薄明館殺人事件-6・後
澄々は静かに室内を見渡した。
並ぶ六つの椅子。
そこに座る彼らの様子は実に様々だった。
落ち着かない様子で身じろぎを繰り返す者。
諦めにも似た顔で背もたれに体重を預ける者。
その中で、ただ一人だけ――
鷺森だけが膝をこちらへ向け、背筋を伸ばしたまま座っている。
澄々は、それが気に入らなかった。
(宏花に知られたらまた、子供だって笑われるんだろうけど……)
ふと視線を落とす。
膝の上の宏花は、変わらず静かな眠りの中だ。
(……まだ、もう少しだけ……待っててね)
繋いだ指先を、とん、とんと軽く叩いた。
《薄明館殺人事件-6・後》
「――梅田屋では最近、とあるものが流行しています。
高尾長満も、それにご執心だったようです」
澄々が懐へ手を差し入れる。
その動きに、広太郎の肩がびくりと強張った。
「もっとも……それは、奪われてしまったようですが」
端の千切れた提げ紐が、人目に晒される。
「これが何か、わかりますか?
広太郎さん」
「し、知らない……。
そんな、紐だけで……その先に何が付いてたかなんてわかるわけ……」
広太郎は自らの腕を擦りながら答えた。
澄々はそのまま視線を弦之助へ滑らせる。
「では、弦之助さんは?」
「……懐中時計の提げ紐だろう?
それも、新明堂の初期型にしか使われていない珍しい提げ紐だ」
弦之助は鼻を鳴らし、得意げに言った。
「ありがとうございます」
澄々は頷く。
「おかしいですね……。
広太郎さんは“紐の先に何が付いてたかなんて、わからない”とおっしゃった」
提げ紐が、澄々の指先でゆらりと揺れる。
「俺は、これが何か、としか聞いていませんよ?」
広太郎の喉仏が、ぎこちなく上下した。
「広太郎さんは知っているからこそ、それを避けた。
この紐の先に……何が付いていたか」
紐の揺れが止まる。
澄々はゆっくりと口元を歪めた。
「何か、やましいことでもあるんですか?」
広太郎の頬がかっと紅潮する。
勢いよく開いた口は、それでも言葉を紡げなかった。
「当然ですよね。
これを引き千切ったのは、広太郎さんなんだから」
不安げな視線が、広太郎へと注がれる。
「弦之助さんの話では、この先に付いていたであろう懐中時計はかなり珍しい品だそうですね。
貴方はそれを取り返すために、この館を訪れた。
でも、だからって人の命を奪ってまで――」
「――違う!」
広太郎は勢いよく立ち上がり、叫んだ。
「あいつが悪いんだ!
そもそもあいつが……俺を騙して時計を奪ったんだ。
父の……形見だったのに……」
俯いたまま、額に添えた手が前髪を強く掴む。
その姿に、周囲の視線は自然と同情へ傾いた。
だが澄々は窓の外へ目を逸らし、吐き捨てるように笑う。
「……だから、仕方がなかった?」
「僕は話し合いをするつもりだったんです……。
なのにあいつは、僕を殺そうとした。抵抗しているうちに、いつの間にか……」
広太郎の言葉を聞き流しながら、澄々は宏花の指を一本ずつ撫でていた。
親指から順に、遊ぶように。
小指へ触れたところで顔を上げる。
そこに浮かんでいたのは、心底つまらなそうな表情だった。
「本当に、現実逃避がお上手で。
貴方が騙されやすい理由が、よくわかりましたよ」
わずかに、眉根が歪む。
「……だから宏花に遊ばれるんだ」
最後の一言だけは、不満げに小さく零された。
蘇芳の瞳が、広太郎を真っ直ぐ射抜く。
「高尾長満は、貴方を殺すつもりで向かってきた?
嘘ですね」
「なっ……!
