第1話 途切れたラストシーン
生と死の境界が曖昧になる黄昏時、その男は現れる。
黒いトレンチコートに身を包み、胸ポケットから取り出した古い銀色の懐中時計を覗き込む。チクタクと静かに刻まれる音は、誰かにとっての「終わりの秒針」だ。
「……残り、二十四時間です」
男には名がない。人々は彼を「死神」と呼ぶ。
しかし、彼は命を奪う存在ではない。ただ、運命の刻限が訪れた者のもとに寄り添い、その最後の二十四時間が尽きる瞬間まで見届ける——それが彼の課せられた役割だった。
「冗談でしょう? 新作の試写会は明日なんですよ!」
映画監督の浅倉(58)は、病院の屋上で突如現れた黒衣の男に詰め寄った。病魔に侵され、残された時間がわずかであることは悟っていた。だが、まさか今日だとは思っていなかった。
「私はただの案内人に過ぎません。命の延長は叶いませんが……最後の二十四時間、あなたがどう過ごすかは自由です」
死神の声には、怒りも哀しみもなかった。ただ静かに、そこにある事実だけを告げている。
浅倉は頭を抱えた。彼にはどうしても心残りがあった。何年も絶縁状態にある娘の有紗だ。若き日に映画の世界へ没頭するあまり、家庭を顧みず、妻の死目にも立ち会わなかった。有紗が自分を激しく憎んでいることは知っていた。
「今さら会ったところで、許されるはずがない……」
「行かないのですか?」
死神は影のように浅倉の隣に立ち、淡々と問う。
「許されるために行くのではありません。あなたが何を伝えたいか、それだけが問題です」
浅倉は震える手でタクシーを拾った。死神もまた、当然のように隣の席に滑り込む。他人の目には見えないはずの死神の存在が、なぜか浅倉の恐怖を和らげていた。
有紗が働く小さな生花店の前に到着したとき、時刻はすでに残り六時間を切っていた。ガラス越しに見える娘の姿に、浅倉の足がすくむ。
「……入れないのか?」
「……何を言えばいいか、分からなくなった」
その時、雨が降り出した。死神は静かに黒い傘を広げ、浅倉の頭上にかざした。
「人間は滑稽ですね。刻限が迫らねば、言葉一つ紡げない」
「お前に何が分かる。死神のくせに」
「ええ、分かりません。だからこそ、見届けるのです」
浅倉は意を決して店のドアを押した。鈴の音が響く。振り返った有紗の顔が凍りつく。
「……何しに来たの」
激しい拒絶の言葉。しかし浅倉は逃げなかった。自分の作品のことでも、病気のことでもなく、ずっと言えなかった一言だけを口にした。
「すまなかった。お前の人生の大切な時間に、一度もいてやれなくて」
浅倉は一輪の白いゆりを買い、逃げるように店を出た。追いかけてくる足音はなかった。だが、店の前で振り返ると、窓越しに有紗がそのゆりを抱きしめ、涙を拭っている姿が見えた。
「……これでよかったんだ」
浅倉は深く息を吐いた。
残された時間はあとわずか。二人は街を見下ろす高台の公園へと向かった。ベンチに腰掛け、沈みゆく夕日を眺める。
「少しは、後悔を減らせましたか」
死神が尋ねる。
「ゼロにはならないさ。だが……伝えないよりは、ずっと良かった」
浅倉の呼吸が次第に浅くなっていく。銀色の懐中時計が、最後の刻限を告げる音を立てた。
「ありがとうございました、死神さん」
「……良い旅路を」
浅倉の瞳から光が消え、その身体は静かにベンチへ倒れ込んだ。死神はそっと彼の瞼を閉じさせ、その魂を黄泉への道へと導いた。
ひとつの見送りを終えた死神は、静まり返った公園で自らの胸ポケットから銀色の懐中時計を取り出した。
裏蓋を開けると、そこには刻印がある。しかし、文字は途中でかすれ、彼自身が何者であったのか、なぜこの役目を担っているのかは何も記されていない。
死神は、死者が最後に浮かべる表情の理由を知らない。黄泉の扉の向こうに何があるのかも、案内人である彼自身には知らされていないのだ。
「後悔、か……」
つぶやいた声は、夜の風に溶けて消えた。
チクタクと、懐中時計が再び新たな秒針を刻み始める。どこかでまた、誰かの最後の二十四時間が始まろうとしていた。




