邂逅
高熱に浮かされて見る夢は、現実と空想がとろとろと混ざり合って、マーブル模様のようにくるくると頭の中を巡る。
倒れた母の姿。
腰を抜かしながら電話にすがる大樹。
幽鬼のように手を伸ばし、大樹の足をつかむ母。
恐怖と絶望の悲鳴を上げながら這いつくばり逃げだす大樹。
喉が裂ける程叫びながら走っているうちに、知らない街に紛れ込む。
灰色のコンクリートの塊のような殺風景な建物が立ち並ぶ、迷路のような街。どこをどう歩いても、同じような景色ばかり。
だんだん建物が自分を押しつぶそうと迫ってくる。
息が詰まるような圧迫感と恐怖から逃げ出そうと大樹は無我夢中で走り続ける。
足が重い。まるでプールの中を走っているみたいだった。
いつの間にか世界はオレンジ色に染まっていた。日が暮れようとしている。もうじき夜が来る。
どうしよう、どうしよう。
大樹はうずくまり夜の影におびえる。
大樹はいつしか子供になっていた。
幼稚園の制服を着て、黄色いカバンを肩からかけて、うずくまりながら泣きじゃくる。
迷子になっちゃった。お母さん……。お母さあああん。
ふいに優しい温もりが幼い身体を抱きしめてくれる。
「もう大丈夫よ。おかえりなさい」
優しい暖かい声が耳元に響く。
ああ、お母さんがようやく見つけてくれたんだ……。
暖かく耳元に響く懐かしい旋律。
音の方へと大樹の意識は浮かび上がっていく……。
ぷかり。
ふいに目をあけると、古ぼけて茶色く変色した木の天井が見えた。見覚えのない天井だ。
ゆっくりと目を閉じて、また開ける。視界はなんとなくぼんやりしていて、少し曇った眼鏡越しに見ているようだ。手でまぶたを強く擦ってみた。手もまぶたもぼんやりと浮いた感じがする。
大樹は布団の中にいた。白い綿のカバーで覆われた布団は、大樹のそれよりも随分重くて少し古い匂いがした。
自分は何故こんな布団に寝ているのだろう。
「起きた?」
耳元で囁くようなしわがれ声が響いた。驚いて声の方を向くと、白髪の老婦人の顔がアップで見えた。しわくちゃの顔に笑みを浮かべながら、おもむろに手を伸ばし大樹の額に押し当てた。
「あ……」
思わず身体を固くする。あわてて起き上がろうと身をよじったが、身体は鉛のように重く、老女に背を向けて肘で上半身を支えるのがようやくだった。
「起きたのか?」
今度は男の声だった。
「ほら、ユキノ。朝御飯食べて」
急に目まいを感じて、大樹は一度布団に横たわった。とても起きられそうにない。仕方なく顔をだけを声の方に向ける。
少し猫背の老人が先ほどの老女を抱えるように立たせて、食卓に連れていく姿が目に入った。
夫婦だろうか。それにしても二人とも随分な歳のようだ。老妻は足が不自由なようだ。手でガラス戸や食卓を持ちかえながら身体を支え、そろそろと移動していた。その身体に手を添えている夫はしっかりと歩いてはいたが、細身で顔色も悪く、疲れた感じが漂っている。
大樹は改めて周りに目をやった。
古ぼけた居間の中央に大樹の布団があり、足元には埃の浮いたテレビが置いてあった。ごちゃごちゃと菓子折りや貰い物の箱が床の間に積み上げられ、部屋の隅に押しのけられた座卓には雑然と新聞や雑誌、あられのラベルが貼られた銀色のアルミの箱が乗っかっている。その座卓の横には山のような洗濯物がきちんと畳んでおいてあった。
狭い板張りの縁側があり、その向こうにガラス戸があるようだった。カーテンをひいてはいたが、その隙間から眩しい光が真っ直ぐな線を描いて部屋の中に差し込んでいた。その光の中をゆっくりと埃が舞うのが見える。
