二
あっという間に粥と卵を食べ終わり、薬を飲んだ。そして大樹はもう一度布団に横たわった。
「それだけ食べられたら大丈夫だ」
老人は笑いながら食器を片付けた。大樹はふう……と大きな息を一つした。ようやく指先にまで血が通いだしたような気がする。
ふとさっき自分の枕元にいた老女の存在を思い出した。
「あの、さっきのおばあさんは……。」
「あれは奥で寝てるよ。夕べは君の傍から離れなかった。……ちょっとボケててね」
老人の言葉は少し歯切れが悪い。
「君の事を自分の息子と思い込んでしまっていてね、どうしても離れなかった。すまないね、うっとおしかったかな」
「いいえ」
正直なところ、前後不覚で眠っていたので傍に人がいた事にすら気付かなかった。
「ゆっくり寝てなさい。すぐに良くなるだろう。若いから」
老人は盆を下げた。
台所へ向かう老人の後ろ姿を眺めていたが、やがてゆっくりと目を閉じる。
息子、息子、息子……。呪文のように口の中で言葉を転がしていると、またしてもゆるゆると眠気が訪れる。今度は心地よい眠りだった。ぬるま湯の海に漂っているようだ。この眠りにたゆたいながら、全部忘れてしまいたかった。
台所を片付け終わり、少年の方を見ると少年はまた眠っていた。
「よく寝る……」
うらやましい限りだ。歳を取るとなかなか熟睡出来ない。
少年の寝顔はこころなしか先ほどよりは穏やかに見えた。公園の暗がりの中ではよくわからなかったが、まだどこか幼さを留めた顔立ちで、色白の少年だ。目尻に涙の痕がついていて、それがまた幼さを引き立てているように見えた。
居間の長押に少年のコートがかけてある。そのポケットをまさぐると、黒い合皮の財布が出てきた。他にはなにも入っていない。
勝手に財布の中身を調べるというのは、少々後ろめたい気もするが、ちらりと少年の顔を見てから、財布を開いた。紙幣はなく、小銭が入っているだけだ。どこから来た子かはわからないが、これでは電車賃も満足には出せないだろう。
財布のポケットにはレンタルビデオの会員証が入っていた。そこには小さなへたくそな字で名前が書いてあった。
「浅川……大樹か」
少年、大樹の顔を再び見た。武司の顔に微かな笑みが浮かぶ。
「大樹という感じではないな」
その他にはコンビニのレシートくらいで連絡先のわかりそうなものは入っていないようだった。武司は財布をポケットに戻した。家出少年であることは間違いなさそうだったが、これではどうしようもない。
「さて、どうしたものかな」
武司は小さく溜息をついた。
昼過ぎになりユキノを起こしに離れへと行く。ユキノはいそいそとベッドから出て台所へと向かった。
台所に入るときょろきょろと視線を走らせ、居間に布団を見つけると一直線にその傍らへ向かう。
「昌≪しょう≫ちゃん」
嬉しそうにそっと声をかける。
「よく寝てるから起こすなよ」
武司が声をかけると、
「わかってますよ。ね」
そう小声で言いながら愛おしそうに大樹の額にかかる髪をかき上げてやる。
そういえばユキノは、よく眠っている息子の髪をかき上げていた。昌平が亡くなった時も、冷たい額をずっとああやって撫でていたことが思い出された。
それにしても、ユキノが居間に少年がいる事を覚えていた事は驚きだ。最近のユキノの記憶はせいぜい二分。傷のついたレコードのように同じ話を短時間で何度も繰り返す。そんな彼女が、息子と勘違いをしているとはいいながらも、大樹の存在を記憶している。新しい事がまだ入る余地が残されていたのかと思うとささやかな希望を感じた。
ユキノを食卓に座らせ、少し遅い昼ごはんを二人で食べる。食べながらもユキノはずっと大樹を眺めていた。
「昌平、よく寝てますね」
「ああ」
ユキノの穏やかな顔を見ていると、「昌平ではない」とはとても言えなかった。
食事の後、武司が片付けにかかるとユキノはそろそろと伝い歩きながら居間へ移り、大樹の布団の横に押しやったソファーに腰掛けた。大樹の顔を覗き込んではニコニコしている。そこに息子がいるという事だけで満足しているようだった。
穏やかな昼下がりだった。
「やれやれ、今日は一日中台所に立ってる気がするよ」
後片付けを終えた武司は手を拭きながらユキノの隣に座った。静かな寝息を立てながら熟睡している大樹をしげしげと眺めてみる。
彼らの一人息子であった昌平とは全く似ていない。大樹は線の細い色白の文学少年という感じだが、昌平はよく陽に焼けて真っ黒だった。野球部に所属していて、毎晩遅くまで外で素振りをしているような少年だった。十四歳という若さで亡くなったが、生きていたらもういい中年だ。もしかしたらこの少年の両親よりも年上かもしれない。大樹は息子というよりも孫の年齢だろう。
「……似てるか?」
武司はつぶやいてみたが、ユキノにその声は届かなかった。
夕方になってようやく大樹は目を覚ました。ゴソゴソと身体を起こし、台所のテーブルで新聞を読んでいた老人に声をかける。
「あの」
「お、起きたか」
老人はかけていた眼鏡を外し、大樹を見た。
「あの、トイレを借りていいですか」
「おお、トイレな」
廊下の方を指差した。
「出て、すぐ前の扉だ」
大樹はゆっくりと布団から出るとゆっくりと立ち上がった。頭がくらくらし、ガラス戸にもたれかかる。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
大樹はゆっくりと慎重な足取りで武司の傍を通って廊下にでた。身の縮むようなひんやりした空気に包まれ、思わず身震いした。
トイレの中は更に冷え込んでいる。用を足しながら胃の辺りが縮こまるような気がした。
慌てて台所に戻り、温かい空気に体の緊張がほどける。頬を少し緩めた老人と目が合い、ばつが悪くなった。
布団に戻るか、それとも武司の傍の椅子にかけるか悩んだ末、また布団に戻り、その上で正座した。
「どうだ、気分は」
「あ、だいぶいいです」
実際背中の痛みは薄れていて、あれだけ重かった頭も軽くなっていた。
「熱、下がったかな」
武司はよっこいしょ、と椅子から立ち上がると体温計を大樹のところに持ってくる。
大樹は受け取った体温計を二、三度強く振ると脇に挟みこんだ。
「丸一日寝てたな」
「一日……」
大樹はうつむいた。まだ一日しか経っていないのか……。時間の感覚がどうにかなっているようだった。
「一晩でも子供が帰ってこないと親は心配なものだ。早く帰らないとな。まぁ……、なんだな、色々事情はあるだろうけど。せめて電話くらい入れないと」
老人が言葉を探しながら大樹の顔色を窺がっているのがわかった。その言葉を聞きながら、頭の中に悪夢がくるくると回りだし、大樹の身体が小刻みに震え始めた。
大樹の様子を見て老人はうろたえた。
「大丈夫か。無理するな。……まぁ、なんだ」
老人は腰を上げて大樹の隣に座った。そして恐る恐る大樹の背中に触れた。
大樹はびくっと飛び上がった。まるでお仕置きされる子猫のようだ。
「……何があったか知らんが、体調が戻ったらな。とにかく、まぁ、まずは体力を戻して」
老人はそっと背中を撫でてくれた。
大樹はうつむいたまま膝の上でコブシを握り締めた。身体の震えはなかなか止まりそうになかった。
二日目の夜が静かに訪れようとしていた。
<続く>




