三
朝までの数時間、友樹は時々病棟の外へ出ては電話をかけた。大樹の携帯も、自宅も一向に応答はなく、虚しく呼び出し音が続いた後には留守番電話サービスの機械的な女性の声が繰り返し流れてくるだけだった。
東の空が白み始める頃、疲れ果てた友樹と慎吾は病棟のラウンジにうなだれながら座り込んでいた。友樹の携帯のバッテリーも、二人の気力も限界だった。
「七時だよ、もうすぐ」
友樹はかすれた声で呟いた。一時間前に自販機で買ったホットコーヒーは半分も減っていないがすっかり冷めきっている。
「あのバカ、どこにいるんだ」
寝不足と疲労で声が出ない。残りのコーヒーを一気に飲み干した。とんでもなく不味い。
力なくうなだれていた慎吾が顔を上げた。目の下に隈が出来ていて、顔色も悪い。友樹よりも数倍疲れているようだった。
「……友樹、お願いだ。もう一度だけ、もう一度だけ、かけてくれ。頼む。」
友樹は頷いてリダイヤルを押した。ゆっくりと電話を耳に当てると呼び出し音が聞こえてくる。一回、二回、三回……、そしてやはり留守番電話サービスに切り替わった。
「……大樹」
友樹は言葉を探した。何が言いたいのか自分でもわからない。だがこのまま切る気にもなれなかった。
「大樹。連絡しろ。頼むよ」
受話器から聞こえてくる単調な女性の声が大樹に変わらないだろうか。そんな事はあり得ないと思いながらも喋らずにはいられなかったのだ。
「この、莫迦。さっさと連絡しろよ」
ふいに横から慎吾の手が伸びて奪い取るように受話器を持つと、叫んだ。
「大樹! 頼む! 大樹!」
その声は次第に絶叫になり、号泣に変わった。慎吾は受話器を握り締めたまま、言葉もなく泣き崩れている。
友樹はそっと慎吾の手から受話器を取り、自分の耳に当ててみたが、奇跡は起こらなかった。
友樹は電話の電源を切るとジーンズの尻のポケットにねじ込み、取り乱している父親の肩を強くつかんだ。
「大丈夫だよ。大丈夫」
何が大丈夫なのか自分でもわからない。ただ、今まで見た事もないほどパニック状態に陥っている父親を少しでも安心させてやりたかった。
その手の温もりに、混乱していた慎吾の心も少しずつ落ち着きを取り戻していくようだった。子供のような泣き声は次第に小さくなっていき、やがて慎吾は黙り込んだ。うつむいたまま、ポケットからハンカチを出し涙を拭き、鼻をかむ。
「警察に行こう」
静かな友樹の声に慎吾は小さく頷いた。
人事不省だった容子がようやく少しまともな反応を見せるようになったのは昼を回ってからだった。意識はあるものの鎮静剤でぼんやりした状態で耳鼻咽喉科に連れて行かれた。
病室では慎吾がパイプ椅子に腰掛けたままうとうとと居眠りをしていた。
車椅子に座っていた容子は看護師の手を借りてなんとかベッドに上がった。その気配で慎吾は目を開けた。容子は看護師に上半身を支えられながら、ぐったりと横になった。
「大丈夫か」
慎吾は眠い目をこすりながら容子に声をかけた。容子はゆっくりと慎吾に視線を投げかけると僅かに頷いた。
「喉、大丈夫でした。良かったですね」
看護師は軽く会釈すると病室を出て行った。看護師の姿がいなくなると容子は視線を夫へと向けた。
「……友樹は?」
絞り出すような、ひどくしゃがれた声だった。
「アイツは一回家に帰った。入院の準備をしてくれてる」
「そう」
容子は深い大きな溜息をつくと目を閉じた。
「なぁ、容子」
慎吾はためらいながら胸の上に置かれた容子の手を取った。
「話してくれよ。何があった?」
容子は目を閉じたまま眉根を寄せた。口元が痙攣し、固く閉じた目尻から涙がこぼれて落ちた。
「大樹が帰ってこない。連絡が取れないんだ」
慎吾は容子の手をさする。容子は小さく首を横に振った。
「今朝、捜索願を出した」
慎吾は妻の手をさすりながら、朝の情景を思い出していた。
あの後、二人は一度家に帰り、友樹は入院の準備を、慎吾は捜索願を出しに警察へと向かった。
警察署で捜索願の書類を提出した時に窓口にいた警察官の事務的な対応に無性に腹が立った。
「随分と事務的ですね」
嫌味をたっぷりと含んだ口調で呟く。
無表情な初老の警察官はその言葉が聞こえなかったのか、なんの反応もなく当たり前のように書類に受理印を押した。
「息子さんの場合は特別家出人という事でよろしいですね。はい、控」
受理番号の記入された薄い紙を手渡され、慎吾はそれを見つめた。まるで会社の経費の請求のようだった。こんな調子で警察は真剣に大樹を探してくれるのだろうかと不信感が込み上げてきた。
「お父さん、年間の家出人の数をご存知ですか」
警察官は初めて慎吾をまともに見た。なんの情熱も感じさせない冷ややかな目だ。
「約十万人ですよ、十万人」
慎吾は言葉を失った。
そんな膨大な人間が一年間に日常生活からその姿を消す。それぞれが色んな事情を抱え、色んな苦悩を抱えているに違いない。しかし十万人という数がその重みを皮肉にも空々しい物に変えてしまっていた。そして自分の息子も、その現実味のない数字の中に呑み込まれている。十万分の一という無機質な数字にすぎない。
「それでも我々は全力を尽くします」
瞳と同様に熱のこもらない言葉だった。慎吾は何か言い返したかったが、結局何も言えなかった。膨れ上がってくる不安な気持ちを押し殺して、黙って頭を下げるしかなかったのだ。
甦ってきた苦々しい思いを噛み締めながら慎吾は容子の手を握り締めた。
「その首、絞められた痕なんだろ?」
容子は小さく頷いた。
「大樹か? アイツなのか?」
容子は答える代わりに慎吾の手を払うと、寝返りをうち背中を向けた。
「信じたくないよ。大樹がそんな事したなんて……」
慎吾は布団の上に両肘をつくと自分の髪の中に手を入れた。掌で額をごしごしとこすりながら呻く。
「嘘だと言って欲しいんだよ。……でもな、このまま何もしないで放っておいたら、取り返しのつかない事になるかもしれないだろ? それでもいいのか?」
容子の背中が震えている。
「大樹を助けなきゃならんのじゃないか? 何があったのか、ちゃんと教えてくれ。頼む」
慎吾は容子の背中をゆっくりと撫でた。容子は声を立てずに泣いていた。ひとしきり泣いた後、背中を向けたまま消え入るような声で重い口を開き始めた。
<続く>