なんで、見てもいないのにそんなことが言えるんだ!」
澄々の指先が、宏花の顎の下をなぞる。
「その場を見ていなくても、現場の血痕を見ればわかりますよ。
確かに、高尾長満は窓際から扉の方へ向かっていた……」
その指先から、なぜか視線を逸せない。
「でも、その歩幅は突進している人間のものじゃない。
むしろ普通に歩くより狭かった」
広太郎の歯が、乾いた下唇の甘皮を噛む。
「ゆっくりと、もつれる足で。
助けを求めながら歩く人間を殺すのは――」
指が、首の皮膚にやわく食い込む。
「大して難しいことじゃなかっただろ?」
広太郎の奥歯が、ぎりりと鈍い音を立てた。
澄々は宏花の首元から指を離し、そのまま労わるように撫でる。
「凶器の包丁は……あぁ、そうだ。回収済みでしたっけ。
鷺森さん、どこへ捨てました?」
「私からは、何とも」
相変わらず落ち着き払った声色だった。
その返答に、澄々は思わず舌打ちを零しそうになる。
「……まぁ、いいや。
探せばどこかにあるでしょう」
小さく息を吐く。
「そして、それはこの館のどの包丁とも型が合わない。
広太郎さんが、自宅から持ち出したものだからです」
わずかな苛立ちからか、澄々は一気に言葉を畳み掛けた。
その勢いは、広太郎の焦燥をさらに煽る。
「だから僕は、殺すつもりなんてなくて……!
父さんの形見を、返してほしかっただけで――」
「ッはぁ〜〜〜〜〜〜!」
澄々が盛大なため息を吐く。
「その“形見、形見”っていうのが、うるさいんですよね」
その瞬間、室内の空気がぴんと張り詰めた。
「あんたは、形見だから取り返したかったんじゃない。
その時計に価値があると知ったから、取り返したかっただけだろ?」
澄々の声は冷たい。
「じゃなきゃ、そんなふうに引き千切ったりできるか」
「お前に……何がわかるんだよ……」
広太郎は肩を丸めたまま、澄々を睨みつけた。
「じゃあ、聞いてみますか?
お父様に」
「……は?」
澄々の言葉に、広太郎は固まった。
「俺は動けないので、自分で出してください」
澄々は事もなげに続ける。
「んー……右のポケットだったかな。
そこに時計が入っているでしょう?」
広太郎は反射的に右半身を引いた。
「早くしてください。
俺も、できれば手荒な真似はしたくないんです」
淡々とした口調だった。
それなのに、その言葉を一つ聞くたび、広太郎の全身は小刻みに震えていく。
頭では拒絶しているはずだった。
なのに、その手は。
抗えないように、右のポケットへ向かっていた。
やがて震える手が引き抜いたのは、一つの懐中時計。
提げ紐と繋がる金具は、無惨にひしゃげていた。
時計の縁には、刃物傷が一閃。
「開いて、時間を確認してみてください」
広太郎の震える手が、懐中時計の蓋を開く。
そして盤面を見た瞬間、息を呑んだ。
「時計の針は止まっているはずです。
――貴方の犯行時刻で」
広太郎は膝から崩れ落ちた。
がくりと肩を落とし、そのまま呆然と盤面を見つめる。
「ちなみに、何時を指していますか?」
そんな広太郎など目に入っていないかのように、澄々は言葉を続けた。
向けられた微笑みに押されるように、隣にいた三郎が慌てて時計を覗き込む。
「……六時四十二分、」
「六時……。
だいたい、明六ツか暮六ツくらいですね」
澄々は斜め上へ視線を向ける。
頭の中で時刻を組み立てているらしい。
「明六ツなら、俺たちが死体を発見した頃。
暮六ツなら、俺たちが応接間で談笑していた頃……」
小さく頷く。
「広太郎さんは、事件現場から出てくる宏花を“昨日の夜”に見たと言っていた。
つまり――犯行時刻とは一致しませんね」
澄々は、部屋にいる全員に視線を向ける。
