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 どのくらいどん底の気分に浸っていたのだろうか。大樹は廊下から響いてくる激しい音で我に返った。

 バンバンバンと、木の扉を叩く音がひっきりなしに聞こえている。その音にあの老女、ユキノの怒鳴り声が混じっていた。

「なんで開かないの! 開けなさい! お父さん!」

 この三日間、大樹が聞いた柔らかい声とはまるで別人のような怒り狂った声だ。

 騒いでも放っておいたらいいと老人、武司は言っていたのだ。その言葉を反芻しながら大樹はテレビの音量を上げた。聞かない事にしよう。

 が、廊下の騒ぎは一向に収まる気配がない。それどころかどなり声はますます大きくなり、叩く音も激しく速くなっていく。しまいにはテレビの音の喧しさと廊下の騒ぎが入り混じって、とんでもない大騒ぎだ。

「……駄目だ」

 耐え切れなくなって、テレビを消しソファーから立ち上がった。

 恐る恐る居間を出て暗い廊下を覗いた。廊下の突き当たりに扉があった。大樹はためらいながら扉の前に立った。

 薄い木の扉には上の方にトイレの扉にあるようなかんぬき状の鍵がついている。ドアのノブにも押し込むタイプの鍵がついていて、いずれも外からしか開けられないようになっている。鍵が二つついているにも関わらず、扉はがたがたと揺れていた。毎日のようにユキノが激しく揺さぶるため、だいぶとガタが来ているようだった。

「開けなさいよ! いい加減にしなさい! お父さん、昌平!」

 ユキノの荒々しい怒鳴り声が響き渡る。大樹はどうしたらいいのかわからないまま、立ち尽くしていたが、やがて意を決して恐る恐る声をかけた。

「そんなに叩いたら怪我しますよ」

「誰! 開けなさいよ! そこにいるんでしょ? 早く開けてよ!」

 大樹はおずおずと上の閂に手をかけた。

「……開けたら静かにしますか?」

「お願い、開けて。開けて頂戴。昌平でしょ? なんでこんな事するの? ねえ、開けて」

 ユキノは懇願し始めた。涙声になってくる。その声を聞いていると胸が痛くなってきた。

 大樹はゆっくりと閂を外し、ノブに手をかけた。右に回すとガチャっと音がして、ノブの中央で埋まっていた突起が飛び出してきた。ゆっくりと扉を引くと、その向こうには顔を引きつらせたユキノが仁王立ちになっていた。

 無言で大樹を睨みつけている。突き刺さるようなきつい目つきだ。大樹はどうしたらいいのかわからなくなり、視線をそらせた。

「あの、その、お父さんは買い物に行ったから。もう少ししたら、帰ってくると思うんですけど……」

 なんともちぐはぐな言葉だった。どういう風に振舞えばユキノは納得するのだろうか。ユキノは微動だにせず大樹を見つめている。

「……あっちで一緒にテレビ見ますか?」

 大樹は困り果ててユキノに提案してみた。しばらく仁王立ちになっていたが、やがてユキノは壁を伝うように歩き始めた。

 慌ててユキノの隣に立ち、一緒に歩き出す。ユキノは時々よろめいた。その度に大樹は慌てて肩を支える。細い身体だが、結構重みがあった。

 短い距離だがゆっくりゆっくりと歩くため、結構な時間がかかる。普通に歩けば五秒でたどり着く距離だが、三倍にも四倍にも感じた。ソファーに腰をかけたユキノは苦しそうに肩で息をしていた。

大樹は流しから湯飲みを出すと、冷蔵庫からペットボトルを出し茶を入れて、ユキノの元に運んだ。

「ありがとう」

 ユキノは湯飲みを受け取ると、美味しそうに一息に飲み干した。口の端から雫が一滴伝って落ちる。大樹は慌ててティッシュペーパーを探してユキノに手渡した。

 ユキノが落ち着くのを見計らって、大樹はテレビの電源を入れた。いきなりびっくりするような大音量が響き渡り、大樹は飛び上がった。そうだ、ボリュームがでかいままだった。慌てて音量を下げ、ユキノを見た。ユキノは驚いた様子もなく、すました顔でテレビを眺めていた。

「何、見ますか?」

 大樹はリモコンを操作しながらちらちらユキノの反応を見る。どのチャンネルに変えてもこれといって反応はない。とりあえず料理の番組を見つけたのでそこでリモコンを置いた。

