再生
大樹は目を覚ましていた。部屋の中はまだ暗く、豆電球の灯りが辺りを包んでいたが、雨戸の隙間から眩しい白い光が差し込んでいる。三日目の朝だった。
ボーンという渋い鐘の音が部屋に響き渡った。壁にかかった古ぼけた時計の音だ。音は八回鳴った。
大樹は腹筋で起き上がった。手をつかずに軽々と上半身が起きてくる。背中も頭も嘘のように軽い。熱はどうやら完全に下がったらしい。
布団から脱け出すと、縁側のガラス戸を開け、木製の雨戸を不慣れな手つきでゆっくりと開けた。
白い朝の光が大樹を包み込み、思わず目をつぶる。頭の芯まで凍りつきそうな冷たい空気が一気に流れ込んできた。
「さぶ」
思わず身震いしながらガラス戸を閉め、後ろを振り返った。
さっきまで暗闇の世界だった居間に新しい光が満ち溢れている。まるで別の部屋を見ているようだ。
寝乱れた布団を丁寧にたたんだ。たたみながら頭の中はとりとめなくこれから先の事を考えている。
これからどうしたらいいのだろう。そこから先に考えは進まない。いや、考えたくない。考えてはいけない。でも、どうしたらいいのだろう……。ぐるぐると答えのない思いだけが渦巻いている。
たたんだ布団を積み上げ、ソファーに腰掛けたると、ぼんやりと視線を宙に漂わせた。
しばらくすると隣の部屋から人の動く気配がし、老人が台所に入ってきた。
「お、大丈夫か」
老人はソファーに座っている大樹を見て笑みを浮かべた。
「はい」
大樹は立ち上がって頭を下げた。
「朝飯の仕度するから、ゆっくりしていてくれ」
老人は冷蔵庫を開けると中を覗きこみながら大声で言った。大樹はおずおずと老人に近づいた。
「あの……、何か手伝いましょうか」
ためらいながら声をかける。老人はびっくりしたように顔を上げた。目をぱちぱちさせながらしばらく大樹を見つめていたが、やがて嬉しそうに破顔した。目尻の皺がひと際深くなる。
「今はないな。何か出来たら頼むよ」
大樹は食卓の椅子をおずおずと引くと、ちんまりと座った。どんな顔をして座ったらいいのだろうか。お尻の辺りがむずむずしてきそうだ。
老人はゆっくりと、しかしスムーズな動きで台所を動き回っている。毎朝の決まり切った手順なのだろう。
コンロにかかっている鍋を温める。中身はどうやら味噌汁(恐らく昨夜の残り)らしい。その隣のコンロには使い込んだ大きめのフライパン。温めてから油を引き、卵を手際よく割り込んでいく。油の弾ける音が響き渡る。塩と胡椒を振って、少量の水をかけて、蓋をする。次は冷蔵庫を開け、中から野菜ジュースのペットボトルを出してきた。
この歳の男性で、これだけ台所を使えるというのはすごいと思う。父の慎吾などは、インスタント・ラーメンを作るのが関の山だ。
食器棚から皿を出し、その上に目玉焼きを乗せていた老人がふいに手を止めて大樹を見た。
「一つ、頼みがあるんだが」
「はい?」
「今日、買い物に行きたいんだ。だいぶ食材が切れていてね。いつもばあさんを部屋に入れて、鍵を閉めていく。何をしでかすかわからないから。……それでも安心できないから、ゆっくり買い物も出来ない」
大きな溜息をついた。そして大樹の顔色を伺うように上目遣いになる。
「私が買い物に行っている間、ここで留守番してくれないかな。特に何をするとか、そんな事はないんだよ。まさかばあさんの世話をしろなんて言わないから。ばあさんはいつも通り部屋に閉じ込めておく。……でも、誰かいるというだけで随分気分が違う」
いかにも言いにくそうな口調だった。大樹は一瞬迷ったが、おずおずと頷いた。老人はほっとしたような笑顔を見せた。