「よって、宏花は殺していない」
澄々はにっこりと笑った。
「みなさん。
これで、わかってもらえました?」
その瞬間。
全員の背筋を、ぞわりと嫌なものが這い上がる。
これまでの話は。
ここまでの推理は。
すべて――
宏花が犯人ではないことを証明するためだけのものだったというのか。
だが彼らの読みは、まだ甘かった。
「――勘違いや不安なんかじゃない。
ここにいる全員が、保身のために、俺の大切な宏花を勝手に定義づけたんです」
澄々の口から、ふっと笑いがこぼれ落ちた。
抑えるように片手で口元を覆う。
「許せないですよね。
宏花に勝手なことしていいのは、俺だけなのに」
誰かが唾を飲み込む音だけが響いた。
「さて、こうして高尾長満を中心に、この館へ集められたみなさんですが――」
「あ、あの……」
口調を戻した澄々に、誠二がおずおずと手を挙げる。
「弦之助さんは……あの人と、どんな関わりがあったのでしょうか……?」
「……誠二さんって、よく几帳面だって言われるでしょう」
澄々は宏花の髪をそっと耳にかける。
「弦之助さんは、高尾長満と約束をしてここへ来たんですよね?」
向けられた視線から逃れるように、弦之助は腕を組んだ。
「彼はこの中で唯一、高尾長満の弱みを握っている人です。
そういう店の主人ですからね。来る客は皆、弱みが服を着て歩いているようなものだ」
なおも向けられる視線を振り払うように、弦之助は手を振った。
「……ま、所詮は雇われですけど」
「なッ……!」
弦之助が勢いよく振り向く。
その目には、露骨な怒りが滲んでいた。
「客である高尾長満を強請って、ある物を譲り受けるためにここで待ち合わせをした。
それが――あの時計です」
澄々は広太郎の懐中時計を指さした。
「……だから何だって言うんだ。
俺にはあいつを殺す動機なんか無い」
「俺は別に、動機の話なんかしてませんよ。
彼と関係があったかどうか、それが重要なんです」
蘇芳の瞳と視線がかち合う。
「……まぁ、貴方には無くても、彼にはあったかもしれませんけどね。
動 機」
弦之助の背筋を、名もない恐怖が駆け抜けた。
思わず、椅子の背へ縋りついた。
「みなさんは、誰もが高尾長満を殺しかねない状況にあった。
――というより、誰でも良かったんですよ」
澄々は六脚の椅子を見渡す。
その端に座る男の姿勢は、今も正しい。
「ここにいるみなさんを集めた人物にとっては、ね」
鷺森は微笑んでいた。
宏花と繋いだ手に、思わず力がこもる。
「この舞台を用意した人物は、高尾長満にとどめを刺す人間を求めていました。
彼の命は奪いたい。けれど、自分が殺したと露見するのは困る」
澄々の人差し指が、宏花の手の甲を秒針のように規則正しく叩く。
「だから、その人物は個室へ通した高尾長満に毒を盛り、その時を待った。
館を訪れた客人たちに声をかけながら。
――高尾様はご用事があって、今は客間にお一人でおられます。
なんて言いながら」
全員の顔に緊張が走る。
その言葉には、確かな覚えがあった。
視線が、自然と鷺森へ集まった。
「その言葉に誘われて高尾長満のもとへ向かったのが、広太郎さんだった。
……なぁ、広太郎さん。
貴方が最後に会った彼は、もう会話なんてできなかっただろう?」
「ぁ、あぁ…………」
広太郎は俯き、強く拳を握る。
「貴方へ向かってきた時の歩幅からして、その頃にはもう筋肉が弛緩し、思うように身体を動かせなかったはずだ。
声も出せなかったでしょうね。
それに、視覚も聴覚もほとんど機能していなかった」
間接的に語られる高尾長満の最期に、珠緒は思わず口元を覆い、目を伏せた。
「だが、だからといって……鷺森さんが毒を盛ったと、どうしてわかる?
