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薄明館殺人事件-4

 黒木家の本邸と別邸を繋ぐ渡り廊下。

 その屋根の上で、藍褐色の髪が静かに揺れていた。


 月明かりに透ける横顔。


 このまま月が彼を攫っていってしまうのではないかと、幼い澄々(すず)は思った。



「……飯、食わないの」


 ふくれ面のまま、澄々は屋根へ登る。

 その気配に振り返った宏花(ひろか)は、吸いかけの煙管を口元から下ろした。



「俺とはもう話さないんじゃなかったの?」


 向けられた笑みに、澄々はふいと目を逸らす。


「……やめなよ、それ。吸えないくせに」


 言いながら、澄々は宏花から人二人分ほど距離を空けて腰を下ろした。



 宏花は手の中の煙管をくるりと回し、小さく笑う。


「いいの。じいさんの匂いがするだけだから」



 その言葉に、澄々はわずかに目を見開いた。

 そして抱えた膝へ顔を埋める。


「…………ごめん」



 ほんの数日前には大嫌いだと啖呵を切ったくせに

 今はこうして、慎重に言葉を選んでいる。


 笑われても仕方ないと、澄々は思った。



 ふと、宏花の手が、月明かりに伸びる澄々の影に触れた。


「――ぅわっ!」



 誰にも触れられていないはずなのに、胸ぐらを掴まれたように体勢が崩れる。

 倒れ込んだ先から、摘みたての桃のような香りがした。


 気づけば頬が、宏花の膝を枕にしている。



(こ、これって……)



 ――宏花の膝枕。

 そう理解した途端、体の奥から熱が一気にせり上がった。


 慌てて身を起こそうとする。


 だが、背に添えられた宏花の手がそれを許さない。

 相変わらず、重心を捉えるのが上手すぎる人だ。



「離してよ、宏花」


 叩いた膝は、自分と変わらぬ子供の細い骨ばかりだというのに。

 それでも頭上からは笑い声が降り、髪を撫でる手は揺るがない。



「……ねぇ、何についてのごめん?

 俺のじいさんの思い出に触れたこと? それとも、今日うっかり俺を殺しかけたこと?」


 澄々の手が宙でびくりと止まった。



「澄々の頭は、よく働くよね」


 頭の丸みに沿って柔く撫でる手が、泣きそうなほど心地良かった。


「なんでこうなるのか、こうしたら良さそうって、いろいろ考えて……その答えに縛られてる」



「澄々のお莫迦さん。

 戦場で一番信じちゃいけないのは、自分自身だよ」


「……わか、ってるよ……」


 悔し紛れの言葉に、宏花は声を上げて笑った。

 全てを見透かされているようだった。



「たしかに俺は上手くできなかったけど、宏花だって勝手なことするから……」


 言葉尻が窄まる。

 結果として宏花が受けなくても良い刀傷を受けてしまったのは、変わらない。



「ねぇ澄々」


 細い指で顎を掬い上げられ、杏色の瞳に覗き込まれる。


「勘違いしないで黒木澄々。

 お前は、人を動かす側の人間だろ」


「そ、んなの……」


 喉が掠れた。

 ただ宏花の言葉だけが、頭の中を巡る。



「後手に回るな。お前の思うように世界を作れ」



 桃の香りが一層強まる。

 藍褐色の髪が、簾のように月明かりを覆う。


 澄々の額に柔らかいものが触れるのを感じた。

 

「……澄々は、それができる子だよ」

 


 涙がこぼれ落ちていると気がついたのは、しばらく後だった。






 開く視界は、涙で滲んでいた。


「……宏花…………」



 館の客間で目覚めた澄々は、逃げていく夢を引き留めるようにシーツを握りしめた。




 《薄明館殺人事件-4》




「――ッ、うわ、最悪」


 身を起こした拍子に、白いシーツへ赤い斑点が滲んだ。

 鼻先に触れた指には、血がついている。


(この館の中は、影術がどこよりも使いづらいな……)


