第3話 消えない旋律
初老の男性、神島(62)は、誰もいない小さなライブハウスのステージでピアノの鍵盤に触れていた。彼の前に現れた死神が、静かに告げる。
「……残り、二十四時間です」
神島は驚く風もなく、ただ鍵盤から指を離して小さく息を吐いた。
「そうか。思ったより早かったな」
神島はかつて、天才と称されたピアニストだった。だが三十年前、ある重大な演奏会でプレッシャーに負け、手が激しく震えて演奏を中断。以来、表舞台から姿を消し、音楽教室の講師としてひっそりと生きてきた。
「未練は演奏ですか?」
死神の問いに、神島は首を横に振る。
「いや、怖くてずっと逃げてきたんだ。あの挫折から一度も、自分のための曲を最後まで弾いたことがない。私にはもう、音楽を愛する資格なんてないのさ」
残された時間、神島は思い出の街を歩き、かつて通った喫茶店でコーヒーを飲み、静かに時を過ごした。死神はその隣を無言で歩き続ける。
刻限まであと三時間となった夕暮れ時、二人は神島がかつて挫折を味わった大ホールの裏手に辿り着いた。誰もいない無人のステージ。スポットライトは消え、中央には古びたグランドピアノが一台、静かに佇んでいた。
「なぜ、ここに来たのですか?」
死神が尋ねる。
「……本当は、ずっと戻りたかったんだよ。あの恐怖に打ち勝ちたかった。だが、指が動かないんだ」
神島の手は、三十年前と同じように激しく震えていた。
その時、死神は静かに近づき、神島の震える手の上に自身の冷たい手を重ねた。
「あなた方の命は儚い。ですが、あなたが積み重ねてきた指先の記憶まで消えるわけではありません。失敗を恐れる時間すら、もうあなたには残されていないのです」
冷たくも確かな死神の温もりに、神島の震えがふっと収まった。
神島は深く息を吸い、鍵盤に指を置いた。
奏でられたのは、彼が人生で最後に作ろうとして未完のまま捨てた曲だった。
静まり返ったホールに、優しく、時に激しい旋律が響き渡る。客席には誰もいない。だが、神島は確かに感じていた。かつての自分、挫折した日の自分、そして音楽を純粋に愛していた少年の頃の自分が見守っているのを。
最後の音符が空気の中に溶けていったとき、神島は涙をこぼしながら晴れやかな笑顔を浮かべた。
「……弾けたよ。私の人生の、最後の曲だ」
「見事な旋律でした」
死神の言葉に、神島は頷き、鍵盤に頭を預けるようにして静かに息を引き取った。
神島の魂を送り届けた後、死神は自らの銀色の懐中時計を見つめた。
その時、奇妙なことが起きた。
かすれていた裏蓋の刻印の一部が、かすかに光を放ち、文字として浮かび上がったのだ。
『——誇り高き、表現者へ』
「……これは?」
死神がその文字をなぞった瞬間、彼の脳裏に、激しいピアノの音色と、大歓声の幻聴が突き抜けた。胸が絞めつけられるような懐かしさと哀しみが押し寄せる。
死神は悟り始めていた。自分が見届けている死者たちの姿は、かつて人間だった頃の「自分自身の欠片」なのではないかと。
自分はなぜ死神となったのか。
この時計の文字がすべて蘇った時、黄泉の世界の真実と、彼自身の隠された過去が明かされる。
チクタクと、秒針が刻む。
死神は静かにコートの襟を立て、次の「最後の一日」を迎える者のもとへ歩き出した。




