五
しかし現実は厳しかった。武司の思いをせせら笑うようにユキノの様子は酷くなっていった。
いつの間にか、ユキノはベッドから自分で下り、部屋から出るようになった。勿論しっかりと立って歩けるはずはなく、ベッドから滑り落ちるように下りると、這いつくばって移動するのである。時折壁を伝いながら中腰で歩いている事もあった。皮肉な事に、病院でのリハビリは上手くいかなかったのに、家の中でじたばたするうちに足の力が多少ついて、よたよたしながらも歩くようになってしまったらしい。
腰が抜けるほど驚いた事があった。真夜中に物音に気付いて廊下に出ると、ユキノが髪を振り乱しながら廊下を這いずり回っていたのだ。それはまるでホラー映画か悪夢かのような情景だった。
身震いしたのは情景の恐ろしさだけではない。この調子では近いうちに一人でうろうろするようになってしまう。以前のように自分で歩き回り、下手をしたら外に行ってしまう。それも、こんな恐ろしい姿で……。
仕方なくユキノの部屋に外付けの鍵をつけた。武司が外出する時や夜は施錠するようにした。うっかり外に出て、怪我でもしたらどれほど大変な事になるか。やむを得ない。自分にそう言い聞かせた。
が、そんな簡単な話ではなかった。閉じ込められるとユキノは部屋の戸を狂ったように叩き続けた。窓の存在に気付くと窓のガラスを叩き割った。ガラスの砕ける音に驚いて中に飛び込むと、ユキノはガラスで手を切って血まみれになりながら、窓枠に手をかけていた。
仕方なく窓の内側から板を打ち付けた。おかげで部屋の空気の入れ替えすら出来なくなってしまった。
ユキノの部屋は事実上の座敷牢と化した。
ユキノが帰って来て一カ月が過ぎた。
今日の夕食の仕度が出来た。魚の煮付けとほうれん草のお浸し、豆腐の味噌汁とご飯。よくよく考えれば、昨日も似たような献立だった。味噌汁の具がねぎだった。
「どうでもいいこった」
武司は呟いた。どうせ食べるのは自分と何を食べているかもわからないユキノだ。
ユキノの代わりに家事をするようになったとは言え、料理のレパートリーはそうそう増えるものでもない。たまには洋風のメニューでもと思って料理番組を見るのだが、手順が多すぎたり、使った事のない食材だったり、作ってみたいとも思えなかった。結局武司の作る事の出来る洋風料理はカレーくらいだ。
元気な頃のユキノは料理が得意だった。武司は和食が好きだから洋食を作ることはあまりなかったが、それでも時々はハンバーグやフライなどを作っていた。つまみを作るのも上手で、たまに会社の同僚を連れて帰ると手早く酒の肴を作ってくれた。結婚を控えた部下には「やっぱり嫁さんは料理が上手な女がいいよ」などと余計なアドバイスをしたものだ。
テーブルの上の彩りのない料理を眺めて、思わずため息をつく。そんな頃が懐かしい。
武司はユキノを食堂に連れてくるためにユキノの部屋に入った。ベッドでイモムシのように布団をかぶっているユキノを起こす。
「おい、ご飯だよ」
ユキノはもそもそと身体を起こし、武司に肩を支えられながらベッドから降りた。ゆっくりゆっくりと歩き始める。
「随分大人しいじゃないか、今日は」
武司はユキノを覗きこんだ。いつもなら悪態の一つ二つを口にするのだが、今日は随分と素直に武司の誘導に従う。ユキノは無表情だった。
それほど長い廊下でもないのに、食卓に着いた頃には武司もユキノも肩で息をしていた。
「我が家はいつの間に豪邸になったのかね」
思わず苦笑いする。
無表情の妻を椅子に座らせ、濡れたおしぼりを渡す。おしぼりを持ったまま固まっているので、武司は仕方なく妻の手を拭いた。おしぼりを引いて、代わりに箸を手渡す。ユキノは箸を握ったまましばらく目の前の皿を見つめていた。
「これ、食べるの?」
「そうだよ。お前のだ。食べなさい」