 

 刃浦では、ほとんどの人間が扱い方すら知らない“影術(えいじゅつ)”。


 陰陽術から派生したその力は、この土地とひどく相性が悪かった。



(少し影を伸ばしただけで気絶して、鼻血まで出すとは……。

 これはもう、完全に選択肢から外さないと)


 澄々は小さくため息をつき、そのままベッドへ倒れ込む。



 深く息を吸った。


 薄い桃の香りが、ゆっくりと肺を満たしていく。



「……これが消える前に、返してもらわないと」



 両脚を伸ばし、腹筋と遠心力だけで勢いよく身を起こす。


 思いきり鼻をかみ、澄々は部屋を後にした。




 


 しんと静まり返る館内。


 死体発見によって懇談の空気は一気に霧散し、今は誰もが自室へ引きこもっているらしい。


 

 澄々は二階奥の扉を叩く。


「……何だ」


 三郎の声とともに扉が開いた。


 

(不用心だな)


 澄々は顎下を狙いかける手を押し留め、努めて人好きのする笑みを浮かべた。


「宏花の様子を見に来ました」


 

 三郎は眉を寄せる。

 心底迷惑そうな顔だった。


「……寝てるよ」

「ずっと?」


「あぁ。ここへ連れて来られてから、ずっとだ」


 

 二階奥の広い客間は、宏花の隔離場所になっていた。

 そして、その見張りを任されているのが、三郎。

 


「それじゃ暇でしょう。俺が代わりますよ」


 澄々の提案に、三郎は大きくため息を吐く。


「お前は奴の友人だと言っていたな。

 そんなやつを見張りにして、誰が信用するというんだ」


 

「……貴方なら信用すると?」


 蘇芳の瞳がすっと細められる。

 三郎は薄く背筋を這う寒気を覚えた。


 

「少なくとも、お前たちよりは信用がある。

 だいたい、奴が怪しすぎるんだ」


 三郎は扉のノブを握り直した。


「とにかく戻ってくれ。

 そんなに会いたいなら、あいつが安全だと証明できるようになってから出直せ」

 


 閉まりかけた扉を、澄々の手が押し留める。


「じゃあ、一目だけ」


 身を乗り出し、三郎の肩越しに部屋の奥を覗き込む。


 ベッドの上には、横向きのまま胎児のように身体を丸めて眠る宏花がいた。

 その両手首は、縄できつく縛られている。


 扉を掴む指先が、みしりと音を立てた。


 

「……わかりました。

 必ず、迎えに来ますね」


 そう言って身を引く澄々に、三郎はようやく肩の力を抜く。


 

「――そうだ、三郎さん」


 扉が閉まる直前、澄々が振り返った。


「室内では刀は右手に持つ。

 “剣士なら”、ご存知ですよね」


「あ、あぁ……」


 三郎は半歩身を引き、腰の刀へ触れる。

 


「――剣士を名乗るなら、ちゃんと守っていてくださいね。

 俺の大事な人のこと……」


 

 ――バタン!

 

 三郎は思わず扉を閉めた。


 その視線も、その言葉も。

 今、後ろで眠っている男とまったく同じだったからだ。


『剣士を名乗る以上は、ちゃんと守ってくださいねぇ。

 俺、かなり大事にされてるので』


 

 

「――なんなんだ、こいつら……ッ」


 三郎は怒りのまま壁へ拳を叩きつけた。

 

「こんなの、遊びだろう?

