塔の下には、石を積んだ取水路が一本しか見えなかったはずだ。
完成後の図は、まだ受け取っていない。
留め金が鳴った。
『あります。今日も向こうの水車が見えます。どうしてお分かりに?』
俺は舌打ちした。向こうから何かを告げられる前に、聞くべきことが決まった。
『完成図を送れ。分流口は三つとも開いているか』
『二つは今、閉じています。工事責任者の判断で。試験中は一本に絞って測定したほうが、記録が取りやすいと』
俺は椅子を蹴って立ち上がった。
分流とは、行き先を分けることだ。三つを一つにしたら、それはただの加圧器になる。しかも相手の図面は川底の砂礫層へ圧を逃がすように組んである。その先に、王国側の古い取水管が埋まっていたら。
共同栓から出た砂を思い出した。
『止めろ。今すぐ。主核を抜くな、出力だけ落とせ。抜くと溜めた圧が戻る』
書き終える前に、床の下で鈍い音がした。
棚の湯飲みが震えた。窓から見える水車が、いつもの回転を一度だけためらった。川沿いで誰かが叫び、続いて、町の東から半鐘が鳴り始めた。
俺は帳面を革鞄に突っ込み、工具をつかんで外へ飛び出した。
セドの東通りは、すでに水浸しだった。
川が溢れたわけではない。道の真ん中の石蓋が持ち上がり、その隙間から濁った水が噴き出していた。樽職人の親父が店先の商品を引き上げ、洗濯帰りの女たちが、抱えた籠を頭より高く持ち上げている。子供が一人、流れてきた木靴を追いかけようとして母親に首根っこをつかまれた。
「塔の弁を閉めるぞ!」
坂の上から水道番の声がした。俺は鞄を抱え直し、石段を駆け上がった。
「閉めるな! 先に西の洗い場を開けてくれ。余った水を逃がす!」
揚水塔の入口で、水道番のベノットが大きな輪形の把手を握っていた。七十近い男だが、父と一緒に働いていたころから、腕の太さは変わっていない。彼は俺を見ると手を止めた。
「下の管が割れたんじゃないのか。閉めんと町が沈むぞ」
「川底から押されてる。ここを閉めたら、一番古い継ぎ目が全部飛ぶ。洗い場へ逃がして、その間に圧を抜く」
「上流の工事か?」
俺は川の向こうを見た。白い塔の周囲に、青白い膜が立ち上がっていた。朝の光を受けたそれはきれいだった。揺らぐ水面が、空まで持ち上げられたように見える。
その根元で、川が不自然にへこんでいた。
「たぶん、あっちだ」
ベノットは一瞬だけ口を結び、把手から離れた。それ以上は聞かなかった。俺の父が生きていたころから、この男は原因を言い当てた人間に任せる。あとで間違っていれば、きっちり怒鳴る。
塔の中へ入ると、湿った石の匂いに、焦げた金属の臭気が混じった。
主核をはめた台座には、三本の導管が集まっている。普段なら浅い緑色を帯びるだけの導線が、今は白く光っていた。水を持ち上げるための魔力が、逆に押し込まれた水を抑えようとして循環し続けている。これを放っておけば、取水管より先に核石が割れる。
俺は工具を広げ、帳面を台座の横に置いた。
『停止操作が利きません。出力を落とすと東の杭が沈みます。現場監督が全員を退避させていますが、川側の足場に三人残っています』
文字が、いつもの半分ほどの大きさで詰まっていた。余白が減ると、すずめは焦っている。六年も読んでいれば、筆跡だけで分かる。
『全体図より先に、現状の分岐だけ描け。動いている部分を黒、閉じた部分を斜線。人のいる場所に丸』
俺は書いてから、塔の天井を見上げた。昔の点検孔がある。そこからなら、屋根へ出られるはずだった。
階段を上りながら、背後の石壁がきしむ音を聞いた。
俺の教えた魔法で、俺の町が壊れかけている。
