第3話:米俵
風が耳元で唸っていた。
木々がものすごい速さで後ろへ流れていく。
視界はぐるぐる回り、胃が浮くような感覚がいつまでも続いていた。
「ひ、人攫いーーっ!」
ミリヤムは男の肩の上で必死に叫んだ。
返事はない。
黒髪の男は大木の枝から枝へ飛び移りながら、地面を走るよりも速い勢いで森を駆け抜けていく。
眼下には巨大な爪痕や、へし折られた木々。
遠くからは魔獣の咆哮まで聞こえてくる。
どう考えても、安全とは程遠い場所だった。
「聞いてますか!」
「聞いている」
「じゃあ降ろしてください!」
男は少しだけ考えるように黙り込んだ。
そして。
「……捨てていこうか」
「えっ」
「この辺りは魔獣だらけだが」
「えっ」
「構わないなら」
「構います!」
食い気味だった。
男はわずかに眉を上げた。
「そうか」
「うぅ……」
ミリヤムはぐっと言葉を飲み込む。
確かに、ついさっきまで自分は教会の仲間に剣を向けられていた。
この男が現れなければ、どうなっていたか分からない。
「……すみません」
「何だ」
「安全な場所まで連れて行ってください」
返事がない。
「お願いします」
しばらくして、男は短く答えた。
「素直が一番だ」
「……はい」
「おとなしく運ばれろ」
「はい……」
不本意だったが、今は従うしかない。
*
しばらく揺られているうちに、少しだけ冷静になってきた。
すると、別のことが気になり始める。
「それにしても」
「何だ」
「なんで私、米俵みたいに運ばれているんですか」
男の肩の上から抗議する。
「もう少しこう……抱え方ってあるじゃないですか」
「例えば」
「例えば……」
言いかけて、止まる。
お姫様抱っこ。
……いや、それはもっと恥ずかしい。
横抱き。
……知らない男に?
「……」
「ないようだな」
「あります!」
「黙ってろ、米俵」
「ひどい!」
男の肩を軽く叩いてみる。
びくともしない。
その時、前方の茂みがガサリと大きく揺れ、巨大な狼型の魔獣が飛び出した。
「きゃああああ!」
しかし、男は足を止めない。
片手を軽く振った。
ドゴォンッ!
鈍い音と共に魔獣が吹き飛び、木へ激突する。そのまま動かなくなった。
「…………え?」
「うるさい」
「今、何したんですか?」
「殴った」
「殴った!?」
理解が追いつかない。
さらに進む。
また魔獣。
また吹き飛ぶ。
また魔獣。
また吹き飛ぶ。
また魔獣。
やっぱり吹き飛ぶ。
「…………」
ミリヤムは考えるのをやめた。
「あなた」
「何だ」
「強いんですね」
「そうか?」
「そうです」
今さらながら、名前すら知らないことに気付いた。
「私はミリヤムです」
「知っている」
「え?」
「さっき聞いた」
そういえば。
『ミリヤム様!』
『ミリヤム様!』
『ミリヤム様!』
ネストリが何度も叫んでいた。
「あ……」
「じゃあ」
ミリヤムは口を尖らせる。
「あなたは私の名前を知っているのに、私はあなたのことを何も知らないんですね」
「そうなる」
「不公平です。お名前、教えていただけませんか?」
男は前を向いたまま答えた。
「ウルヤナ」
それだけだった。
会話が終わる。
(変な人です……)
ミリヤムは心の中で呟く。
(よく喋る米俵だ)
ウルヤナも心の中で呟いた。
「それにしても」
「何だ」
「力持ちですね」
「そうか」
「足も速いです」
「そうか」
「魔獣も片手で吹き飛ばしましたし」
「そうか」
「凄いですね」
「ペラペラとよく喋る米俵だな」
「ひどい」
ミリヤムは頬を膨らませた。
「説明してください」
「黙れ」
「気になります」
「……」
「今、舌打ちしました?」
「していない」
「しましたよね?」
「気のせいだ」
「絶対しました!」
ウルヤナは返事をしなかった。
正確には、返事をするのを諦めた。
魔獣よりも、この米俵の相手をするほうが疲れる気がした。
*
やがて森を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
「……!」
ミリヤムは思わず息を呑む。
目の前には高く積み上げられた石壁と、空へ伸びる見張り塔。
重厚な鉄の門の外には、城塞を囲むように深い堀まで築かれている。
魔獣から人々を守るために造られたのだと、一目で分かる堅牢な造りだった。
「砦……?」
「城塞だ」
「人が住んでいるのですか?」
「住んでいる」
「へぇ……」
ミリヤムは目を丸くした。
魔域に暮らす人々と聞けば、小さな集落や洞窟のような場所を勝手に想像していた。
まさか、一つの町ほどもある城塞都市だとは思ってもみなかった。
「おーい!ウルヤナー!」
門の上から大きな声が飛ぶ。
見張りの男が身を乗り出し、大きく手を振っていた。
「帰ったか!」
「ああ」
「討伐は?」
「終わった」
「そうか――」
そこで男の視線が、ウルヤナの肩の上に止まる。
「何その米俵」
「人間です!」
ミリヤムはすかさず抗議した。
「俵じゃありません!」
見張りの男は目を丸くする。
「米俵が喋った」
「だから人間です!」
「ぶはっ!」
盛大に笑われた。
理不尽である。
「……ヨアキム、うるさい」
ウルヤナは気にした様子もなく門へ近付く。