 遊びで剣士を名乗って、何が悪いんだ!」



 煮えたぎる不安が、広い室内へ反響する。

 それでも、ベッドの上の寝息が乱れることはなかった。

 

 

 

 

 

 

「――一寸もないな。浅すぎる」


 階段下の部屋。

 件の事件現場で、澄々は死体の腹部を観察していた。


「これじゃ致命傷には至らないはずなのに」


 今朝はよく見えなかった死体も、幸いそのままの状態で残されていた。


 

 被害者は男。

 仕立ての良い三揃えのスーツを身につけている。


 澄々は乾いた血で硬くなった上着を脱がせ、傷口を確かめた。

 だが、結論は変わらない。


 

「宏花の言っていたことと違うな……。

 “刺殺”も、“腹部への深い刺創”も、これには当てはまらない。

 んー……宏花の見立て違い? そんなわけないか」


 顎へ手を添え、澄々は首を捻る。


 

 やがて立ち上がると、部屋の奥の窓辺へ向かって歩き出した。


「カーペットに残った血痕を見る限り、ここにいた被害者が……一歩、二歩……ん、歩幅が狭いな。

 ここで、刺された」


 血痕の上に立ち、澄々は刺された時の動きをなぞる。


「それで……そのまま倒れた。

 つまり最後は刺されて終わっているわけだから、刺した本人からすれば『殺した』って思うよな」


 カーペットの上へ寝転がったまま、澄々はぶつぶつと独り言を漏らしながら、頭の中の情報を整理していく。

 


「死体を見つけた宏花が不機嫌だったのも気になるな。

 宏花は型通りの人間と中途半端を嫌うからなぁ……。あとは、同業との鉢合わせ――」


 がばりと身を起こす。


「刺し傷はどう見ても素人のもの。でも死んでいる。

 もし犯人が刺す前に、何らか致命傷を負わせた人間がいたとしたら……?」


 

 もう一度、死体を観察した。


 腹部の刺し傷以外に目立った外傷は見当たらない。


 小さな傷跡ひとつない指先を確認し、ため息を吐きかけたところで――


 ふと、被害者の口元が目に留まる。


 

「……泡?

 拭き取った跡がある」


 口元に残るわずかな白を認めた、その瞬間――


 首へ回された腕。


 締め上げられる寸前、その腕を掴み、そのまま背負い投げた。


 

 ダン!と鈍い音を立てて床へ叩きつけられる男。


 澄々は間髪入れず、掴んだままの右腕を背中側へ捻り上げ、左手を踏みつけた。

 


「何か御用ですか? ……鷺森さん」


 背に乗せた膝が、鷺森の肺を容赦なく圧迫する。

 

 

「……まもなく、昼食のご準備が整います。

 皆様ご一緒をご希望とのことでしたので、澄々様も食堂へお越しください」


「それは、宏花もですか?」


 鷺森は踏みつけられた左手を気にしながら、静かに続けた。


 

「申し訳ございませんが、ご友人を部屋から出すことはできかねます。

 三郎様も、同じ部屋でお食事をなさるそうです」


「そうですか……残念です」


 澄々はそう言って手を離した。


 

 圧迫から解放された途端、鷺森は苦しげに咳き込む。


 

「すみません。反射的に押し倒してしまって」


「いえ。私の方こそ失礼いたしました」


 鷺森は微笑み、乱れたジャケットを整えた。

 その手つきに澱みはない。

 

 しかし、澄々に向けられる視線は冷たい。


 

「では、食堂で」


 澄々の言葉に鷺森は深く一礼し、その場を後にする。


 

 鷺森の背を見送ったあと、澄々は大きく息を吐き出した。

 

(危なかった〜!

 気配が薄すぎて気づかなかった!

 宏花に見られてたら、また馬鹿にされるところだった……)


 早鐘を打つ鼓動を落ち着けるように、そっと自分の胸を撫で下ろした。


 

 

 部屋を出る前に、澄々は再び死体へ目を向ける。


 

 開いたジャケットを元へ戻しかけて、


「……ん?」


 ふと、その内側で何かがきらりと光った。


 提げ紐だった。


 

 片側はジャケットの内側へ繋がっているが、反対側には何も付いていない。


 

「引きちぎられたような跡……」


 指先で摘み上げ、軽く観察する。


 

「まぁ、これもついでに確認してみよう」


 澄々は提げ紐を抜き取り、懐へしまった。


 

 

 

 宏花のいない食事など、味がしなかった。

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