そう思った途端、足が止まりそうになった。しかし、考えている間にも水は流れ込む。六年前、指を焼いていた相手に最初に教えたことを、俺まで忘れるわけにはいかなかった。失敗を恥じるのは、熱い物から手を離してからだ。
対岸の仮設詰所では、イェスカ・ローディンが帳面に図を描いていた。
白い儀礼服の袖が、机に溜まった泥水を吸っている。宮廷魔術院第三席の任命式からまだ二日しか経っていないのに、金糸で縁取られた袖口は、すでに茶色くなっていた。
彼女は気にしなかった。いや、見えていなかった。
窓の外では、杭の一本が少しずつ傾いている。足場に取り残された職人たちは梁にしがみつき、結界の膜に阻まれて川岸へ戻れずにいた。膜を切れば、せき止めている水が足場をさらう。保てば、足場ごと杭が沈む。
「ローディン卿、撤収を」
入口に立つ護衛の声に、イェスカは顔を上げなかった。
「まだ三人います。左岸の作業主任に、予備の支柱を西へ一本ずらすよう伝えてください。勝手に膜へ触れないようにとも」
「卿まで失えば、陛下に申し開きができません」
「でしたら、私が三人を置いて逃げたと申し上げる準備は、もう少し待っていただけますか」
言い方がきつくなったと気づいたが、謝る時間が惜しかった。護衛は一度唇を引き結び、それから外へ走った。
今も、浮かんでくる赤い線に迷いはなかった。
『中央に戻り道がない。これでは停止できない。施工で省いたな』
そのとおりだった。認可された設計では、第三排水口に戻り輪がついていた。監督は、試験中の流量が少ないから不要だと言った。彼女は異議を唱えた。しかし現場の経験がない新任者の心配として笑われ、午前だけの試験という約束を受け入れてしまった。
自分の署名をした書類が、泥のついた机の端にあった。
『私が許可しました』
書くと、ペン先が少し震えた。
『叱責は後で受けます。今、どうすれば三人を助けられますか』
返ってきたのは、ひどく見慣れた言葉だった。
『まず手を止めるな。右の杭に余裕がある。荷重の六割をそちらへ渡せ。全部は渡すな、地面ごと滑る』
彼女は息を吸った。胸の奥の冷たさは消えなかったが、次に何をすべきかは見えた。
窓から右手を伸ばし、薬指につけた輪を外す。指輪は魔力を整えるためのもので、普段は宮廷の正式な術式に合わせてある。今日は、その整った流れが邪魔だった。
裸の指で空中に線を引く。白い膜の中を、細い琥珀色の筋が走った。傾いていた杭がわずかに戻り、足場の上から誰かの叫びが届いた。
まだ落ちていない。その事実だけで、喉の奥に熱いものがこみ上げた。
赤い文字が続いた。
『こちらの取水管を一度空にする。十五呼吸ぶん、川底の圧を支えられるか』
こちら。
イェスカは、その一語に目を留めた。さっき師は、対岸の煉瓦の塔について尋ねた。今、その塔の屋根に人影が見える。遠すぎて顔は分からないが、一人の男が何かを引きずっている。
彼女は帳面へ視線を戻した。
今は考えるな。十五呼吸。三人。右の杭。
『支えます。開始の合図をください』
屋根にあった古い避雷線は、思ったより丈夫だった。
俺は固定金具を外し、銅線を塔の縁から下へ垂らした。これで足りる。魔力の通り道としては太すぎるくらいだが、余裕のない細工を現場でするよりましだった。
下ではベノットが洗い場の栓を開け、二人の若い人足を連れて戻ってきた。川沿いの石畳に水が走る。工房のある通りとは逆方向へ、濁流が分かれていった。
「おい、オルヴェン。軍の連中が来たぞ」
俺は屋根から身を乗り出した。濃紺の外套を着た女が、石段を駆け上がってくる。国境警備隊の術務官、ドレナ・フェルスだ。取水設備の点検記録を読むとき、署名だけでなく数字まで確認する、少し厄介で、たぶんまともな役人だった。
