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薄明館殺人事件-6・前

「――宏花……」


 青白い顔のまま横たわる宏花。

 澄々はその身体を抱き寄せ、顔を首筋へ埋めた。


 桃の香りに包まれながら、荒れていた鼓動がゆっくりと落ち着いていく。


 

 誰一人、その場から動けなかった。

 

 

 

 だが、宏花から顔を上げた澄々の次の行動に、その場はさらなる混乱に包まれる。


 

 澄々はベッドから離れると、部屋の隅に積まれていた椅子を運び始めたのだ。


 

 ベッドがよく見える位置に、六脚。


 並べ終えると、扉の方へ振り返り、薄く笑みを浮かべたまま着席を促した。


 

 

 意図の読めない行動に、室内には恐怖だけが広がる。


 彼らは拒むこともできず、ぎこちない足取りで部屋へ入った。


 

 だが、椅子に腰を下ろす勇気を持つ者は一人もいない。


 

 澄々は宏花を抱き上げ、そのままベッドの端へ腰を下ろした。

 

 ちょうど、椅子の傍らに立つ彼らと向かい合う位置だった。


 

 

 膝へ寝かせた宏花の両手首から、縄を解いていく。


 自由になった手をそっと取り、その甲へ口づけた。

 こんな状況でなければ、恋人同士の穏やかな昼下がりにしか見えなかっただろう。


 だからこそ、その光景はひどく恐ろしかった。


 

 

 それから澄々は、一言も発しなかった。


 視線もまた、宏花だけを映している。


 

 石膏像のように固まる六人。


 鼓動だけが、忙しなく鳴り続ける。


 

 

 澄々の持つ懐中時計の秒針が、二周目へ差しかかろうとした時――


 

 

「――澄々様、お気持ちはわかるのですが……

 我々を、何故この場に留めていらっしゃるのですか?」


 沈黙を破ったのは、鷺森だった。


 

 その声に、澄々はゆっくりと視線を上げる。


 はっきり顔は見えているはずなのに、その表情だけが読めない。


 

 

「……この館で起きた殺人事件。

 犯人は、ずいぶんせっかちだなと思ったんです」


 

 一瞬、何の話をしているのかわからなかった。


 

「計画性があるようで、無い。

 初めてだったんでしょうね。中途半端な殺しでした」


 

 澄々の視線が、ひとりひとりをゆっくりと見渡していく。


 

 誰かの身体がふらりと揺れ、思わず椅子の背へ手をついた。


 

 

「あなたが犯人ですね――鷺森さん」

 

 

 

「えっ!?」


 弾かれたように、全員の視線が鷺森へ向く。


 その中で、ひときわ大きな声を上げたのは広太郎だった。


 

「……俺が刺したのに、ですか? 広太郎さん」


「……ぁ、…………」


 

 澄々の視線を受け、広太郎の膝が小刻みに震える。

 椅子の背に縋りつくことで、どうにか立っている状態だった。


 

「そうですね。あなたも、犯人です」


 

 澄々は静かに言い切った。


 その断言が、重く部屋へ落ちる。


 

 

「……ちょっと待て。おかしいじゃないか」


 三郎が眉をひそめる。


「これじゃあ、ただ反応した順に犯人へ割り当てているだけだろう」


「そうだ! 根拠を言え!」


 弦之助が畳みかけるように声を上げた。


 

 二人の抗議を浴びながら、澄々の口元はゆっくりと歪んでいく。


 

「――そう」


  

 ぽつりと零す。


 

「そうなんですよ。

 人はなぜか事件を前にすると、理由や経緯を知りたがる……」


 

 澄々は小さく笑った。


 

「だから宏花は、“こう”なったんです」


 

 その手が、膝に眠る宏花の藍褐色の髪を優しく撫でる。


 

「まったく……世話の焼ける兄弟子だ」


 

 苦笑にも似た声音だった。


 

 

 やがて澄々は顔を上げる。


 再び向けられた視線に、誰もが息を呑んだ。


 

 そこにあったのは、最初に会った時と同じ顔。


 人好きのする、穏やかな青年の笑みだった。



  

「では――みなさんに、推理物語をお話ししましょう」

 

 

 


 《薄明館殺人事件-6・前》

 

 

 

 

「まず――犯人でもない宏花を、ろくな根拠もなく疑い、ご丁寧に隔離までしてくださったおかげで、こんなことになったのですが……」

  

「……その言い方は、どうかと思います」


 澄々の刺々しい物言いに、真っ先に眉をひそめたのは誠二だった。


「第一、彼は十分に疑わしかったじゃないですか」


 

 腕を組んだ三郎も、小さく頷く。

 

「そもそも、俺たちがあの死体を発見する前から、彼はあのことを知っていたんだ。

 広太郎君。君が見たんだろう?」


 

 三郎に促され、広太郎は慌てて何度も首を縦に振った。

 その怯えた様子に、三郎は痛ましげな表情を浮かべる。


「かわいそうに。

 いきなり犯人扱いされて、さぞ落ち着かないだろう……」


 

 そんな三郎を他所に、大きくため息を吐きながら、弦之助は椅子へ腰を下ろした。

 まるで自分は部外者だとでも言いたげな態度だった。


「お前たちはどうせ、友人か、それ以上の関係なんだろう?