こんな優秀な人が、殺しなんてするようには思えんがな」
弦之助が反論する。
その方向を一瞥した澄々は、懐から一枚の紙を取り出した。
「これは、鷺森さんのジャケットに入っていたものです」
瞬間、鷺森が弾かれたように澄々を見た。
初めて見せる綻びに、澄々は思わず口元が歪みそうになる。
「すみません。
屋敷の中は自由に歩き回っていいと、“ご主人”がおっしゃっていましたので」
「……仕方ありませんね」
穏やかな声色だった。
だが、その奥にはわずかな苛立ちが滲んでいる。
(やっぱり鷺森さんを崩すには主人の情報が必要か……。
さて、どうしたものか)
澄々は指先につまむ紙を、軽く揺らす。
「この紙には、三種の薬草の名前が書かれています。
黒百合、夜灯苔、雀葉……。
誠二さん。これが何かわかりますか?」
突然話を振られ、誠二は背筋を伸ばした。
「どれも、一部にわずかな毒性を持つ、取り扱いに注意が必要なものです。
一つ一つは薬にもなりますが……全てを掛け合わせれば、人の命を奪いかねない猛毒になります」
「そう。
これが、高尾長満に使われた毒の正体です。
そして、ここに書かれた“葉”の筆跡……見覚えはありませんか?」
澄々が紙を指先で弾く。
紙はひらりと舞い、珠緒の膝へ落ちた。
弦之助はそれを覗き込み、眉を顰める。
「字なんか見て何がわかる。お前が書いたんじゃないのか?」
「いいえ……最後の二画を繋げて書く、この字……」
珠緒が呟く。
「えぇ。確かに、香葉楼の交流帳で見たわ」
珠緒の答えに、誠二も同じように頷く。
弦之助は舌打ちを漏らし、ため息を吐いて椅子にもたれかかった。
「鷺森さんは、手帳にも高尾長満について書き残していました。
きっと彼に高尾長満殺しを依頼した人物から――」
「――澄々様」
鷺森が、言葉を遮った。
「これらは全て、私の独断で行ったことです。
手帳の内容も、この紙の内容も。
私自身が調べたものでございます」
きっぱりとした口調だった。
澄々は黙って鷺森と視線を合わせる。
それは決して外れることはなく、一切の揺れもない。
「……ま、いいでしょう。
これが、高尾長満殺害事件の全貌です。
どうですか?
宏花が入り込む余地なんて、どこにも無いでしょう?」
わずかに怒りを滲ませた瞳に、それぞれがぎこちなく頷く。
それを見て、澄々はにこりと微笑んだ。
「……でも、じゃあなんでこいつは……」
三郎が宏花を指差す。
澄々は、その指先が気に入らないのを押し殺すように、宏花の髪をそっと撫でる。
「邪魔だったからに決まってるじゃないですか」
妙に子供じみた言い方だった。
下がりかけた口角をたしなめるように、宏花の指先がぴくりと澄々の手の甲を叩く。
澄々は一瞬だけ宏花へ目を向けると、何事もなかったように再び視線を前へ戻した。
「通常であれば、鷺森さんの計画通りに高尾長満は殺され、誰かが犯人として捕まり、めでたしめでたしのはずでした」
広太郎が落ち着かなげに足を組み替える。
「ですが、完璧だったはずの計画には、いくつかの邪魔が入ったんです。
ひとつは、大雪で橋が落ちたこと」
澄々は人差し指を立てる。
「そして――宏花と、俺が来たこと」
中指も立てて笑う。
その仕草は、鷺森の苛立ちを確実に煽った。
まるで旅先でも訪れたかのような、場違いな浮かれぶり。
「すぐにでも事件として剣警へ引き渡したいのに、橋が無い。
宏花は死体を発見したのに騒がない。
そのくせ意味深な言動ばかり繰り返して、館の中を引っかき回す。
俺は勝手に現場へ入り込んで捜査をする。
……ねぇ、邪魔でしょう?」
鷺森は目を細める。
その様子を、弦之助は横目で見ていた。
「だから――」
澄々は宏花の肩を抱き寄せ、繋いだ手を持ち上げる。
「殺すことにしたんです」
操り人形のように宙へ浮く体。
暗い笑みを浮かべる青年に抱き寄せられた青白い顔は、こんな状況だというのに不釣り合いなほど美しい。
誠二は思わず目を細めた。
「……どうやって殺したのか。
それは、あの紅茶です」
澄々はテーブルの上のティーセットを指差した。
「待て。
確かにそいつは紅茶を飲んだが、俺も同じものを飲んだぞ?」
三郎が声を荒らげる。
「お聞きしますが、宏花はその紅茶を自分から飲んだんですか?」
「え?
