薄明館殺人事件-5
機械的に昼食を飲み込む。
味などほとんど覚えていないまま席を立った澄々の後を、ひとつの影が追ってきた。
「澄々さん」
「……どうされましたか? 珠緒さん」
こぼれそうになったため息を呑み込み、振り返る。
今朝は恐怖に滲んでいた瞳も、今はすっかり綺麗な色を取り戻していた。
(化粧に慣れているな。
でも、目尻にほんの少し赤を入れているのは、あざとい……って宏花なら言うかな)
澄々の意識が危うく別方向へ飛びかけていることなど露知らず、珠緒は胸の前で手を組み、一歩距離を詰めた。
「あのね、澄々さんにお願いがあって……。
貴方にしか、頼めないの」
《薄明館殺人事件-5》
「――珠緒さんは、どうしてこの会に参加されたんですか?」
水が流れる音を背に、澄々は壁に向かって問いかけた。
正確には、壁の反対側。澄々の背よりもさらに後ろにある衝立の奥にいる珠緒に向けて。
「貴方も、香葉楼の交流帳はお読みになったでしょう?
単純に興味が湧いたの。
……でもまさか、こんなことになるなんて……」
桶から静かに水が流れる音。
珠緒は入浴時の護衛を、澄々に依頼していた。
「そうですね。
珠緒さんは、なぜあの部屋に行ったんですか?」
――バシャンッ!
水の割れるような音に、桶が床を転がる音が続く。
「……ごめんなさい。まだ、怖くて……」
弱々しい声色に、澄々は胡座をかいたまま頬杖をついた。
「こちらこそ、不躾なことを言いました。
じゃあ、話題を変えましょう。俺、ここに来てから宏花と推理遊戯をしていたんです」
「推理? どんなのかしら」
ちゃぷんと、湯に浸かる音がする。
「勝手ながら、みなさんの本当の職業を推理していたんです。
ここは皆さん、どこか本当のことを隠しているでしょう?」
「まぁ、面白い。見てわかるんですの?」
「えぇ。俺はまだまだですけど、宏花は見ただけでわかりましたよ」
水が揺蕩う。
「それなら、貴方の推理が聞きたいわ。
私の職業は何だと思う?」
澄々は指で膝をトントンと叩き、わざとらしく考えている声色を出した。
「うーん、珠緒さんは所作も美しくて、お話もお上手で……」
「ふふ、なんだか気分が良いわね」
澄々は斜め上を見上げ、壁の格子柄を目でなぞる。
「……実は、この館の主人の娘さん、とか?」
湯船の水の音だけが、二人の間を漂う。
湯が静かに揺れた。
「……残念。貴方は探偵としてはまだまだみたいね」
「なぁんだ、結構当たってると思ったんだけどなぁ」
澄々の無邪気な声に、珠緒の笑い声が重なる。
「ふふ、私はただの芸者よ。
そんなご大層な身分でも無いの」
湯をかける音が、心地よく響く。
「それに、もしここの娘だったらあの部屋を間違えて開けたりはしないわ」
「間違えて?」
「そう。恥ずかしいことに私、お風呂場と間違えてあの部屋に行っていたの。
ほら、私って朝に入る習慣があるから」
澄々は指先で膝を叩く。
嘘を重ねる間ではない。
(……死体発見は偶然、と……。
共犯の線は、薄いか?)
腕を組んだ拍子に、懐に入れた提げ紐を思い出した。
「――じゃあ、珠緒さんは梅田屋にも行ったことあるんですか?」
「福田にある? えぇ、お呼びいただくことはあるわ」
澄々は格子模様の一枠を目で追いながら言った。
「最近は、あえて三揃いを着て遊ぶのが乙なんでしょう?」
「よくご存知ね。貴方ももう少し大人になったら、よくお似合いでしょうね」
「三揃いにはあれも必須でしょう?