おずおずと箸が魚に伸びる。へたくそな箸使いで身をつついていたが、面倒くさくなったのか、手で魚の身をほぐし始めた。
手が魚臭くなってしまうな。武司はやれやれ……と溜息をついた。ふと見ると、ユキノの手の爪が随分伸びている。そろそろ切ってやらなければならない。そういえば、風呂にもしばらく入っていなかった。
武司は無心で夕食を食べるユキノからそっと離れると浴室へ向かった。湯船に湯を溜め始めると食堂に戻った。
武司もテーブルについた。時折ユキノの手元に皿を移動させたり、湯飲みを渡したりと世話を焼く。ユキノはちらりと武司を見るが何も言わずにがつがつと夕食を食べた。
夕食が終ると武司はユキノを浴室へ誘導した。
「どこ行くの……」
「久しぶりに、風呂に入ろうな」
「お風呂ならもう入ったじゃないですか」
「寒いから、あったまればいい」
ユキノは薄いパジャマだったので小さく震えていた。脱衣場でなんとかパジャマを脱がすと、そのままゆっくりと浴室へ入り、シャワーで充分にかけ湯をしてやる。
「ああ、温かい」
珍しく上機嫌だ。武司は小さくしなびた妻の身体をゆっくりと擦ってやった。骨の浮いた背中が痛々しい。
「魚臭いんだから、手、しっかり洗おうな」
武司はユキノの手を取るとごしごしこすった。こする度に、薬指のくすんだ指輪がくるくると回る。結婚する時に武司が送ったものだった。指の節がすっかり太くなってしまい、ちょっとやそっとでは抜けそうにない。まるで身体の一部のようなものだった。
白い髪にシャワーをかける。少し嫌がったが、それでも大人しくされるがままになっていた。
髪を洗い、身体を流し、慎重に湯船に誘導する。ユキノは恐る恐る肩までつかると、
「いい湯ですねぇ」
そう言いながら目を細めた。
「そうか。良かったな」
武司の顔も思わずほころぶ。こんな日が毎日だとどんなにいいだろう。
「よく風呂の中で歌を歌ってたなぁ」
武司は遠い昔の光景を思いだした。ユキノが幼い息子を風呂に入れる時にはいつも中から歌声が流れてきた。
「夕焼け 小焼けで 日が 暮れて」
ふと口ずさむ。ユキノの顔に優しい笑みが浮かんだ。
「山の お寺の 鐘がなる
おてて つないで みな かえろ
カラスと 一緒に 帰りましょう」
久しぶりに聞く妻の声は狭い浴室によく響いた。
風呂から上がり、清潔なパジャマを着せる。そして居間へとユキノを連れて行った。居間はストーブが点いていて暖かい。ストーブを隣の台所に移動させ、ガラスの戸を閉めた。火の近くにはとても置いておけないが、戸を閉めておけば急に冷え込む事もないだろう。
ユキノをソファーに座らせ、自分の丹前を羽織らせると、テレビのスイッチを入れた。ユキノはテレビの画面に視線を投げかけた。
「ついでにベッドのシーツを換えてくるから」
武司は急いで寝室に向かった。最近はベッドから出る時間が少ないのでシーツや布団カバーを換えるチャンスが少ないのだ。この機会に全部交換してしまう事にした。
大急ぎで汚れたカバーとシーツを取り外し、新しい物に取り替える。シーツはいいが布団カバーは一人では大仕事だ。すっかり換えるのに少し手間取ってしまった。
なんとかベッドを整えると、消臭スプレーをたっぷり部屋の中に撒いた。こうしておけば、少しは匂いもマシになるだろう。
山のような洗濯物をまだ温もりの残る脱衣場の洗濯機に放り込み電源を押した。
久しぶりに味わう爽快感だった。武司はささやかな満足感に浸りながら、ごとごとと揺れる洗濯機を眺めた。
「やっと出来たよ」
武司は居間に戻った。
ソファーに座っていたはずのユキノの姿がない。暖かかったはずの部屋はいつの間にか冷え切っている。見ると、庭へ向かっているガラス戸が開け放たれていた。
