第2話:約束の代償
教会の墓地は、朝の静けさに包まれていた。
白い石碑が整然と並ぶ一角で、ミリヤムは手を合わせる。
新しく建てられた墓碑には、ルツィエの名が刻まれていた。
「……行ってきます」
小さく呟く。
風が吹き、供えられた花を揺らした。
返事はない。
それでも、見送られたような気がした。
「ミリヤム様」
振り返ると、聖騎士ネストリが立っていた。
真面目一徹、という言葉がよく似合う青年だ。
「ご心痛、お察しいたします」
「ネストリさん……」
「ルツィエ様の志は、私たちが受け継ぎます」
ネストリは真っ直ぐに胸へ拳を当てる。
「そして私たちは、命に代えてもミリヤム様をお守りします」
その瞳に、一片の曇りもない。
離れた場所では、討伐隊の仲間たちが小声で囁いていた。
「ネストリのやつ、神様より聖女様を信仰してないか?」
「ルツィエ様、亡くなって神格化したな」
「違いない」
「聞こえてますよ」
ネストリが真顔で振り返る。
「ルツィエ様を茶化さないでください」
「怒った」
「ほらな」
小さな笑いが起きる。
ミリヤムも思わず笑ってしまった。
*
討伐隊は街道を離れ、荒野を進んでいた。
進むほどに草木は減り、大地は灰色へと変わっていく。遠くには、黒い霧に覆われた森が見えていた。
「あれが魔域ですか……」
ミリヤムは森を見つめ、小さく呟く。
人が暮らす土地にも魔素は存在するが、薄く拡散しているため害はない。
だが、魔域だけは別だった。
濃密な魔素が大地に染み込み、生き物も植物も、人の理から外れた姿へと変えてしまう。
そのため、普通の人間は近付くことすらできない。
魔域の奥深くまで踏み込めるのは、魔素への高い適性を持つ〝穢れ者〟だけだと言われていた。
やがて討伐隊は、魔域との境界を望む荒野へ辿り着く。
乾いた風が吹いているはずなのに、肌へ何かがまとわりつくような息苦しさがあった。
「……嫌な感じだな」
先頭を歩く聖騎士が眉をひそめる。
「頭が痛い」
「胸がむかつく……」
「早く終わらせよう」
神官たちも次々と顔色を悪くしていく。
魔素は、魔素適性を持たない人間にとって毒そのものだ。
濃度が高くなるほど身体を蝕み、長時間浴びれば命すら危うい。
ミリヤムは心配そうに仲間を見渡した。
「皆さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃありませんよ」
苦笑したのはネストリだった。
額には薄く汗が浮かんでいる。
「ミリヤム様こそ、平気なのですか?」
「え?」
「顔色ひとつ変わっていません」
そう言われて初めて気付く。
自分だけ、息苦しさをまったく感じていない。
「聖力の加護でしょうか……」
「羨ましいですよ」
ネストリは笑った。
誰も疑わなかった。
神に愛された聖女見習いなのだから、と。
*
やがて目的の窪地へ辿り着く。
荒れ果てた大地には、十数体の不死者が彷徨っていた。
朽ちた鎧に、折れた槍。
風化した剣。
誰もが、かつてこの戦場で命を落とした兵士たちなのだろう。
「来るぞ!」
聖騎士の号令が響く。
不死者たちが一斉に駆け出した。
「前衛、迎え撃て!」
金属がぶつかる音が荒野へ響く。
聖騎士たちが剣で動きを止め、その隙に神官が浄化術を放つ。
いつもの連携。
何度も繰り返してきた討伐だった。
「ミリヤム様!」
ネストリが叫ぶ。
「お願いします!」
「はい!」
ミリヤムは胸の前で両手を組み、祈る。
温かな聖光が溢れ出し、戦場全体へと広がっていく。
不死者たちはその光に優しく包み込まれた。
苦しむ声はない。
憎しみもない。
ただ、その身体は穏やかに光へ溶けていった。
「すごい……」
若い神官が思わず呟く。
「さすが筆頭聖女候補だ」
「ルツィエ様の後継者だけある」
ミリヤムは首を振る。
「まだです!」
浄化を逃れた数体の不死者が、なおも剣を振り上げていた。
「左右へ散れ!」
ネストリが指示を飛ばし、討伐隊が再び陣形を組み直す。
その時だった。
ズン――。
地面が大きく揺れた。
「……何だ?」