あの、ジャケットの内側で紐と括り付けた……」
澄々の指が提げ紐を弄る。
「懐中時計ね」
「そう! 憧れるなぁ」
澄々の明るい声に反して、衝立の奥からは水の音が寂しげに響く。
「そうね……、殿方はそういう物がお好きよね。
貴方もお気をつけて」
「気をつける、とは?」
水をすくう音。
こぼれ落ちる、水の音。
「最近よく聞くのよ。
時計がどうとか、誰が格上だとか」
珠緒は静かに告げた。
「……それこそ、人の命を奪うことだって」
珠緒と別れた足で、澄々は館の使用人室を訪ねた。
扉に耳をつけ、中から物音がしないことを確認し、するりと身を滑り込ませた。
「んー……やっぱり、みなさん良い時計をお持ちで」
服掛けに並ぶ使用人たちの上着を、一着ずつめくっていく。
目当ては懐中時計だった。
「このくらいがちょうどいいかな……持ち主の名前は……」
目星をつけた懐中時計を抜き取る。
続けて、上着の内側に刺繍された名前を確認した。
「……鷺森さんか」
澄々は三拍ほど手を止め、それから別のポケットへ手を伸ばす。
右の外ポケットから、かすかに紙の擦れる音がした。
「これは……」
取り出した紙を開く。
そこに並んでいたのは、花の名前だった。
「黒百合、夜灯苔、雀葉……。
ふっ……全部合わせれば立派な毒が作れるな」
黒百合の球根には毒がある。
夜灯苔も、雀葉も似た類だと、宏花から聞いたことがあった。
「……そんなことより、美味しい食べ合わせの方を知ってほしいけど」
口元をわずかに歪めたまま、澄々は軽い足取りで小物棚へ向かった。
使用人ごとに割り当てられた棚。
一番奥の引き出しを開ける。
「こういうのは大抵、偉い人ほど奥にあるから……うん。鷺森さんのだ」
中に入っていた手帳を開き、先ほど見つけた紙と同じ模様が入っていることを確かめる。
そのまま頁を次々とめくった。
「……はは。大事なことは紙に残しちゃいけないって習……わないか」
手帳に記されていたのは、とある人物についての記録だった。
「高尾長満……高氏の地主。
刃浦の様々な料亭へ手広く出資をしている……はぁ〜、なるほど」
続きをめくろうとしたところで、廊下から響く足音。
澄々はその場で息を潜めた。
――コツ、コツ……
足音は再び遠ざかる。
(長居も無用だな……)
澄々は手帳を閉じると、元あった場所へ寸分違わず戻した。
その奥に視線を向けると、そこには数冊の文庫本が並んでいた。
読み込まれた形跡のある本は、どれも推理小説だった。
懐中時計を手の中で弄びながら廊下を歩く。
(広太郎さん、俺がドアを叩いても素直に出てきてくれればいいけど……)
考えているうちにふと、前から歩いてくる弦之助と目が合った。
澄々はにこりと笑って歩み寄る。
「弦之助さん」
声をかけられるとは思っていなかったのだろう。
弦之助はわずかに半身を引いた。
「……なんだ」
「やだなぁ、そんなに警戒しないでくださいよ。
そんなに不安なら、俺も宏花と一緒にあそこへ閉じ込めておいてくれればよかったのに」
まるで今日の献立でも話すような気軽な口調だった。
「悪く思うなよ。
あぁするしかなかったんだ」
「連れて行ったのは弦之助さんでしたよね。
あのとき、宏花に何を言ったんですか?」
弦之助は怪訝そうに眉をひそめる。
「……何も言ってねぇよ」
「そうですか?