「何をしているの。対岸から術が入っているわ。設備から離れて」
「離れたら核が割れる。そこの二人に、東通りへ誰も入れないよう頼んでくれ」
「分かっているの? 攻撃かもしれない」
「攻撃でも故障でも、割れる物は同じだ!」
怒鳴ってから、余計なことを言ったと思った。しかしドレナは言い返さず、同行の兵へ指示を出した。それから塔に入ってきた。俺も銅線をつかんで階段を下りた。
台座の脇の帳面には、支えるという返事がある。
ドレナの目がその頁に止まった。黒い図に赤い修正が重なっている。帝国の宮廷で使う書体を、彼女が知っているかは分からない。だが帳面を隠す余裕はなかった。
「その図はどこのもの?」
「向こうの結界だ。今、術者とつながってる」
女の手が腰の短杖へ動いた。俺は顔を上げず、台座から古い銀釘を抜いた。
「話はあとでいくらでも聞いてくれ。ここの核を押さえるのを手伝ってほしい。緑になったら維持、白くなったら半歩引いて力を弱める。押し返すなよ」
返事がなく、俺はようやく彼女を見た。
ドレナは俺と帳面を見比べていた。ためらいの向こうに、職務と、目の前で振動する台座とがある。外ではベノットが、人足へ縄を渡せと怒鳴っていた。
「逃げたら、国境を越えてでも捕まえるわよ」
「逃げられるくらい直せたら、こっちの勝ちだ」
彼女は短杖を抜き、核石の前に膝をついた。
俺は赤いペンを取り、帳面に開始の丸を描いた。
仕組み自体は難しくない。
取水管に詰まっている水を、川へ押し返そうとするから押し合いになる。町の側へ逃がし、管の中に短い空白を作る。その瞬間に帝国側の戻り輪を開けば、圧は一番抵抗の少ない空白へ流れる。そこから洗い場を通して川下へ返す。
ただし、その空白を作る間だけ、向こうの結界がすべてを支えなければならない。
俺は銅線を銀釘の穴に通し、台座の外へ大きく回した。普段なら魔力の無駄だと嫌うような、いびつで長い輪になる。長さが要った。魔力が一周するのにかかる時間を、少しでも稼ぐために。
最初の呼吸で、塔の水音が高くなった。
二つ目で、ドレナの額に汗が浮かんだ。短杖の先端が緑に光り、台座の振動が弱まる。
三つ目。外の水路に、泥の塊が噴き出した。ベノットの罵声が聞こえる。詰まりが流れたのだ。俺は導線を押さえたまま、壁際の水位計を見た。まだ高い。
五つ、六つ。
手袋の内側が熱くなってきた。俺は魔力が少ないほうではないが、これだけの水を力でどうにかする余裕はない。触れているのは、力の向きが決まる小さな継ぎ目だけだ。ここを一寸ずらせば、熱は指へ返ってくる。
八つ目で、水位計の針が跳ね下がった。
「今だ、緑を保ってくれ」
俺は片手で帳面に二つ目の丸を描いた。
向こうに伝わるまでの時間は、ほとんどない。だが、相手が気づき、手を動かすまでには、どうしても間がある。その数拍が長かった。
九つ目。銅線が床を擦り、輪の形が崩れかけた。俺は膝で押さえ、焼ける匂いを嗅いだ。ズボンだ。あとで穴を繕う面倒まで思い浮かんだ自分に、妙に腹が立った。
十、十一。
帳面に、斜めの線が走った。文字にならない。書き損じか。向こうで何かあったのか。
俺は呼吸を数えるのをやめかけ、歯を食いしばった。勝手にやめたら、すずめは十五まで支えるつもりのままになる。俺たちは声を聞けない。だから、決めたことだけは守らなければならない。
十二で、台座が大きく鳴った。
ドレナの短杖の先が白に変わる。彼女は約束どおり半歩引いた。押し返そうとしなかった。俺は銅線を回し、戻ってきた熱を石床へ散らした。
十三。
窓の外の青白い光が、上から順にほどけていった。膜が消える。川の水面が持ち上がる。
十四で、塔の下を重い振動が抜けた。