誰かが顔を上げる。
ズン。
ズン。
重い足音。
全員の視線が、黒い森へ向く。
魔域の奥。
木々を押し倒しながら現れたのは、巨大な影だった。
岩山のような体躯。
鋭く湾曲した牙。
黒い毛並み。
そして、赤く濁った瞳。
その姿を見た瞬間、誰もが息を呑む。
「魔獣……!」
「どうしてこんな場所に!」
本来なら、魔域の深部にしか現れない存在。
それが境界近くまで出てきている。
魔獣は低く唸ると、大きく息を吸い込んだ。
「まずい!」
ネストリが叫ぶ。
次の瞬間、凄まじい咆哮が荒野を揺らした。
衝撃波のような風が吹き荒れ、討伐隊が体勢を崩す。
「総員、退避!」
だが、その号令よりも早く、魔獣は地面を蹴っていた。
再び咆哮が轟き、大気が震える。
次の瞬間には、前衛が吹き飛ばされていた。
「ぐあっ!」
「隊列を立て直せ!」
悲鳴が飛び交う。
ミリヤムは傷ついた仲間へ治癒を施す。
倒れた者を光が包み、傷が塞がっていく。
だが、間に合わない。
治した隣で、また誰かが倒れる。
「ミリヤム様!」
「後ろ!」
振り向く。
魔獣の爪が、若い神官の少女へ振り下ろされようとしていた。
届かない。
助けられない。
その瞬間――ルツィエの声が蘇った。
――決して使ってはいけません。
――誰にも知られてはいけません。
幼い日に交わした約束。
――あなたを守りたいだけなのです。
「……ごめんなさい」
涙が零れた。
「約束、守れません」
両手を掲げる。
世界中の魔素が、応えるように震えた。
集まり、渦を巻き、ミリヤムのもとへ収束していく。
まるで、この力は最初から自分のものだったと言わんばかりに。
「――ッ!」
轟音。
白い閃光。
魔獣は悲鳴を上げる暇もなく吹き飛び、その巨体は岩壁ごと砕け散った。
静寂が訪れた。
誰も声を出せない。
ミリヤムだけが、安堵の息を吐いた。
「助かって……」
一歩踏み出した瞬間。
「来ないで!」
少女が悲鳴を上げる。
ミリヤムの足が止まった。
少女は、まるで化け物でも見るような目で彼女を見ていた。
「魔素術……」
「嘘だろ……」
「あれだけの魔素を……」
「穢れ持ち……?」
誰かが震える声で呟く。
「いや……違う」
「魔域級だ」
「まさか……」
「穢れ者……」
その一言で、全員が一歩後ろへ下がった。
ネストリだけは動かなかった。
いや、動けなかった。
「……嘘だ」
掠れた声だった。
「そんなはずがない」
指先が震えている。
「ミリヤム様が……」
誰よりも敬愛していた。
誰よりも信じていた。
ルツィエの後継者。
次代の聖女。
そのすべてが、音を立てて崩れていく。
「穢れ者だったなんて……」
ミリヤムは何も言えない。
「なぜ……」
ネストリの瞳から涙が零れた。
「なぜ黙っていたんです!」
その叫びにあったのは、怒りよりも深い悲しみだった。
「私は……」
「私はあなたを信じていた!」
胸が締め付けられる。
どんな罵声より、その言葉が痛かった。
ネストリは震える手で剣を抜く。
「異端者……」
自分に言い聞かせるように呟く。
「教会を欺いた罪は……」
剣先が、ゆっくりとミリヤムへ向く。
「裁かなければならない」
「ネストリ……」
その瞬間。
「……何を騒いでいる」
男の声が響いた。
全員が振り向く。
魔域の黒い森。
その境界に、一人の男が立っていた。
浅黒い肌に黒髪。
黄金色の瞳。
ただそこに立っているだけなのに、人間とは思えないほどの威圧感があった。
「穢れ者だ!」
誰かが叫ぶ。
男は鼻で笑った。
「教会の連中は、相変わらず騒がしい」
気付けば、男はミリヤムの目の前に立っていた。
「え……?」
肩を軽く掴まれる。
「ここに残れば殺される」
淡々と告げる。
「死にたくないなら来い」
「えっ、ちょっ――」
返事を待たず、ひょい、と軽々担ぎ上げられる。
「ええええええっ!?」
抗議する間もなく、男は魔域の森へ跳び込んだ。
「待て!」
ネストリの叫びが遠ざかる。
揺れる景色の中で、ミリヤムはただ思う。
――帰る場所が、なくなってしまった。