聞こえた気がしたんだけどなぁ。
……うちで雇ってやる、って」
澄々は一歩、距離を詰めた。
「……厄介な耳だな」
悔しげに漏れたその声に、澄々はわずかに口角を上げる。
「耳だけは良いんですよ。
でも、だからこそ弦之助さんとはお話ししたいと思っていたんです」
弦之助は腕を組んだ。
持ち上がった腕に引かれ、脇の生地が不格好に張る。
とても呉服屋の人間が着る洋服には見えなかった。
「……実は俺も、同業なんですよ。
ほら、父の家業を手伝っているって、最初にお話ししたでしょう?」
「あ、あぁ……そうだったか……」
澄々の言葉に、弦之助の肩からわずかに力が抜ける。
そして、口元を歪めた。
「あいつが“終身雇用されてる場所”ってのが……
お前のところだったのか」
「えっ、宏花そんなこと言ってたんですか?
わぁ……嬉しい……」
澄々は少女のように頬を染めた。
冷ますように両頬へ添えた手の隙間から、懐中時計がちらりと覗いている。
「お前、良い時計を持ってるな」
弦之助の視線が、懐中時計へ注がれる。
「これですか?」
澄々が時計を見せると、弦之助は引き寄せられるように顔を近づけた。
その瞳は、子供のように輝いている。
「光正堂の古い型じゃないか。
これは今じゃ、どれだけ金を積んでも手に入らない代物だぞ。
なんでお前みたいな若造が持ってるんだ」
はっきりした、少し早口で滑らかな口調。
明らかに、澄々を見る目が変わっている。
「祖父の形見なんです。
そんなにすごい物なんですか?」
素直な返答に、弦之助は得意げに笑った。
「すごいなんてもんじゃない。
……なぁ、その時計、俺に預けないか?」
弦之助の手が、澄々の肩から肘へかけて優しく撫でる。
その声には、隠しきれない欲が滲んでいた。
(この手。そうやって宏花にも触っていたな)
澄々は冷ややかな視線をその手に向けつつも、口角だけは下げない。
(……切り落とす理由さえあればいいのに)
「いいですね。
そうやって弱みに漬け込むくらいしか、俺たちには旨みが無いって父もよく言っています」
「冷めるな。
まぁ、わかるさ。俺たちの店に来る客は、それ自体が強力な弱みになるからな」
弦之助は肘から手を離した。
名残惜しそうに時計を見つめる表情は、どこか夢見心地で、ぼんやりとしている。
「あぁそうだ……“あいつ”もそれを使って強請ったんだ。
良い時計を譲ってくれるって話だったんだが――あ、いや、今のは忘れてくれ」
言いかけて、弦之助ははっと身を引く。
勢い余って背が壁へぶつかった。
「お、俺はこれで失礼するよ」
どこか落ち着かない様子で、その場を離れようとする。
「待ってください、もう一つ――」
澄々が呼び止めようとした、その瞬間。
「誰か!
誰か来てくれ!!」
三郎の大声が館内へ響き渡った。
「……なんだ?」
弦之助が呟くのが先か。
澄々が駆け出したのが先か。
二階の奥。
開いた扉の前で叫ぶ三郎を押し退けるようにして、澄々はベッドへ視線を走らせた。
仰向けに横たわる宏花。
その姿を認めた瞬間、澄々の血の気が引く。
「誰か!!
――あいつが、息をしていないんだ!」
三郎の声に、駆けつけた者たちが一斉に凍りついた。
一目散に駆け寄った澄々は、宏花の身に覆い被さるようにその顔を覗き込む。
不安定に揺れる瞳はまるで迷い子だった。
澄々は扉を振り返り、ある人物を探す。
「誠二さん!」
「は、はいッ!」
反射的に返事をした誠二。
その体は既に、ベッドの方へ駆け出していた。
「――少し離れて、
触りますよ」
誠二は宏花の白い首筋に指を当てる。
その反応の薄さに、誠二は身を強張らせる。
震える指先で宏花の下瞼をめくり、その色を確認する。
色の無い唇を見る。
呼気の臭いを確かめて。
そして、膝から力無くへたり込んだ。
「……中毒症状、です……。
これは僕には……どうにもできません……」
「宏花!!」
力っぱい掴む肩。
澄々の叫びに、宏花は応えなかった。