あぁ……あんまり寝てるもんだから、少しくらい水分を摂った方がいいと思って氷をやったんだ。
そしたらすぐに吐き出して、紅茶にしてくれって……」
澄々は思わず目を閉じ、大きく息を吐いた。
(……後で説教しないと)
「三郎さんが平気だったのは、貴方の癖に理由があります」
「癖って……まさか、氷……?」
珠緒が口元へ手を当て、驚いたように目を見開いた。
その声が響くよりも早く、澄々は手を伸ばし、氷をひとかけら摘み上げた。
そして宏花の顎を持ち上げ、わずかに開いた口へ氷を押し込む。
こくり、と。
静まり返った室内に、小さな嚥下音が落ちた。
顎に添えられた澄々の指が、秒針のように一定の間隔で宏花の頬を叩く。
とん。
とん。
とん。
誰も息をすることさえ忘れていた。
四度。
五度。
その時だった。
睫毛が、かすかに震える。
小さく吸い込む、呼吸の音。
澄々の手を握り返す、確かな指の動き。
ゆっくりと開かれた瞳が、朧げに澄々を映した。
「おはよう、宏花」
澄々は、ひだまりのような笑みをただ一人へ向ける。
「……なに、寂しかったの」
宏花は眩しそうに杏色の瞳を細めた。
「そりゃそうでしょ。
なんで毒なんか飲んだの……」
澄々は吸い寄せられるように宏花へ身を寄せる。
だが、宏花の片手が澄々の口元をぴたりと押し返した。
「やめろ。死にたいのか?」
澄々は露骨に不満そうな顔をする。
「……早くその口、濯いできてよ」
「いいの?」
「濯いで来い」
強まる口調に、宏花は小さく笑って身を起こす。
まだ足元は覚束ない。
よろめきながらも立ち上がり、そのまま廊下へ出ていった。
部屋に並ぶ六人へは、一瞥もくれないまま。
「さぁ!」
澄々が大きく柏手を打つ。
乾いた音に、全員の肩がびくりと震えた。
「このように、あの氷には毒を中和する成分が含まれていました。
そのまま飲めば毒。三郎さんのように氷を溶かして飲めば、ただの紅茶になります」
「そんなの――」
「三郎さん!」
弦之助が口を開きかけたのを、澄々の大声が遮る。
三郎は腹を押さえていた手をびくりと揺らした。
「このティーセットを運んできたのは、誰ですか?」
「あ、鷺森……さん、だったよ……」
「そうですね」
澄々はゆっくり頷く。
「鷺森さんは、自身の犯行が露見することを恐れ、宏花を毒殺しようとした。
そして今、見事失敗に終わった」
そう言って両手を広げた。
「――これが、この館で起きた全てです」
六人はそれぞれ、居心地悪そうに澄々から視線を逸らした。
「質問はありますか?
