第2話 ほどけた赤い糸
街に冷たい雨が降りしきる夜だった。死神の銀色の懐中時計が、新たな刻限を告げてカチリと音を立てる。
「……残り、二十四時間です」
次の対象者は、うらぶれた居酒屋で一人グラスを傾ける青年、蓮(26)だった。突然の宣告に、蓮は自嘲気味に鼻で笑った。
「死神? ハッ、ちょうどいいや。どうせ俺の人生なんて、あいつに振られた時点で終わってんだからさ」
蓮には、三年付き合った恋人の美咲がいた。だが数日前に、自分の甲斐性無さと将来への不安から一方的に別れを告げたばかりだった。明日、美咲は彼との思い出を捨てるように、遠くの街へ引っ越すことになっている。
「彼女に会いに行かないのですか?」
死神の問いに、蓮は濡れたグラスの縁をなぞりながら首を振る。
「行ったって惨めなだけだろ。俺といたって幸せになれない。未練を残すくらいなら、このまま嫌われたまま消えた方がいい」
死神は何も言わず、ただ蓮の隣に寄り添い続けた。終電が消え、朝が来ても、蓮はただ時間を潰すように街を彷徨った。
「人間は不思議ですね」
歩道橋の上で、死神がふと口を開いた。
「相手の幸せを願うと言いながら、自らが傷つくことから逃げているだけに見えます」
「……お前に何がわかるんだよ!」
蓮は声を荒らげた。
「傷つくのが怖いよ! 今更会いに行って、泣かれたり責められたりしたら、俺は正気で死ねなくなる!」
「では、このまま終われば、正気でいられるのですか?」
死神の冷徹な問いが、蓮の胸に突き刺さる。懐中時計の針は、残り一時間を切っていた。
「……くそっ!」
蓮は走り出した。降りしきる雨の中、美咲のマンションへ向かって全力で駆け抜ける。濡れた足元に何度も転びそうになりながら、息を切らして辿り着いたそこには、ちょうど引っ越し業社のトラックに荷物を積み終えた美咲の姿があった。
「美咲!」
振り返った美咲の瞳に、激しい動揺が走る。
「蓮……? なんで……」
蓮は膝をつき、必死に息を整えながら、胸の奥に溜め込んでいた言葉を絞り出した。
「嘘をついた! 嫌いになったわけじゃない!……俺が情けないから、お前を幸せにする自信がなかったんだ。でも、最後にこれだけは言わせてくれ。お前と過ごした三年感は、俺の人生で一番幸せだった。……生まれてきてくれて、俺と出会ってくれて、本当にありがとう」
涙と雨でぐしゃぐしゃになった蓮の顔を見て、美咲は顔を両手で覆いそのまま大粒の涙をこぼした。
「バカじゃないの……! そんなの、最初から知ってたよ……っ」
美咲は走り寄り、蓮の胸に飛び込んだ。二人は雨の中で強く抱き合った。言葉はもう必要なかった。すれ違っていた心が、最後の最後にしっかりと重なり合った。
刻限の五分前。美咲を見送り、一人静かな公園のベンチに座る蓮の表情は、驚くほど晴れやかだった。
「間に合いましたね」
死神が静かに寄り添う。
「ああ……。格好悪い最後だったけど、言えてよかった。……ありがとう、死神さん」
「お礼を言われる筋合いはありません。私はただ、見ていただけです」
蓮は満足そうに微笑み、ゆっくりと瞼を閉じた。その身体から魂が離れ、死神の手によって温かな光へと導かれていく。
一人残された死神は、胸ポケットから銀色の懐中時計を取り出した。
裏蓋の擦り切れた刻印を撫でる。
なぜ自分は、死にゆく者の「愛」や「後悔」にこれほど心が揺らぐのか。
(私は……かつて、誰かの最後を見届けられなかったのではないか?)
かすかな疑問が、死神の胸の奥で小さな芽を吹いた。彼自身が忘れてしまった「生前の記憶」——それが、この時計と黄泉の世界の秘密に深く関わっていることを、彼はまだ知らない。
チクタクと、懐中時計が再び動き出す。
冷たい雨がやみ、雲の隙間からかすかな光が差し込んでいた。