 そんなやつの話なんか信じられるか」


 そして、吐き捨てるように続ける。

 

「それも、死んだふりなんじゃないか?」


 

 弦之助の睨むような視線を受けようと、澄々の表情は微動だにしない。


 

「……死人に口なしとは、よく言ったものだな……」


 静かな声だった。

 

 

「発言には気をつけてくださいね」

  

 澄々は宏花の手首をそっと持ち上げる。

 力なく垂れ下がった指先には、生気の欠片も感じられなかった。


 珠緒は思わず目を伏せる。


  

「お医者様の診断に、ケチをつけられていますよ?

 ――誠二さん」


 矛先を向けられ、誠二は気まずそうに口を開いた。



「……彼の症状に嘘はありません。

 たとえ意図的にやったとしても、こんな危険な真似をする意味がわからない」


 

 しかし弦之助は片眉を上げ、なおも食い下がる。


「こいつもグルなんじゃないか?」

 

 その一言に、澄々は思わず吹き出した。


 

「あっはは!

 そんなことを言い出したら――」


 宏花の力無い指先を絡め、ぎゅっと握る。

 

「俺たちは、あんたたち全員がグルなんじゃないかって疑ってるよ」



  

「どうして、そう思うんですの……?」


 珠緒の不安げな声が、静まり返った部屋に落ちる。


 

 澄々は表情ひとつ変えないまま、宏花の手を何度も握る。


 

「だって

 死体を見た時、誰も聞かなかったんですよ」


 澄々の視線が、ゆっくりと彼らを見渡す。


 

「――この死体は誰なんだ、って」


 

 その瞬間。

 部屋の空気が、凍りついた。

 

 

 

 

「一夜で人が増えているのに、変だなって思ったんです。

 こういう時って、まずそこが気になりません?」


 まるで明日の天気でも尋ねるような口調だった。


 だが、その問いに答えられる者は誰一人いない。


 

「なんで気にならなかったのか……」

 

 澄々は静かに続ける。

 

「それは、あれが誰か、最初から知っていたからです」


 

 その指先が、眠る宏花の頬をそっと撫でた。


「この会は、あの被害者――高尾長満を殺すために集められた。

 そうですよね? 鷺森さん」


 

 鷺森は答えない。

 ただ静かに椅子へ腰を下ろした。


 背筋は、変わらず真っ直ぐに伸びている。


 

 

 澄々は心の中でため息を吐き、視線を戻した。

 

「高尾長満という人物は、高氏の地主でした。

 それも、刃浦のどの領地にも出資できるほどの財力を持った人物です」


 

 澄々の親指が、宏花の指の爪をまるくなぞる。


 

「――特に、料亭への出資に力を入れていた」


 澄々の視線が、三郎を射抜いた。


 

「でも、あまり評判は良くなかったみたいですね。

 立場を利用して好き放題振る舞い、味に文句をつけては料理長の尊厳を――」


「――違う」

 

 三郎が低く割り込んだ。


  

「俺の料理に文句をつけるのは構わない」


 その拳が膝の上で固く握られる。


 

「あいつは、従業員に無理難題を押し付けては、大声で怒鳴りつけるのを楽しむような奴だった……」


 

 三郎の声には、押し殺した怒りが滲んでいた。


 

「……そう」

 

 澄々は小さく頷く。


 

「三郎さんは、周囲の人間が理不尽に傷つけられるのを見過ごせない人だ」

 

 広太郎へ視線を向ける。

 

「広太郎さんを庇いたくなるのも、その性分なんでしょう」


 

 そして再び三郎を見る。

 

「だからって、高尾長満を殺すために剣士を名乗ったんですか?」

 

「そ、それは……」

 

 三郎は言葉を失った。


 

「でも、いざとなったら抜けないですよね。

 刀ってね、そういうものなんですよ」


 

 穏やかなその言葉に、三郎は弾かれたように顔を上げた。


 

「お前……まさか……」


 何かに気づいたように目を見開く。


 

「……そうか」


  

「三郎さんのその正義感は、もっとちゃんとした使い道があると思いますけどね」


 

 三郎は力なく肩を落とす。 

 そして、諦めたように椅子の背へ身を預けた。



 澄々は、宏花の睫毛に乗った小さな埃を指先で摘み取り、丁寧に払い落とした。


 