後で何か言われても、もう答えてあげませんからね?」
だが、誰も口を開かなかった。
何かを言い返す気力すら、残っていない。
「じゃあ、寝起きついでにひとつだけ――」
不意に廊下から声が響く。
全員の視線がそちらへ向いた。
「薄明館の、本当の姿について聞いてもいいか?」
立っていたのは宏花。
どこか妖しい笑みを浮かべ、その手には黒い小さな手帳が握られている。
鷺森の目が鋭く細められる。
ほんの一瞬だけ、視線が脇へ流れた。
手帳の角が、宏花の口元をとん、とん、と叩く。
「……なんだかんだと小細工をしていたが、
高尾長満を一番殺したがっていたのは、ここの主人だろ?
だってここに――」
宏花の指先が手帳を開いた、その瞬間だった。
二つの影が同時に動く。
「――ッ!」
澄々は三郎の刀を掴み、一息に引き抜いた。
振り上げられた腕を捉え、その手首を強く引き寄せる。
一方、宏花は迫る小刀を身を捻ってかわした。
そのまま相手の手首を掴み、大きく一回転。
遠心力に振られた身体が大きく崩れる。
相手は足をもつれさせ、その場に膝をついた。
次の瞬間。
背中を床へ叩きつけられた鷺森の頬のすぐ脇へ、刀が深々と突き刺さった。
「……貴方は、こっちの共犯だったのか……弦之助さん」
澄々に腕を押さえ込まれたままの男。
刀の切先が捉えていた首筋は、弦之助のものだった。
「何ですか? これ」
「……離せ」
弦之助の手には、筒状のものが握られていた。
鋭く睨みつけてくる弦之助に、澄々は腕を掴む力をさらに強める。
「――ッあ゙ぁ!」
みしり、と骨が軋む嫌な音が響いた。
「澄々」
宏花が静かに声をかける。
「大事な証拠品だから、しっかり握らせておいて」
その言葉に、澄々は力を緩めた。
ただし解放はしない。
筒ごと弦之助の手を包み込み、逃げられないよう握り直す。
「証拠って……今さら、誰に何を証明するんです」
床に押さえつけられたまま、鷺森が苦しげに声を漏らした。
「剣警に決まってるだろ?」
宏花は当然のように答える。
鷺森の背へ腰を下ろしたまま、自身の膝下を掴んだ。
ごり、と鈍い音を立てて義足を回す。
義足から伸びた刃が、くるりと向きを変えた。
切先は真っ直ぐ鷺森の首筋を捉えている。
「ほら」
宏花は耳を澄ませるように首を傾けた。
「足音が近づいてきた」
まるで鼻歌でも歌うような気軽さだった。
「……この状況を見て、果たして誰を捕まえますかね?」
鷺森の額を汗が伝う。
その問いに答える者はいない。
ただ、複数の足音だけが確かに階段を上がってくる。
「――剣警です。全員、動かないでください」
凛とした声が室内に響いた。
直後、数人の剣警士たちがなだれ込むように部屋へ入り、澄々と宏花を中心に周囲を取り囲む。
弦之助は目に見えて安堵した。
「ちょうどよかった!
助けてくれ! こいつに腕を――」
弦之助の訴えを意にも介さず、剣警士はその腕を取り押さえた。
「なっ……離せ!
