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 夜中の事だった。

 がたがたがた……と、扉を激しくゆさぶる音が暗い廊下に響く。ユキノの部屋と居間の間にある部屋で寝ていた武司は、その音で目が覚めた。

 ユキノだ。武司は顔をしかめながら起き上がった。枕元にたたんでおいた綿入れを羽織り、どっこらせと声を出しながら立ち上がる。豆電球の黄色い光の下で時計を見ると、まだ夜中の三時すぎだった。

「お父さん! お父さん!」

 廊下に出ると扉のがたつく音に混じってユキノの叫び声が聞こえる。

 武司は溜息をつきながら開錠し扉を開けた。

「夜中の三時だぞ、寝なさい」

「お父さん、昌平が呼んでますよ! 昌平!」

 ユキノは武司を押しのけるように部屋から出た。しかたなく武司はユキノの身体を支えながらついて歩く。

 ユキノはまっすぐ奥へと向かう。

「夜中だぞ、昌平もよく寝てるから。静かにしなさい」

 うんざりした声でユキノをなだめるが、ユキノの耳には届いていない。台所の戸を開け中に入ると、

「昌ちゃん!」

 と、大声で呼んだ。

「こら、止めなさい。せっかく寝てるのに」

 武司は慌ててたしなめた。

「昌ちゃん!」

 ユキノの声に驚いた大樹が居間の布団の中で飛び起きるのが見えた。

「昌ちゃん!」

 ユキノは居間に入ると、布団の上できょろきょろしている大樹に抱きついた。

「昌ちゃん、どこに行ってたの」

 ユキノは大樹の両手を取ると額を押し当てて泣き始めた。

「昌ちゃん。昌ちゃん」

 何が起きたのかわからないといった表情で大樹は泣いているユキノを見つめている。

 武司はふいに胸が詰まった。

 ユキノの心の中には昌平を失った悲しみがずっと眠っていたのだ。もうかれこれ四十年も経とうかというのに、その悲しみは生々しくユキノの心の中に刻まれていたのだ。ユキノは待ち続けていたのだ。息子の帰りを。

 立ち尽くす武司の目から涙があふれた。古ぼけた家の中の時間が、音を立てて渦巻き始めたような気がした。忘れていた、いや、忘れようとしていた過去へ向かって……。


 坂本家がこの家に越してきたのは、昌平が中学に入学した年だった。それまでは武司の勤めている会社の社宅に住んでいたのだが、郊外に新しい住宅地が出来たので思い切ってマイホームを購入した。世の中は高度経済成長期の只中にあった。別にそれに浮かれていた訳ではなかったが、ごみごみした街中よりも少し通勤の時間はかかっても緑の多いベッドタウンに惹かれた。

 当初、昌平は引越しを嫌がっていた。校区が違うので、小学校からの友人と離れ離れになるからだ。中学校では誰も知った顔がいない状態からのスタートになる。

 武司はあまり心配していなかった。昌平は底抜けに明るく、社交的だった。大人しいユキノとクソがつくほどの真面目な武司の子供とは思えないような活発な少年だった。

「お前ならすぐに友達も出来るよ。いいじゃないか、友達が増えると思えば」

 今にして思えば無責任な言葉だったが、武司の言葉を昌平はしぶしぶ受け入れた。

 武司の予想通り、昌平はすぐに新しい環境に慣れた。野球部に入り、毎日真っ黒になりながら中学生活を楽しんでいた。そればかりではなく、昌平は小学校時代の友人とも暇を見つけては交流していたようだった。

「中学にもなると部活も学校も楽しい事ばかりじゃないよ」

 時々昌平はそんな事をユキノにこぼしていたらしい。悩みなど縁のないように見えていたが、小学校時代の友人に会って気分転換をしているようでもあった。

 