「高尾長満のような人間は、とにかく顔が広い。

 誠二さんも、高瀬領で医者になるにあたって、かなり世話になったんじゃないですか?」


 誠二は落ち着かない様子で指を組み合わせる。


 

「……そうですね。

 あの人には、今の職場を紹介してもらいました。

 でも……ッ」


 焦ったように身を乗り出す誠二へ、澄々は穏やかな微笑みを返した。


 

「えぇ。

 貴方は高尾長満の死体を見て、真っ先に検分を申し出ようとしていましたね」


 誠二の口元が、笑みを作りかける。


「――でも、強くは押さなかった」


 

 澄々の指先が、繋いだ宏花の手を揉むようにゆっくりと撫でる。

 その手は、未だ握り返されない。


 

「……邪魔だな、って思っていたでしょう?」


 

 誠二は口を開きかけたまま固まった。


 

「恩人というより、人質を取られている気分だったんじゃないですか?」


「……ッ…………」

 

 ぞくり、と。

 まるで胸の内を覗き込まれたような感覚に、背筋を冷たいものが這う。


 

「……し、仕方ないでしょう……?」

  

 掠れた声が漏れる。


「あの人は、何かにつけて金、金って……。

 でも、それで命を奪おうなんて考えたこと……無いですよ……」


 

 誠二は自らの手で首筋を揉みながら、落ち着きなく視線を彷徨わせた。

 語尾は次第に力を失っていく。


 そんな様子も意に介さず、澄々は淡々と言葉を継いだ。


 

「貴方はとても頭が良い」


 繋いだ手をそっと持ち上げる。

 

「でもその分、“ご遺体”だと判断するのが早すぎるのかもしれませんね」

 

 そう言って、宏花の手の甲へ頬を寄せた。


 

  

「高尾長満という人物は、誠二さんのお話どおり、金に執着する人だったみたいですね」


 澄々は静かに視線を巡らせる。


 

「そういう人たちはよく、福田領にある梅田屋へ集まる。

 ――珠緒さんは、よくご存知の場所ですね」


 視線を向けられた珠緒は、動じることなく頷いた。


 

「高尾長満のいる座敷にも、行ったことがありますよね?」

 

「……えぇ。

 そうね。彼を知らないとは言わないわ」


 珠緒は静かに目を伏せた。


 

「ここまでのお話を聞く限り、高尾長満は梅田屋でも迷惑な客だったのでしょう。

 でも……珠緒さんは、そんなことをいちいち気に留める方ではありませんよね」



 珠緒の表情が、一瞬だけ固まった。

 

「……そうかしら」

 

「はい。

 梅田屋で芸者を務めるような方なら、それだけの信頼と実績があるはずです。

 そんな人からすれば、高尾長満のような人間は飽きるほど見てきたでしょう?」


 

 珠緒はそっと髪を撫でる。


「随分と、お座敷の事情に詳しいのね」

 

「すみません。

 俺、貴女に嘘を吐きました」


 

 澄々は少し肩を竦めた。


「梅田屋には行ったことがあるんです」


 

 

 座り直した拍子に、膝の上の宏花の頭ががくりと揺れる。 

 澄々はその頭をそっと支え、丁寧に置き直した。


 

「だから、風の噂程度ですけど聞いたことがあります。

 ――あの事件の中心にいたのは、珠緒さんの大事な人だったんですね」


 

 珠緒は息を呑んだ。


 そして、肩を小さく震わせる。 

 丸めた背中は、ひどく小さく見えた。


 

「……妹よ。

 大事な、大事な……」

 

 顔を覆った両手の隙間から、ぽたり、ぽたりと雫が零れ落ちる。


 

「最初から、紅茶になんて興味は無かったの」


 

 震える声が続く。


 

「あの人が来るから、私も……。

 でも、いざ目の前にすると……どうしたらいいのかわからなかった……」


 

 珠緒はゆっくりと顔を上げた。

 

「……私も貴方に嘘を吐いたわ」

 

 

 濡れた瞳が、まっすぐ澄々を見つめる。


「これでおあいこね」


 

 その微笑みは、夜に咲く花のように儚かった。


 

 

 澄々は周囲に悟られないよう、静かに息を吐き出した。


 

(……よかった。

 宏花に教わった誘導が通った……)


 

 一瞬だけ安堵する。


 

(いや、どれも確証なんて無いけど。

 珠緒さんは特に、探るのが難しかったから……)


 

 膝の上の宏花へ視線を落とす。


 藍褐色の瞳は、固く閉ざされたままだ。


 

 けれど―― 

 右手に、ほんのわずかに握り返すような感触があった。


 

 一瞬だけ走る筋肉の軋み。


 

(……あと、もう少し)


 

 澄々はそっと顔を上げ、六人の表情を静かに見渡した。

 

 秒針の音だけが、前に進み続けている。

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