慌てて庭に下りる。いない。猫の額のような庭だ。隠れる場所などあるはずがない。犬走りを通って表に向かったに違いない。そんな莫迦な。まともに歩く事も出来ないのに、そんな事が出来るはずがない。いや、普段歩きにくいのは武司に抵抗しているからで、自分から動こうという時には予想に反してすばやい動きになるではないか……。
武司の頭の中でぐるぐると色んな思いが駆け巡った。
「莫迦が!」
武司は犬走りを横向きにすり抜けると表に向かった。玄関先の門扉がわずかに開いていた。やはり通りに出てしまったらしい。
武司は外に駆け出した。
外は夜の帳に包まれていた。家の前の公園にはぽつりぽつりと外灯が灯っているだけで、静まり返っている。
それほど長い時間ではない。あの足なのだ。そんなに遠くに行けるはずがない。この辺にいるはずだった。
武司は公園に駆け込んだ。
公園の端に藤棚があり、その下にベンチがある。そのベンチの前に丸まっている人影があった。
外灯のわずかな光の下でもそれがユキノであることはすぐに分かった。
また転倒したに違いない。武司は慌てて駆け寄った。
「ユキノ! お前、いい加減に……」
怒鳴りながら近づいて、武司は思わず言葉を失った。
ベンチの前にしゃがみこみながらユキノは歌を歌っていた。そしてベンチの上には胎児のように身体を丸めて眠り込む少年の姿があった。
不思議な光景だった。ユキノの手は歌に合わせて少年の身体を軽く叩いている。神々しいまでに穏やかな表情だった。
「ユキノ?」
武司は恐る恐る声をかけた。ユキノは顔を上げると唇に人差し指を当てた。
「大きな声を出さないで。昌平が起きるじゃありませんか」
「昌平……って、おまえ」
そんなはずがなかった。それよりもこんな寒空の下、こんな所で眠っている人間がいるということが信じられなかった。浮浪者でもこんな場所でこんな寝方はするまい。
「ちょっと君、酔っ払っているのか? おい。起きなさい」
武司は少年の肩をゆすった。
「お父さん、止めてくださいよ。せっかく寝たのに起こしたら駄目じゃないですか」
ユキノが慌てた様子で武司の手を掴む。
「ユキノ。こんな寒い所で寝ていたら風邪をひくだろう。とにかく帰ろう。昌平は連れてかえるから」
そうでも言わなければユキノは納得しない。ユキノの手をひっぱり、なんとか立たせると家に向かった。せっかく風呂で温まったのにすっかり身体が冷えている。
ユキノを自室に入れ、鍵をかけると公園に戻った。
少年はまだベンチに横たわっていた。本当に眠り込んでいるようだ。中学生くらいだろうか。
「君、起きなさい。こんな所にいたら風邪ひくよ。ほら」
武司は肩をゆすった。少年は顔をしかめたが起きようとしない。体調が悪いのだろうかと思い、武司はその額に手を当ててみた。自分の手が冷たいせいもあるのだろうが、少年の額はかなり熱い。自分の額に手を当て、もう一度少年を触る。
「……熱があるじゃないか。こんなところにいるなんて何考えて……。起きなさい! 大丈夫か!」
先ほどよりも強くゆさぶる。少年はようやく目を開けた。
「大丈夫か? 救急車呼ぶから、ちょっと待ってなさい」
武司が家に戻ろうとすると少年は弾かれたように身体を起こし、武司の上着の裾を引っ張った。悲痛な声で叫ぶ。
「大丈夫です! 起きますから! 大丈夫です」
「しかし」
「大丈夫です。すみません」
少年はふらりと立ち上がり、公園の外に向かって歩き始めた。武司は心配そうな表情でその後ろ姿を見送る。
「!」
道路に辿り着く前に少年はその場にへなへなとうずくまった。慌てて少年に駆け寄った。苦しそうに喘いでいる少年の背中をさする。
「言わんこっちゃない。やっぱり救急車を」
「駄目です。お願いです……。このまま放っておいてください。いいんです。僕なんて」
少年はすすり泣き始めた。
武司は溜息をついた。事情はわからないが放っておけるような状態ではなさそうだった。
「わかったから……。私のうちはすぐそこだから、とにかくうちに来なさい」
<続く>