床に伏せた帳面が跳ね、工具が散らばった。外の水路が一瞬だけ静まり、それから、腹の底に響く音とともに濁流を吐き出した。
十五。
俺は銅線を台座から引き抜いた。ドレナが杖を下ろす。核石の光が、いつもの浅い緑へ戻った。
誰も、すぐには口を開かなかった。
壁の水位計は、ゆっくりと針を落としている。窓から見える川はまだ荒れていたが、空まで立っていた膜はなくなっていた。
俺は帳面を拾った。
先ほどの斜線の下に、泥のような染みが広がっていた。相手の頁に何かがこぼれたのだ。分かち帳は筆跡だけを送るが、魔力を含んだ水は、ときどきインクと同じように写ってしまう。
『三人は』
俺が書き終えるより先に、黒い文字が浮かんだ。
『全員、岸に上がりました。一人、足を折っています。医療班に渡しました』
腰が抜けた。
石床に座り込んでから、自分がずっと息を詰めていたことに気づいた。十五呼吸を数えたくせに、まともに吸っていなかったらしい。
『お前は』
少し間があった。
『叱られる覚悟はできています』
「そうじゃないだろ、馬鹿」
声に出してから、同じ言葉を帳面にも書こうとしてやめた。ペンがうまく握れない。右の手袋を外すと、人差し指の腹が赤くなっていた。
『怪我はないか』
今度は、すぐに返事が来た。
『ありません。お師匠様は?』
俺は自分の指と、膝にあいた小さな穴を見た。それから、軽い火傷だと正直に書いた。六年間、失敗も傷も隠すなと言ってきたのだから、こちらが嘘をつくわけにはいかなかった。
『すぐ冷やしてください。添削はそのあとで結構です』
俺は笑い、近くに座り込んだドレナに不審な目で見られた。
町の被害は、石蓋が二枚、割れた細い枝管が一本、床下へ水の入った家が五軒だった。
幸い、流された者はいなかった。ベノットが人足を連れて戻ってきたのが早かったことと、東通りの人間が水に慣れていたことが大きい。川沿いの町では、理由を聞くより先に荷物を上げる。
俺が冷たい布を指に巻いていると、トゥーラが塔へやってきた。工房に寄っても誰もいないので、ここだと思ったらしい。
「ちょっと見てきてとは言ったけど、ずいぶん大ごとにしたわね」
「俺が大きくしたわけじゃない」
「分かってるわよ。ほら、余った分。売りに出るどころじゃなくなったから」
渡された包みには、朝と同じ肉入りのパンが入っていた。売れ残りというには、まだ温かい。彼女は俺の手を見て、いつもより乱暴に包みの口を折った。
「明日から修理代を上げなさい。自分の手まで直す分が入ってないわ」
去っていく背中を見送ってから、俺は壁にもたれた。疲れが脚から上がってくる。そのまま目を閉じたいところだったが、ドレナが入口に立っていた。
「話を聞かせてもらえる?」
俺はうなずいた。逃げるつもりはなかったし、逃げ切れる相手でもなさそうだった。
彼女は帳面を指さした。
「相手は帝国の魔術師ね。名前は?」
「すずめ」
「ふざけないで」
「ふざけてない。本名は知らないんだ。今日、宮廷魔術院に入ったと聞いた。第三席だそうだ」
ドレナは、今度はすぐに叱らなかった。目の奥の色が変わったので、もっと悪かったかもしれない。
「第三席……イェスカ・ローディン?」
俺は初めて聞く名前だった。
「知ってるのか」
「国境の術務官だからね。帝国の人事くらいは把握するわ。去年、北部の鉱山崩落で二百人を救った結界術師。軍歴なし、学院の上級課程も出ていない。それで宮廷に抜擢された、二十三歳の女性よ」
俺は帳面の表紙を見下ろした。
鉱山の話なら覚えている。坑道の支柱の組み方について相談があった。教えたのは、全部の重さを一か所で受けるなというだけのことだ。そのあと、すずめは『少し、人の役に立てました』と書いた。