朝食の仕度が整うと老人は老妻を部屋から連れてきて席につかせた。
大樹がこの家に転がり込んできて、三人で食卓を囲むのはこれが初めてだ。
「いただきます」
大樹は律儀に両手を合わせると箸を手にした。老女はそれを見て嬉しそうに笑っている。そして自分も箸を持つと手を合わせた。その姿を老人はほほ笑んでいるような、少し泣いているような表情で見つめていた。
食事が終ってから老人は手早く老妻の朝の着替えをさせ、奥の部屋へと誘導した。そして自分も外出の用意をする。その間に大樹は台所を片付けた。世話になっているせめてものお礼である。
「じゃ、行ってくるから」
着古したダウンジャケットを着た老人が台所を覗いた。大樹は手を拭くと玄関に見送りに出る。
「ばあさんが部屋で騒ぐかもしれないけれど、鍵は開けなくていい。放っといてくれたらいいんだ。テレビでも見てなさい」
大樹は黙って頷いた。老人は古ぼけた革の靴を律儀に靴べらを使って履くと、玄関を出てやはり古ぼけた自転車を出して出て行った。
あの歳で自転車なんかに乗って大丈夫なんだろうか。どう見ても八十歳に近いか、それ以上か、そんな歳だ。大樹は少し心配になった。
ふいに老人の名前も知らない事に気がついた。行き倒れの自分を助けてくれて、介抱してくれた命の恩人なのに、名前すら知らないなんて失礼な話だ。
たたきに置いてある古ぼけた男物のサンダルを突っかけると玄関の外に出てみた。玄関から少し離れたところにある門がある。門扉を開けて道路に出た。
門扉の横には白い石で出来た表札がかかっている。
「坂本……」
表札の横にはところどころ塗料が剥げ、錆が浮いている赤い郵便箱がかかっていた。投函口の下の白いプラスチックのプレートには消えかかった字で『武司・ユキノ』と書いてあった。
「坂本武司、坂本ユキノ」
老人の名前は武司で、あのボケたおばあさんはユキノという名前なのか。ユキノとは綺麗な名前だ。おばあさんの名前というとトメとかツルとか、そんなイメージがあったので少し新鮮だった。
大樹はぶつぶつと口の中で二人の名前を転がしながら家の中に入った。
玄関を上がり、改めて辺りを見回す。狭く暗い玄関。黒光りした木の床。大樹の家よりもずっと低い天井。母方の親戚は関西のかなり山深い地域にあるのだが、そこの家を彷彿とさせる。母はその家を随分と嫌っていたが、大樹はそういう雰囲気が嫌いではなかった。昭和の匂いが染み付いた家だ。そこには人の営みのぬくもりがあるような気がした。
居間に戻るとソファーに腰掛け、テレビを点けた。手垢のついたリモコンをランダムに操作し、チャンネルをぱちぱちと変える。朝の賑やかな情報番組ばかりだった。特に何を見るでもなく、ふと目に付いた美味しそうなケーキが映っているチャンネルで手を止め、ぼんやりと眺めた。
ケーキの映像が終ると、可愛い顔をしたタレントがゲストで出てきた。どうやら映画のプロモーションらしく、番組を仕切っている年増の女優と撮影秘話などを披露し始めた。
大して興味のある話でもないし、面白いとも思わない。だいたいこんな時間にテレビを見ている余裕はないはずなのだ。
そう、本来なら。
大樹は両手で頭を抱え、強く目を閉じた。
自分は歩いていた道から大きく外れて、ガードレールを乗り越えて、崖の下まで落っこちたのだ。きっと這い上がる事は出来ない。這いあがったところで、自分が歩いていく道などあるはずもない。結局は地獄へ続く下り道だけだ。きっとこのまま誰からも忘れられて、この世から消えてなくなるに違いない。いや、そうでありたい、そうなって欲しかった。
<続く>




