混迷
大樹が家を飛び出した後の浅川家はどうなっていたのか。大樹には知る由もなかったが、浅川家にも激しい嵐が到来しようとしていた。
浅川家に友樹が帰宅したのは十一時を回っていた。家庭教師のバイトが終った後、大学の友人と一緒にコンパに行っていたのだ。友人達は二次会に繰り出して行ったが、友樹はどん底の極みにいる弟と母親との事が心配で一次会で引き上げてきたのだった。
高校進学について大樹が悩んでいるのはわかっていた。特に相談を受けたことはないが、時々大樹がこぼす言葉から大樹がブラスバンドにこだわっているのは伝わっていた。
「兄貴はいいよ。受けたいところ受けられるだけの頭があってさ」
大樹の呟きは嫌味にも聞こえた。
確かに自分が高校受験の時には志望校にあまりこだわる事はなかった。高校に入ってまで陸上や野球に没頭する気はなかったし、のんきに帰宅部を決め込んで、適当に勉強して、適当に遊んで、大学に進むという無難な計画を練っていた。そしてその通りの今がある。許されるならばこれから先も無難に行きたい。野望? そんな下剋上の戦国時代じゃあるまいし。将来の夢は勿論、「安定した生活」だ。真面目にコツコツ。ザ・日本人。野心家の友人からは小市民などとからかわれるが、そんなもの一向に気にならない。安全・安心・安定。なんと素敵な響き!
「……な~んてね」
そんな事を考えると、無意識のうちに口元がわずかに歪む。
自分は器用貧乏なのだと思っている。なんでもそこそこ器用にこなすが、これといって突出した才能はないのだ。そんな事は自分が一番よくわかっている。物にはならないとわかっている才能にしがみついて、自分を駆り立てるなんていうのは柄ではない。父親の要領の良さと母親の凡庸さを受け継いだのだろう。そういう自分を少し嘲りながらも、良しとしているところが自分なのだと友樹は納得していた。
自分はそんな調子だが、ブラスバンドにこだわっている弟が不器用に思えてならない反面、密かにうらやましくもあった。あんな風に打ち込める純粋さを自分は持ち合わせていない。
そう言えば、高校の時の彼女には「いつもニコニコしていて優しいように見えるけど、実は全然私の事なんか好きじゃないんでしょ」と言われて振られた。女の勘というのは案外鋭いものだと、その時妙に納得したものだ。確かに、彼女の事は嫌いじゃなかったが、それほど好きという事もなかった。
そんな友樹にとっても、このところの家の中の雰囲気の悪さには頭の痛いところだった。容子と大樹は顔を突き合わせると険悪で陰湿な言い争いをしていた。お互いに妥協という事は頭になく、ひたすらお互いの意見をぶつけているだけの平行線。言い合うだけ時間の無駄というものだ。そんな頭の悪い言い争いは傍で聞いているだけでもイライラしてくる。
自分の母親を悪く言うのもなんだが、容子は恐ろしいくらい平凡で短絡的だ。だから、とりあえず「はいはい」と言う事を聞いておけば安心する。ある意味間単にあしらえる性格なのだ。にも関わらず、要領の悪い、バカ正直な弟は真正面から激突していた。例え、ブラスバンドへの想い熱く語ったところで容子が大樹の繊細で複雑な心情を理解する訳がない。そして大樹も、自分の思いをまっとうしたいならもっと早くに手を打っておかなければならなかったのだ。要するに、トランペットの練習と同じくらい真剣に、早くから受験勉強をしておくべきだった。友樹に言わせれば、どっちもどっちなのである。
「二人とも頭悪いよ」
友樹は心の中でそう呟きながら二人の間に立っていた。
目の前には家の扉があった。ここを開ければ、またいつものとげとげしい空気が自分を待っている。
「ああ、やだやだ~」
わざと軽薄な鼻歌を歌いながら、玄関先に立ちポケットから鍵を出した。鍵穴に突っ込んでまわそうとする。
「あれ?」
鍵は開いているようだった。こんな夜中に無用心な事だ。
「ただいま~」
中に入り、鼻歌の続きを歌いながら廊下を進み居間に入って、そこで足が止まった。
容子が床に倒れている。身体をくの字に折り曲げて、ぴくりとも動かない。
「ちょ、ちょっと! 母さん!」
コンパの酔いも鼻歌も一瞬で消え去り、慌てて容子に駆け寄る。容子の周りには吐しゃ物が悪臭を放っていたが、友樹は構わず容子の上半身を抱き起こした。
「母さん! 母さん! どうしよう、母さん!」
何度か大声で呼びかけると容子の口からうめき声が漏れた。
「救急車、そうだ。救急車だ。」
おろおろと慌てふためきながら電話に飛びついて一一九を押した。応対に出た男性の声が的確に質問を重ね、友樹は何度か噛みながらもなんとかそれに答えた。男性は姿勢の確保の指示をしてくれた。
「患者さんをあまり動かさないで、救急車を待ってください」
「はい!」
友樹は電話を切ると、救急隊員に言われた通りに容子の体勢を整える。おろおろしながらバスタオルを身体にかけてやった。
「そうだ、父さんだ」
床に転がしてあったカバンから携帯電話を出すと、父親に電話した。
「珍しいな、友樹か。どうした」
父ののんきな声が流れてくる。声の向こうには飲み屋のざわめきが聞こえてきた。友樹は思わず叫んだ。
「母さんが倒れた! 今救急車に連絡したよ。早く帰ってきて!」
「え?」
電話の向こうで呆然としている様子が伝わってきた。それと同時に、マンションの外に救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
「救急車が来たみたいだ!」
電話を持ったままベランダから下を見ると、救急隊のストレッチャーが救急車から出されるのが見えた。
「一度切るから! 病院わかったらすぐ連絡する!」
友樹は電話を切ると玄関に走った。ひっそりと静まり返っていたマンションの中がにわかに騒々しくなった。
<続く>