二百人を、少しで済ませたのか。
「どんな関係なの」
「図面を見てた。間違いがあれば直して、試した結果を送ってもらってた」
「いつから」
「六年前」
ドレナは目を閉じた。ほんの短い間だったが、何かを数えているように見えた。
「つまり、あの結界術師の師匠が、うちの町で湯沸かしを直していたわけね」
「教えられることを教えただけだ」
「その主張が通るかどうかは、帳面を読んでから判断するわ」
彼女は手を差し出した。俺は帳面を渡そうとして、留め金が鳴ったので手を止めた。
ドレナもその音を聞いた。開きなさいと顎で示され、俺は膝の上で表紙をめくった。
『お師匠様。確認させてください。お師匠様は、対岸の町にいらっしゃるのですか』
隠しても仕方がない。相手は実際にこちらの取水管を使い、俺はその操作を指示した。分かるだけのことは全部教えてしまっている。
俺はドレナを見た。彼女はしばらく考え、短くうなずいた。
『そうだ。煉瓦の塔にいる』
返事を待つ間、外で水を掃く箒の音が聞こえた。町が片づけを始めている。俺も本当は、そちらへ行かなければならなかった。
『申し訳ありません。私の許可した試験で、そちらにも被害を出しました』
文字は丁寧だった。焦って詰まったときの字ではなく、言葉を一つずつ選んでいるときの字だった。
『被害の記録を残してください。私の名で、工事責任と補償を申し立てます。試験命令、変更図、私の署名した許可書も保全します』
横から読んでいたドレナが、低く息を吐いた。
「賢明ね。現場で握り潰されたら、こっちは攻撃と判断するところだった」
俺はその言葉を、少しだけ柔らかくして伝えた。すずめからは『承知しました』と返ってきたあと、長い沈黙があった。
次に浮かんだ文字は、行の真ん中で一度止まった。
『それでも、これからも教えていただくことは、できますか』
俺はすぐには書けなかった。
壁には持ち出し禁止の布告がある。目の前には国境警備隊の術務官がいる。今日助けた町の人間の中には、帝国との戦で兄弟を失った者もいる。俺の父が保守をしていた水門にも、昔の砲撃の跡が残っている。
知らなかった昨日までと、知ってしまった今日からを、同じにはできない。
ドレナは何も言わなかった。俺に都合のいい助け舟を出してくれるほど甘くはなく、帳面を取り上げて答えを決めるほど乱暴でもなかった。
俺はパンの包みを脇へ置き、左手で頁を押さえた。
『今日の図面は、まだ終わっていない。省かれた戻り輪を直す。完成するまで再稼働させるな』
そこまで書いて、一度ペンを置いた。
「これだけは、やらせてくれ。止めたままでも、残った杭が崩れたら両岸に響く」
ドレナは俺の書いた文字を読み、それから窓の外へ目を向けた。白い塔の脇に、人が集まっているのが見える。
「復旧に必要な範囲だけ。私の立ち会いで」
俺はうなずき、もう一度ペンを取った。
『その先のことは、すぐには約束できない。だが、今日の報告は最後まで書け。何を許可し、どこで迷ったかも。都合の悪いところを抜くな』
向こうからの返事は、一行だけだった。
『はい。お師匠様』
最後の一文字が、わずかににじんで見えた。水が落ちたのか、インクが多かっただけなのか、俺には分からなかった。
日が西へ傾くころ、俺はようやく工房へ戻った。
ドレナが隣を歩いていた。拘束はしないが、当分は町を出るなと言われている。分かち帳は、今日の復旧作業が済んだら、ひとまず警備隊で預かることになった。
工房の扉には、修理を頼みに来た誰かが、壊れた風見と伝言をぶら下げていた。こんな日にも仕事は増える。俺は風見を外して中へ入り、作業台の上を片づけた。