首をめぐらせると、居間に続いている台所が見えた。台所にはこじんまりした食卓があり、そこで二人の年老いた夫婦は食事を取っていた。二人とも黙々と食べていたが、時々夫が妻の世話を焼いていた。
テーブル越しに使い込んだ流しやガスコンロの台が見える。冷蔵庫も食器棚も目につく物の全てが、大樹の家のシステムキッチンとはかけ離れている。なんともみすぼらしく雑然としていて、古臭い。昭和の匂いとでも言うのだろうか。
身体を起こしてもっと周りを見ようとしたが、少し身体を起こすとやはり目まいがする。諦めて枕に頭を落とすと大きな溜息をついた。頭がガンガンし、背骨がきしむように痛む。背骨どころか、体中の関節がギシギシと錆びついたような感じだ。鼻の奥にも水を吸い込んだ時のような感覚があった。
ここは一体何処だろう……。ぼんやりと考えながら大樹はまた眠りに落ちた。
「また寝たのか?」
声をかけられ大樹は目を覚ました。老人が心配そうに覗き込んでいる。
「気分はどうだ? 少しはましか」
そういいながら水銀の体温計を大樹の目の前に突き出した。大樹はノロノロとそれを受け取ると、布団の中でセーターの裾をまくり脇に差し込んだ。ひんやりしたガラスの感触に少し目が覚めた。
「あの……、僕」
なにか言わなければと思うのだが、なにを言えばいいのかわからなかった。
老人は眉をひそめた。
「あんな所で寝てたら、そりゃ熱も出るよ」
「あんな所……」
大樹はしばらく意味がわからず考え込んだ。が、ふいに悪夢のような記憶が蘇って来た。悪夢だったらどんなにいいだろう。しかしそれは夢ではなく現実だ。
ぎゅうっと胸がつまり、涙がこぼれた。両手で瞼を強く押さえつけたが涙は止まらなかった。
「あのまま死ねばよかった……」
「バカな事を言うな」
老人の静かな、しかし厳しい声が飛んだ。
「若いモンが私らより先に逝ってはいかん」
そう言いながら立ち上がり、台所に向かう。
大樹は必死で込み上げる涙を抑え込もうとしていた。
老人が戻ってきた。手には茶碗の乗った盆があった。
「腹が減るとろくでもない事ばかり考えるもんだ。……といっても、なんせ年寄り二人で、私が主夫なもんでね。大した物はないのだが」
大樹の枕元にその盆を置く。茶碗の中は大きな梅干しが乗った白い粥。その横の小皿にはつるんとしたゆで卵。
老人は皺だらけの手で大樹の脇を指差した。
「ほれ、体温計」
大樹は涙でぐしょぐしょになった顔を袖で拭い、体温計を抜いて武司に差し出した。
「こんな細かい字、読めない。君、自分でみなさい」
大樹は体温計の目盛りを読んだ。
「八度五分です……。」
しんどいはずだ。
「何かちょっと食べて。薬、普通の風邪薬しかないけど一応飲んでおきなさい」
武司はごちゃごちゃした座卓の上の、あられのアルミ缶の蓋を開けた。どうやら薬箱だったようだ。その中からガラスの小瓶を出してきた。
大樹は促されるまま、上半身を起こし茶碗を持った。熱い粥を少し口に入れる。ほのかな塩味が美味しかった。ずるずるとすするように粥をかき込み、梅干を口に入れる。強烈な酸味に耳元がきゅーっと痛んだ。
よくよく考えれば、家を出てから温かい食べ物を口にするのは初めてかもしれない。死んでしまいたいと思っているのに、ただの白粥がこんなにも美味しいと思う自分が情けない。
涙がぼろぼろこぼれる。泣きながら粥をすすり、ゆで卵を口に押し込む。そしてまた嗚咽する。
「泣くか食うか、どっちかにしたらどうだ? のど詰めるよ」
あきれたように老人が笑った。
<続く>




