第4話 残されたアルバム
深夜の警備室。70歳の警備員・大滝は、巡回を終えて深く椅子に腰掛けたところで、胸に鋭い痛みを覚えた。視界が急速に狭まる中、目の前に静かに立つ黒衣の男に気づく。
「……残り、二十四時間です」
大滝は荒い息の下で、苦笑いを浮かべた。
「そうか……。まあ、十分に生きたよ。未練なんて、何一つない」
妻には十年前に先立たれ、一人息子も独立して海外で暮らしている。孤独ではあったが、慎ましく生きてきた自分の人生に満足している——大滝は本気でそう思っていた。
死神は何も言わず、大滝が最後の勤務を終え、誰もいない自宅アパートへ戻る道中に付き添った。
部屋に入り、大滝は断捨離のつもりで古い荷物の整理を始めた。押し入れの奥から出てきたのは、数冊の古びたアルバムだった。何気なくページをめくっていた大滝の手が、ふと止まる。
そこに挟まれていたのは、幼い息子が描いた拙い似顔絵と、「おとうさんへ。いつもおしごとがんばってくれてありがとう」と書かれた小さな紙切れだった。
「……忘れていたな」
大滝の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
仕事に追われ、息子の参観日にも運動会にも行ってやれなかった。不器用で、感情を表に出すのが苦手だった大滝は、息子が家を出るときもろくに言葉を交わさなかった。未練がないというのは嘘だった。本当はただ、合わせる顔がないと思い込んで逃げていただけだったのだ。
「連絡はしないのですか?」
死神が静かに問う。
「今さら言えるかよ。『もうすぐ死ぬから声が聞きたい』なんて、あいつの負担になるだけだ」
「人間は本当に厄介ですね。想いを伝えることよりも、自らのプライドや怯えを優先する」
死神の容赦ない言葉に、大滝はうつむいた。
刻限まであと一時間。大滝は意を決して、国際電話のダイヤルを押した。受話器の向こうで、数回のコールの後、少し眠そうな息子の声が響く。
『……父さん? こんな時間にどうしたの?』
「……あー、いや。大したことじゃないんだ。ただ、押し入れを整理していたら、お前が昔書いた絵が出てきてな」
『絵……? ああ、そんなのもあったっけ』
「……ごぶさたばかりで、すまなかったな。お前が子供の頃、どこにも連れて行ってやれなくて。……親らしいこと、何もしてやれなくて、ずっと気になってたんだ」
受話器の向こうで、短い沈黙が流れた。やがて、息子が少し照れくさそうに笑う声が聞こえた。
『何言ってるんだよ。親父が毎日真面目に働いてくれたから、俺は大学まで行けて、今こうして好きな仕事ができてるんだよ。……言わなかったけど、感謝してるよ、父さん』
大滝は唇を噛みしめ、溢れ出る涙を必死にこらえた。
「そうか……。体に気をつけるんだぞ」
『うん。来月、久しぶりに帰国するからさ。一緒に酒でも飲もうよ』
「……ああ。楽しみにしている」
受話器を置いた大滝は、声をあげて泣いた。最後の一日で、人生で最大の誤解が解けた瞬間だった。
刻限の数分前。大滝はアルバムを胸に抱き、布団の上で静かに横たわった。
「死神さん……ありがとうな。あんたのおかげで、最高の人生だったと言えるよ」
「私は何もしていません。あなたが選んだことです」
大滝は満足そうな笑みを浮かべ、穏やかに息を引き取った。
その瞬間、死神の懐中時計が激しく光を放った。裏蓋の刻印から、さらに新しい文字が浮かび上がる。
『——誇り高き、表現者へ』
『——愛を知り、去りゆく者へ』
光とともに、死神の脳裏に鮮烈な映像が駆け巡る。
小さな女の子の手を握りしめながら、病院のベッドで涙を流す自分自身の姿。そして、誰かの声が響く。
『あなたには、まだ見届けるべき人がいる——』
死神は激しい頭痛に耐えながら、胸を押さえた。
感情を持たないはずの胸の奥が、熱く、痛む。
(私は……残してきたのだ。大切な誰かを……だから私は、黄泉の案内人となったのか?)
少しずつ解き明かされていく自分の過去と、命の重み。
死神は薄れゆく記憶の残像を抱えながら、次なる最後の24時間を待つ者のもとへ歩みを進めた。