すずめから届いた変更図は、七頁に及んだ。ドレナは椅子を一脚借り、こちらの点検記録と見比べ始めた。俺は古い青写真を広げ、対岸へ伝えるべき取水管の位置だけを選んで描いた。何を送ってよく、何を伏せるべきか、その都度彼女に確認した。
六年間、誰にも見られずに書いてきた赤い文字を、役人の前で書くのは妙な気分だった。
ただ、図面を見ているうちに、腹の底がじわじわ熱くなってきた。
省略された戻り輪の脇には、すずめの黒字で反対意見が残っている。二度書かれ、二度線を引かれていた。最後に彼女の署名がある。押し切られたのだ。押し切られていい場所ではなかった。それはあとで、きちんと言う。
だが、彼女の懸念を笑ったという工事責任者にも、一度会って話をしたかった。
「怖い顔ね」
ドレナに言われて、俺は赤いペンを机へ置いた。
「ずいぶん大事な教え子なのね」
「六年も面倒見てたら、腹くらい立つ」
「それを普通は、師匠と言うのよ」
反論は見つからなかった。
そのとき、外から馬の足音が聞こえた。一頭ではない。工房の前で止まると、金具の鳴る音に続いて、兵士がドレナを呼んだ。
彼女が扉を開ける。警備隊の若い伝令が、筒に入った書類を差し出した。
「対岸から、休戦監視所を経由して緊急通達です。署名は宮廷魔術院第三席。町の被害について、責任者が明朝、旧渡し場へ来るそうです」
ドレナは書類を読み、途中で俺を振り返った。
嫌な予感がした。
「工事の責任者か?」
「いいえ。ローディン本人。護衛二名、武装を預けての入町を申請しているわ。現場確認と、被害者への謝罪、それから……」
彼女は続きを黙読した。その口元が、ほんの少し動いた。
「術式指導者への面会」
俺は机の上の帳面を見た。そこには、まだ新しい文字はなかった。思わず開いた頁に、ちょうど黒い点が生まれた。ペン先を置いて、ためらっているときの点だ。
『お師匠様。明日、そちらへ伺います』
俺は頭を抱えたくなった。
来るなと言うべきか。しかし被害を出した本人が現場を見るのは筋が通っている。見ないまま書類だけで済ませるより、ずっといい。それに、彼女は今朝、川岸で三人を置いて逃げなかった。
六年分の文字を知っている。顔は知らない。
俺は赤いペンを持ち、何と書けばいいのか考えた。ドレナは書類を畳みながら、逃げるなと言ったとおりの目でこちらを見ていた。
先に、向こうの文字が続いた。
『帳面だけでは説明しきれないものを持参します。今回の工事とは別件です』
また問題か。俺はため息をつき、椅子へ座り直した。
『何だ』
短く尋ねると、相手は少し間を置いた。次の一文は、普段の報告よりもずっとゆっくり浮かんできた。
『宮廷の禁庫で、お師匠様と同じ直し方をされた術式を見つけました』
俺の指が止まった。
同じ直し方。そんなもの、似ることはある。動かない術を動くように直すのだから、辿り着く答えが同じでもおかしくはない。
そう書こうとして、続く文字を読んだ。
『赤いインクで、逃がし輪の横に小さな切れ目を三つ入れる癖まで、同じです。保管記録では、二十七年前のものになっています』
工房の奥の棚に、父の工具箱がある。
俺が小さな切れ目を入れるのは、輪を彫る職人が向きを間違えないようにするためだった。教本には載っていない。俺にそれを教えたのは、雨のたびに水門へ出かけ、泥だらけの手で帰ってきた父だ。
父は、王国を出たことがないと言っていた。
俺は棚から目を離せないまま、届いた最後の一行を読んだ。
『その術式には、ラグという署名があります。お心当たりはありませんか』
川向こうから弟子が来る。
六年越しの初対面に、何を食わせようかと悩めたなら、きっとそれが一番よかった。