 その日は土曜日だった。午前中で授業が終ると、昌平は飛んで帰ってきた。

「昼から山本くんに会ってくる」

 ユキノの用意していた昼ごはんをかきこみながら、昌平は言った。

「山本くんって、小学校の?」

 小学校時代に特に親しくしていた友人だ。野球仲間で、以前はよく家にも遊びに来てくれた。母親同士も交流があった。

「盲腸で入院してるんだって。昨日電話したらオバサンが言ってた」

「あら、可哀想に」

「ちょっと見舞いに行ってくる」

「見舞いって、バスで?」

「ううん、自転車。バスと電車乗り継ぐより自転車の方が早いよ」

 ユキノは少し不安げな表情を浮かべた。最近この近辺は新しい造成地の開発中のため大型車の出入りが多い。時々交通事故の話を聞いた。

「バスで行ったらいいのに……。危ないわよ」

「大丈夫だよ。よく知った道だから。庭みたいなもんだって」

 昌平は真っ黒に焼けた顔に快活な笑みを浮かべた。

 食事が終るとすぐに昌平は出かけていった。


 夕方になって武司が帰宅するとユキノが玄関の所に立っていた。

「どうした。迎えとは珍しい」

 武司が茶化すと、ユキノは心配そうな顔で武司を見上げた。

「昌平がまだ帰ってこないんですよ」

 武司は腕時計を見た。季節は初夏なのでまだ明るいが、六時半だった。坂本家の門限は六時だ。

「まだそれほど経ってないじゃないか」

 武司は中に入って靴を脱ぎながら笑った。

「門限を過ぎるのはいただけないが、男の子だからな。夢中で遊んでたら時間を回ることもあるだろうよ。」

「ええ……。でも今日はお友達のお見舞いに行くって。外で遊びまわってるとも思えないし」

 ユキノは武司のカバンを受け取ると玄関を上がった。

「自転車で出かけたんですよ。バスで行けって言ったのですけれど」

「まぁ、もうちょっと待とう。あんまり遅いようなら久しぶりに一喝だな」

 武司はそう言って笑った。

 だが七時を回っても昌平は帰ってこなかった。ユキノは心配して山本家へ電話をした。

「昌平くんなら今日お見舞いに来てくれましたよ」

 電話の向こうで山本の母の声が響いた。

「何時くらいに失礼しました?」

「さぁ……。四時半くらいだったかしら。あの、昌平くん、もしかしてまだ?」

「ええ。どこかに寄るとか言ってました?」

「いいえ。今日はこのまま帰るって……。」

「そうですか。ありがとうございました」

 ユキノは電話を切ると居間のソファーに座っていた武司の傍に駆け寄った。

「どうしましょう。四時半には帰ったんですって。おかしいわ」

 おろおろしながら武司の腕をつかむ。

 のんきに構えていた武司もさすがに心配になってきた。

「ちょっとその辺まで見てこようか。母さん、立ち寄りそうな友達の家に電話をしてみろ」

 武司は立ち上がり玄関に向かった。軒下に停めてある自分の自転車を出し、道路に出した。電話の音が聞こえた。きっと昌平にちがいない。武司は自転車のスタンドを立てて、家の中を窺った。

 その時、ユキノが叫んだ。

「お父さん! お父さん、来てください!」

 聴いた事のないような緊張した声に、武司は思わず自転車を放り出して家に駆け込んだ。

 受話器を握り締めたままユキノはすわり込んでいた。蒼白な顔で受話器を武司に渡した。

 嫌な予感を感じながら武司は受話器を受け取った。


 二人は隣の市にある救急病院に駆けつけた。診察の終った人気のないロビーを必死で走り、病室の扉を開けた二人の目に飛び込んだのは、頭に白い包帯を巻き、口に人工呼吸器を挿管され、輸血のチューブがつながっている痛々しい姿の昌平だった。

「昌平!」

 ユキノは意識のない昌平にすがりつき泣き叫んだ。

 武司は頭から血の気が一気に下がり、一瞬倒れそうになった。よろめくようにベッドの柵に身体を預ける。

「一体なんで……。」

「五時過ぎに救急搬送されて来られました。交差点で曲がろうとしたトラックに巻き込まれたそうです」

 心電図のモニターを覗いていた若い医師が武司にそう言った。

「運ばれて来られた時には心肺停止状態でした。いま何とか心拍は戻ったんですが、自発呼吸が戻るかどうかは……。今夜が峠です」

 医師は言いにくそうにそれだけ言うと軽く頭を下げ、病室を出て行った。

 武司はへなへなと床に膝をついた。

 息子の名を呼び続けるユキノの声が静まりかえった病棟に響いていた……。


「もう四十年も前の話だ。」

 長い思い出話を終え、武司は細く長い息を吐いた。声が震えそうになるのを抑えるためだった。しばらく感じていなかった、しめつけられるような胸の痛みが甦る。

 大樹は布団の上で胡坐をかいて座り込みながら、武司の話に耳を傾けていた。その膝に寄り添うようにユキノは大樹の布団の上で胎児のように丸まって眠りについている。大樹の手を大切そうに握り締めていた。

 武司は寂しそうに呟いた。

「新しい記憶はどんどん無くなっていくんだがね、反対に古い記憶は鮮明になるみたいだ。今のユキノの時間は逆に流れてる」

 大樹はユキノを見た。大樹のまなざしは優しかった。薄汚れて、かすかに尿臭の漂うユキノを静かに見つめている。

 やがて大樹は口を開いた。

「僕、息子さんに似てますか?」

「いや」

 武司は小さく笑った。

「全然タイプが違うな。昌平はいかにも腕白な感じだった。君は大人しそうだし、勉強も出来そうだな。あいつは遊ぶのに忙しくて、勉強はからっきしだったよ」

 武司は笑いながら少し涙ぐんでいた。昌平の屈託のない、笑顔が脳裏に浮かんだ。胸の奥が締め付けられる。自分とて、息子の事を忘れたい訳ではない。しかし、思い続けるにはあまりにも辛すぎた。その思いの上に、仕事の事や趣味の事、そして介護の事をかぶせて行くことで隠そうとしていたのかもしれない。ユキノにしても同様だったに違いない。それが今、覆いかぶせて蓋をしていた色んな記憶が一つずつ剥がされ消え去って行くことで、息を吹き返した。

「つらい……な」

 武司は洟をすすりあげ、うつむいた。

 大樹は武司を見つめ、それからユキノをまた見つめた。そしてもう片方の手でそうっと、ユキノの手の甲を覆った。

 夜の帳の中を、静かに時間だけが流れていた……。


<続く>

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