 二人で黙って画面に映る鶏の煮物に見入った。


 武司は行きつけのスーパーへ足を運んだ。いつもなら必死で自転車を漕いで一分でも早く帰ろうと思うのだが、今日は気分的に少し余裕があった。

「昌平のお陰だな」

 そう呟いてから思わず苦笑する。あの少年は昌平ではない。浅川大樹だ。昌平とは似ても似つかない。にも関わらず、いつの間にか自分の中で昌平と置き換わりつつある。ユキノの病気が感染ったのかもしれない。

 スーパーの自転車置き場に自転車を止め、開店間もない店内に入った。かごを手にしながら、生鮮食品売り場をうろつく。目に付いた野菜や肉をいくつか選んだ後、レトルト食品を何点かかごに放り込んだ。

 レジを済ませ買い物袋に購入した物を入れながら、ふと思い立ち、スーパーの二階へと上がった。

 小さなスーパーなので大した衣料品は置いていないが、肌着とスウェットくらいは置いてあるだろう。昌平はこの三日間、着替えをしていない。いくらなんでも自分の服を着せるのは可哀そうというものだ。そう大きい少年ではない。背丈も百六十そこそこの自分と大して変わらなかった。自分のサイズくらいで充分だろう。

 Mサイズのトランクスと半袖の肌着、そして無難な紺色のスウェットの上下を選んだ。その隣にはベージュのトレーナー。これも買っておいてやるか。

 帰路につきながら、武司は不思議に思う。服を選んでいる時、妙に楽しかった。なんでこんな気持ちになるのだろうか。いつまで彼が居座るつもりなのか、そんな事はわからない。熱も下がった事だ、早く家に帰るように説得するのが年長者の務めというものだろう。どれだけ家の者が心配しているかをちゃんと理解させなければ。帰るのを嫌がったら、説得しなければ。なんなら、彼の悩みを聞いてやってもいい。年寄りの助言が今時の若者の助けになるとも思い難いが、それでもほんの少しでも心が軽くなるのならなによりだ。そして、気持ちよく送りだす。それが自分の果たすべき役目に違いない。

 にも関わらず、だ。

 心のどこかでこのまま彼が留まることを期待している自分がいた。今まで他人に家に入られる事をあれほど拒み続けていたのに、何故? 一体彼に何を期待しているのか。

 ペダルを踏みながら、答えの出ない自問自答を繰り返す。いつもは遠く感じる道のりが今日は少し短いように思えた。

 家に到着した。

 スーパーの袋をがさがさ言わせながら、武司は玄関を開けた。

「ただいま」

 そう言いながら、ふとユキノの部屋の方を見る。扉が僅かに開いていた。

 慌てて靴を脱ぎ、居間に飛び込んで、武司は思わず目を見張る。

 ユキノはソファーに座ってテレビを見ている。そしてその足元に大樹が座り込んでいる。

 大樹はミカンをむいていた。丁寧に白い筋を取り、それをせっせとユキノに手渡す。ユキノはそれをゆっくりと、実に美味しそうに口に運ぶ。

 二人とも黙ったまま、ひたすらその作業を繰り返していた。

 武司は言葉を失くして、その光景を見つめた。

「あ、お帰りなさい」

 武司に気付いた大樹が振り向いた。大樹の上に昌平の姿が二重写しのように重なって見えた。

「ただいま……」

 ようやくの思いで武司はそう答え、ふらつきながら部屋に入った。

 なんだろう。この空気は……。久しく忘れていた、この穏やかな空気は。もしかしたら、この部屋の柱時計の針が逆方向にまわっているのではないのか。

 武司は台所の食卓の上で、スーパーの袋から大樹の着替えを出して並べた。服と居間で座っている大樹の後姿を見比べる。細い後ろ姿はいつの間にか懐かしい姿に替わっていた。

「昌平」

 昌平と呼ばれたにも関わらず、大樹が振り返った。目まいがしそうだ。

「いや、ちょっと、来てくれないか」

 大樹は立ち上がると近寄ってきた。

「すまない、つい。ユキノのクセが感染ってしまった」

「いいです、昌平で」

 武司は何か言おうと思ったが言葉が出て来なかった。これ以上無理に喋ると泣きだしそうだ。

大樹はテーブルの上の服を見つめていたが、おずおずと口を開いた。

「これ、もしかして?」

「……君の着替えだ。三日間着替えもしてなかっただろう」

 大樹はスイッチが切れたように立ちつくしたままテーブルの上を見つめている。

「熱が下がったようだし、風呂でも入って着替えたらいい。……風呂を沸かしてくるよ」

 大樹は肌着の袋に手を伸ばし、うつむいた。肩が震えて、涙がぼたぼたと袋の上に落ちる。

「君はよく泣くな」

 武司は大樹の肩をポンと軽く叩くと風呂場へと向かった。

 自分も泣きそうだった。


<続く>

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