四
とりあえず頼れるのは民生委員のさえ子だけだった。さえ子は快く動いてくれた。彼女が精力的に動いてくれて、なんとか小さな居宅支援事業所に連絡をつける事が出来た。電動ベッドと、ポータブルトイレそして車椅子をレンタルし、自宅でユキノの面倒を見られるように環境を整えた。これで当面はなんとかなるだろう。リハビリも不十分なユキノは前ほどうろうろすることもないだろうし、家に帰れば少しは落ち着いて過ごせるだろう。その時は本気でそう思えた。
ユキノが家に返って来たのは一月の末だった。その日から武司の地獄の日々が始まる事になった。
ろくに歩けもしないのに一人でベッドから降り、その場に尻餅をつく。トイレに行くのは無理だろうと考えてベッドの横においてあるポータブルトイレには移ることすらできない。おかげで気がついたら汚物まみれになっていた。そもそもポータブルトイレで用を足すという事に考えがいたらないらしい。 そして、武司に怒られると思うのか、汚した下着やズボンを脱いで枕の下に隠す。そしてそれを咎めると、逆切れするという始末だ。トレーニングパンツというオムツを穿かせてみたが、汚れたパンツをやっぱり脱いで隠すというのは同じことだった。
汚れた身体を洗おうと風呂場に連れていくのがまた一苦労だ。折れた右足をかばうため、右側から体を支え、引きずるように廊下を歩く。その間中、ユキノは痛い痛いと叫び続け、武司の腕を振り払おうとじたばたする。まるでどこかの誘拐犯のようだった。これでは自分がユキノをいじめているように見えるではないか。そんな莫迦なことがあるものか。自分は妻を介護しているんだ。そう自分に言い聞かせながら、込み上げる怒りを押さえつけながら、結局最後はユキノをはがい締めにして廊下を歩く事になる。
一週間もすると武司の身体が悲鳴をあげるようになった。腰が痛い。いや、腰どころか体中が筋肉痛だった。それと比例するように、だんだんユキノの部屋は汚物の匂いがこもるようになってきた。ユキノの姿もどんどん薄汚くなっていく。綺麗好きだったかつての姿はどこにもない。わかってはいたが武司にはどうする事も出来なかった。
時々ユキノの部屋の窓を開けて空気を入れ替える。せめて空気だけでも新鮮な空気にしなければ汚物がその辺りをぷかぷか浮いているような気になる。
痛いくらいに冷たい空気が流れ込むと、部屋の臭気が一気に押し流され、気分が少し晴れる。二月の空気は冷た過ぎてそう長くは開けていられないが、それでもその瞬間は武司にとってはささやかなリフレッシュの時だった。
窓を開けると公園が目の前にあり、公園と道路の境目には何本かの桜が植わっていた。武司達が移り住んだ頃はまだ細い若木だったが、四十年近くの間にしっかりした幹と枝ぶりになっていた。毎年見事な花が咲き、普段は静かな公園もこの頃には花見客がたくさん訪れる。この窓は花見に持ってこいの場所だった。ここでユキノと二人、毎年ささやかな花見をしてきたものだ。
窓から見える二月の公園はまだ色彩がなく寒々しい。あと二カ月やそこらで花が咲き乱れるとはとても思えなかった。
もしかしたら、今年の桜は見られないかもしれないな……。ふとそんなことを思った。
民生委員のさえ子は坂本夫妻の様子が気になるようで、以前にも増して坂本家を訪ねるようになった。これをきっかけにもっと坂本家に関わりたいと思っているのだろう。
何度目かの訪問の時、玄関先に立ったさえ子の表情がかすかに歪んでいる事に気がついた。
「……奥さん、大変なんじゃないの?」
「なんでかね」
「……おトイレとか……」
言いにくそうにもごもごと口ごもる。そんなに匂うのだろうか。武司は鼻で息を吸ってみたが何も感じなかった。
「匂う……かな」
「……ちょっと」
あかの他人が「ちょっと」などと言うという事は、相当匂うのだろう。武司の胃がきりきりと縮こまる。
「お父さん、ちょっと顔色悪いわ。大丈夫? だいぶ、無理なさってるんじゃないの?」
さえ子は心配そうな表情で武司を覗きこんだ。
「ケアマネさんからも聞いたけど、全然連絡取ってないんですってね?」
武司は視線をそらした。
「大きなお世話と言われるでしょうけど……。せめてヘルパーくらい入れたらどうですか」
武司は固い表情で首を横に振る。
「この物騒なご時勢に他人を家に入れたくない。……どこの誰ともわからん人に家の中をガチャガチャ触られたりもしたくない。……それに、なんで他人様の世話にならなきゃならんのです? 私がいるのに」
「お父さん一人じゃ倒れちゃいますよ。どこか、老人ホームとか、せめてショートステイとか、奥さんを預ける事も出来るんですよ。ちょっと休憩しなくちゃ、お父さんまで倒れちゃうわ。……言っちゃなんですけど、金銭的には充分余裕あるんじゃないですか?」
かたくなな武司の態度にいら立ちを感じたのか、さえ子の口調が強くなった。責められているように感じて、武司の頭にかっと血が上った。
「あんた、自分の亭主が倒れたらすぐに施設に入れてしまうのか? 自分は見る気ないのか? それでも夫婦か? あんたと違って私はそんなに薄情にはなれないね」
「そんな事言ってるんじゃありませんよ。第一、薄情とかそういう問題じゃなくて、共倒れが心配だって言ってるんじゃないですか! 多いんですよ、最近。特に男の人の介護は……」
「ちゃんとやってるよ! メシもちゃんと食わせてるし、着替えもさせてる。その辺の三食昼寝付きの暇な主婦より、よっぽど私の方がきっちりしてるつもりだよ」
自分でもどうしてこれほど腹が立つのかわからなかった。さえ子が心配してくれているというのはよくわかっている。それなのに、口から出る言葉は自分でもどうしようもないくらいに刺々しい。
さえ子の白い顔が赤く染まる。
「わかってますよ。だから余計心配なんです! なんでもかんでも自分で出来ると思わない方がいいんですって。もう少し福祉を使う事も考えてくださいよ。税金払ってんだから、使ったらいいんです。……お父さんの身体を心配してるんじゃないですか。若くないんだから、無理しないで」
「さっきからお父さん、お父さんって。あんたにお父さん呼ばわりされる筋合いはないよ。それに自分が若くないなんて事は自分が一番よく知ってる」
武司はさえ子を遮るように言葉を重ねた。
「あんたの気持ちはありがたいけど、放っておいてくれないか。はっきり言って、ありがた迷惑だ。他人の世話にも、あんたの世話にも、福祉の世話にもなりたくない。自分らの事は自分らでなんとかする。……悪いけど、帰ってくれるかな」
さえ子は何か言おうと口をパクパクさせたが、ふいに肩を落とした。そして大きな溜息をつく。
「……今日は、失礼します」
のろのろと玄関の扉を開けると外に出た。
「悪いね。もう、こないでくれ」
武司はその背中に釘をさす。
さえ子は黙って扉を閉めた。扉の向こうで「頑固じじい!」と小さく毒づくのが聞こえた。
そう、頑固じじいだ。自分達はそういう世代なのだ。そのどこが悪い。そうやって時代を支えてきたんだ。根性も気合も失った若い世代に何がわかる。
武司は玄関のカギを閉めた。
<続く>