おい!」
「これ、危険物みたいだから気をつけろよ。
あとそこの金髪も拘束しておいて。殺しだから」
澄々は気軽な調子で、弦之助が握っていた筒を顎で示した。
続け様に、広太郎も指し示す。
剣警士はそれを確認すると、丁寧に一礼した。
「ありがとうございます。
黒木澄々様」
その名が告げられた瞬間だった。
六人の顔色が変わる。
「く、黒木って……あの、暗殺一家の……」
「黒木澄々ってことは……黒木領の剣警士じゃ……」
口々に漏れる驚愕。
今さらながら明かされた澄々の正体に、誰もが言葉を失う。
宏花はそっと身をかがめた。
そして、鷺森の耳元へ口を寄せる。
「……な?」
小さく笑う。
「俺たちは捕まらないんだよ」
「最初から……剣警まで紛れていましたか……」
鷺森は静かに目を閉じた。
そして諦めたように、全身から力を抜く。
「――鷺木大八。
私情による殺人のため、その身を拘束する」
剣警士に連れられていく背中を、宏花は黙って見送る。
やがてその姿も、視界の向こうへ消えていった。
「宏花。足、こっちに出して」
声に振り向くと、澄々が膝下の義足を抱えていた。
宏花が素直に右脚を差し出すと、澄々はその前へ跪く。
ゆっくりと膝下の向きを整え、
仕込み刀を覆うように木製の義足を差し込んだ。
その手つきは、一国の姫君に足袋を履かせるよりもなお恭しい。
「……ねぇ、俺、聞きたいことがたくさんあるんだけど」
澄々は義足を支えたまま、その足先へ、そっと口づける。
「まだわからないことなんてあったの?
澄々はのんびり屋さんだねぇ」
「うん。帰ったらお仕置きね」
澄々の一言に、宏花はぴたりと動きを止めた。
それから誤魔化すように小さく咳払いをする。
「冗談だよ。
何が聞きたい?」
澄々は足首を引き寄せ、さらに距離を詰める。
「いつ館主の部屋に入ったの?
その手帳の中身は何?
なんでわざと毒なんか飲んだの?
どうやって応援を呼んだの?
これが誰にでもできる暇つぶしの任務っていうのも、嘘?」
「……質問が多いね」
どれから答えてやろうかと思案していると、ふと影が差した。
「君たちは、場所くらい弁えたらどうなんだ」
その声に振り向いた宏花の表情が、ぱっと明るくなる。
「佐藤花衣霞だ。何でこんなところに?
俺は簡単な応援を呼んだつもりだったんだけど」
名を呼ばれた剣警士は、露骨に顔をしかめた。
澄々も、見知った顔に、わずかに肩の力を抜いた。
「五参家が出てくるなんて、珍しいじゃないか。
佐藤領は暇なのか?」
「……その五参家が、応援を寄越したんだ。
相当な危険があると思うだろう」
表情こそ変わらないが、その視線には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「悪い悪い。逢瀬の邪魔でもしたな。
佐藤花衣霞が出るほどの事じゃないから、今すぐ帰ってやりなさい」
宏花が微笑んでやれば、花衣霞は眉間に皺を寄せる。
「皆に任せられると判断したらな」
短く言い残し、そのまま踵を返した。
「真面目すぎてかわいいなぁ。
まるで六つの頃の――なんだよ」
絵に描いたような仏頂面だった。
思わず頬を挟んでやりたくなるほどに。
「……泣くなよ、澄々」
「泣いてないだろ」
宏花の親指が澄々の頬をなぞる。
そこに涙の痕はない。
「……宏花が仰向けになってるの、久々に見て肝が冷えた」
思い返すのは、三郎の叫び声を押し退けて見たベッドの上の光景。
「宏花が毒なんかじゃ死なないってわかってるけど。
わかってるけど……絶対じゃないんだよ」
「うん……」
宏花は、どうしても笑みを堪えきれなかった。
「俺、本当に嫌だったんだから。
何も知らない奴が、宏花のこと勝手に決めつけて。
ベタベタ手垢が付くみたいで」
「お前そんなことにも嫉妬するの?」
思わず口づけそうになるのを堪え、宏花は肩を揺らした。
「よく我慢したね、澄々」
「……何、急に」
「俺、お前に言われてちゃんと口を濯いできたんだけど。
……いつしてくれるの?」
こてん、とわざとらしく首を傾げた。
「なに、きゅうに!」
澄々は宏花を力いっぱい抱き寄せた。
満面の笑みのまま、何度も角度を変えて口づける。
それは、ほんのりと甘い、摘みたての桃の味がした。