門番――ヨアキムは笑いながら、改めてミリヤムを見つめた。
教会の制服。
胸元に刻まれた聖印。
途端に、笑いが引っ込んだ。
「……あれ?教会の人間じゃん」
ミリヤムも口をつぐむ。
ヨアキムはウルヤナを見る。
もう一度見る。
さらにもう一度見る。
「……アスワド様の胃痛がひどくなりそう」
「仕方なかった」
「何したの」
「緊急事態だった」
ヨアキムは深いため息をついた。
「ふーん……」
今度は値踏みするようにミリヤムを見る。
「普通の娘に見えるな」
「普通です」
「教会の人間なんでしょ?」
「……はい」
「しかもウルヤナが拾ってきた」
「拾われました」
「米俵として?」
「違います!」
また笑われた。
ヨアキムは肩をすくめる。
「ま、とりあえず入れよ」
「いいのですか?」
思わず聞き返す。
教会ならあり得ない。
正体不明の人間を、こんな簡単に受け入れることなど。
しかし、ヨアキムは不思議そうに首を傾げた。
「追い返して魔獣の餌にしろって?」
「いや……」
「最終的にはアスワドが決めるだろ。とりあえず報告してくる」
門を開けながら振り返る。
「アスワド様かわいそ」
「……」
「……」
ミリヤムとウルヤナは無言だった。
「絶対、胃薬飲むことになる」
そう言い残し、ヨアキムは笑いながら階段を駆け下りていった。
ミリヤムはぽつりと呟く。
「アスワド様って……大変な方なんですね」
「ああ」
即答だった。
「そんなにですか」
「そんなにだ」
その言葉だけで、何となく苦労人なのだと理解できた。
*
重い門をくぐる。
道の両脇には石造りの家々が並び、煙突からは夕餉の煙が立ち上っていた。
鍛冶場では職人が槌を振るい、露店には野菜や干し肉が並ぶ。
荷車を押す男、井戸端で談笑する女たち、追いかけっこをする子どもたち。
犬まで元気よく駆け回っている。
どこにでもある町並みだった。
ミリヤムはきょろきょろと辺りを見回す。
「なんかこう……普通ですね」
ウルヤナがちらりと横目で見る。
「何がだ」
「魔域に住んでいる人って……もっとこう……」
「こう?」
「殺伐としているというか……共同体って感じじゃなくて……もっと恐ろしい場所かと」
ウルヤナは呆れたように息を吐いた。
「教会側なら、どうせこちらを悪魔か何かと思っているんだろう」
ミリヤムは視線を逸らした。
「角とか、生えているのかと」
「生えてないわ」
即答だった。
「すみません」
「本当にそう思っていたのか」
「少しだけ」
「少しじゃないだろう」
「……結構」
「そうか」
完全に呆れられた。
二人は通りを歩いていく。
改めて見ても、角の生えた人など一人もいない。
笑い合い、働き、暮らしている。
ただ、それだけだった。
「皆さん……普通ですね」
今度の言葉には、偏見も恐れもなかった。
純粋な驚きだけがある。
ウルヤナも、それに気付いたらしい。
「俺たちだって元は人間だ。お前らと同じだ」
ミリヤムは黙って耳を傾ける。
「違うのは、魔素への適性が高かっただけだ。だから魔域で暮らせる」
そこまで言ってから、ウルヤナは続けた。
「そして、ここで暮らしていくしかなかった」
ミリヤムは足を止めかけた。
〝暮らせる〟ではない。
〝暮らすしかなかった〟。
その違いが胸へ刺さった。
教会では、穢れ者は自ら人間社会を捨てた者たちだと教えられてきた。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
追われた人も、居場所を失った人も、少なくなかったのではないだろうか。
そんな考えが、初めて頭をよぎる。
「……ごめんなさい」
思わず口から零れた。
「何故謝る」
「私……何も知りませんでした」
ウルヤナは肩をすくめる。
「聖女候補なんだろう」
「はい」
「そりゃ真綿に包まれて育つようなものだ。さぞ大事にされていたんだろうな」
その一言に、胸が少しだけ痛む。
「……はい」
ルツィエも。
ネストリも。
教会のみんなも。
優しかった。
だからこそ、あの出来事がまだ信じられない。
「穢れだとか何だとか。ただの偏見だ」
ウルヤナは前を向いたまま言った。
ミリヤムは顔を上げる。
市場では笑い声が響き、子どもたちが元気よく走り回っている。
そこにあるのは、ごく当たり前の人の営みだった。
「そうですね……」
ぽつりと呟いた、その時。
「ウルヤナー!」
甲高い声とともに、小さな女の子が駆け寄ってきた。
十歳くらいだろうか。元気いっぱいに手を振っている。
「その人だれ?また拾ってきたの?」
「拾った、って……」
ミリヤムが困ったように笑う。
ウルヤナは平然と言った。
「一応、人間だ」
「一応って!」
女の子はミリヤムを見上げ、にこっと笑う。
「私はエーリカ!あなたは?」
「ミリヤムです」
「ふーん」
エーリカはくるりとウルヤナを見た。
「アスワド様、また『胃が痛い』って言いそうだね」
「……」
「……」
せっかく少しだけしんみりした雰囲気が、見事なまでに台無しだった。
ウルヤナは小さくため息をつく。
「たぶんな」
「即答なんですね!?」
ミリヤムのツッコミが、夕暮れの城塞に響き渡った。




