薄明館殺人事件-3
「そういえば、アレあったよ」
昇ったばかりの陽が雪原を照らす、眩しいほどの朝。
宏花は混ぜご飯の中から舞茸を摘まみ上げながら、ぽつりと言った。
「えっ、もう取ってきちゃったの?」
向かいに腰掛ける澄々は、漬茄子を大葉で包む箸を止めて目を見開く。
「あ? あぁ、そっちは無理だよ。館主が来ないことにはな」
「だよね? よかった……。え、何があったって?」
澄々は嫌な予感を覚えながら、もう一度問い返した。
「だから、死体だよ」
言葉を失った澄々の代わりに、窓辺へ留まった小鳥の囀りだけが響いた。
《薄明館殺人事件-3》
「え、死体って……死体?」
「以外に何がある?」
宏花は再び舞茸を摘み出す。
だが、それが口へ運ばれることはない。
「ないけど…………それ、気に入ったの?」
「死体が?」
「そんなわけないでしょ。舞茸だよ」
澄々は唇を尖らせた。
朝食は部屋の前まで運ばれてきていた。
通常は部屋ごとに一人分。しかし、澄々の部屋の前には二人分の膳が用意されていた。
鷺森は優秀な使用人だと、澄々は思う。
「舞茸ね……これ、澄々は好きでしょう」
宏花は摘み上げた舞茸を、澄々の椀へ乗せた。
「なんでわかったの!
美味しいんだよね、滅多に食べられない冬の味覚……」
「領主子息でも?」
「なんかそれ、棘あるね?」
舞茸の混ぜご飯を頬張りながら、澄々は眉を寄せる。
その眉間を指先でなぞりながらも、宏花の表情はほとんど動かなかった。
「気のせいだよ」
「……死体に何か問題でもあった?」
澄々は宏花の手を取った。
指先は柔らかい。
そこでようやく、宏花の目尻がわずかに緩んだ。
「問題なんか無いよ。ただ……素人の中途半端な殺害現場で、つまらなかっただけ」
「そんなの、宏花は――」
――きゃああああっ!!
微睡みを引き裂くように響いたのは、女の悲鳴。
澄々は弾かれたように立ち上がり、部屋の扉を開く。
「右の階段脇の部屋だよ」
宏花の言葉を背に、廊下へ駆け出した。
澄々が階段を駆け降りると、その先にはすでに人だかりができていた。
手すりから身を乗り出すようにして見下ろせば、階段脇の部屋の前で腰を抜かした珠緒がいる。
そのすぐ後ろには三郎と誠二。
少し離れた場所からは、広太郎が部屋の様子を窺っていた。
澄々もそこへ合流し、部屋を覗き込む。
中では鷺森が床にしゃがみ込んでいた。
「何があったんですか?」
澄々の声に、三郎が振り返る。
「……中に、人が。珠緒さんが見つけたそうだ」
不安定に揺れる声だった。
目元を手で覆い、部屋の中を直視することを拒むような様子を見せている。
「大丈夫ですか?」
澄々は珠緒の傍らにしゃがみ込み、その顔色を窺った。
全身は震え、血の気が引いている。
「わ、私…………あぁっ、怖いですわ……」
涙に濡れた翡翠の瞳が澄々を捉える。
次の瞬間には、珠緒の身体がその腕の中へ飛び込んできていた。
しっかりと回された腕。
澄々は、この状態で話を聞き出すのは難しそうだと判断し、部屋の中へ視線を向けた。
調度品の少ない、狭い空き部屋。
鷺森の背に遮られて全貌は見えないが、床へ投げ出された手足が見える。
最期まで何かを掴もうとしていたかのように、扉の方へ伸ばされた手。
そのすぐ傍のカーペットには、赤黒い血が染みとなって広がっていた。
死体だ。
宏花の言った通りの場所に、死体があった。
そして今この瞬間、この出来事は殺人事件となってしまった。
死体を確認していた鷺森が立ち上がる。
静かに部屋の扉を閉めると、こちらへ向き直り、姿勢を正した。
「大変申し訳ございませんが、こちらは剣警へ連絡する事態となりました。
皆様におかれましては、ご自身の安全を優先してご判断いただきたく存じます」
鷺森は深々と頭を下げる。
「中の人は、その……どのようにして?」
誠二が恐る恐る尋ねた。
だが、鷺森は静かに首を横へ振る。
「専門外のことですので、私としてはなんとも……。
亡くなられた、としか」
その言葉に、腕の中の珠緒が小さく身を強張らせた。
「、じゃあ僕が――」
「――ちょうど吹雪も落ち着いているし、今のうちだな」
誠二は何かを言いかけたが、同時に話し出した三郎の声にかき消される。
それぞれが部屋の前から離れようとしたその時――
「おい! 誰か!」
玄関の方から大声が響いた。
足音が廊下を駆ける。
やがて姿を現したのは弦之助だった。
「なんだ、みんな揃って……それより!
大変なんだ。外の橋が崩れちまってる!」
その場の全員が息を呑んだ。
「……そんな、それじゃあ……」
広太郎が呟く。
「――それじゃあ、橋が直るまで……この死体と、ずうっと一緒だなぁ」
軽やかな声に、その場の全員が振り向いた。
階段の手すりにもたれかかりながら、こちらを見下ろす宏花の姿。
その妖艶な笑みは、広太郎にのみ向けられていた。
「――宏花さん、あんたねぇ……。
死体? 何の話をしているんだ」
弦之助が凍りつく空気を割って入った。
詰め寄ろうとした弦之助の腕をするりとかわし、宏花は件の部屋へ向かった。
「弦之助さんはまだ、ご覧になっていませんでしたよね。
こちらです」
言うや否や、扉を開ける。
「きゃっ」
再び晒された死体に、珠緒は澄々の腕の中へ顔を押し付け、縋るように抱きつく力を強めた。
一瞬、宏花の視線が澄々に注がれる。
それは針が瞳を貫くような、細く鋭い――殺気。
「――ッ」
澄々は思わず口元を手で覆った。
滅多に向けられない宏花のそれに、全身がざわりと粟立ち、喜びに震えてしまう。
(こんな……普段は嫉妬とかしないくせに……ッ)
「――うわぁ!」
部屋の中を覗いた弦之助が、腰を抜かした。
「おい、なんだよこれ! どうして……」
一度尻餅をついたものの、弦之助は近くの壁を頼りに立ち上がった。
だが、死体へ向ける眼差しに怯えはなかった。
「……そりゃぁ、貴方にとってはそこまで珍しいものでもないですよね。
鷺森さん。剣警への連絡には弦之助さんもご一緒に。参考になると思いますよ」
突然振り返って言う宏花に、鷺森は驚きを最小限に抑えながら微笑む。
「えぇ、ですが……」
言い淀む鷺森を見て、宏花はわずかに思案するような間を置いた。
「簡単ですよ。
一人の男性が何者かによって刺殺された。
凶器は包丁。腹部への深い刺創から、強い怨恨も疑われる……とでも説明すれば、あとは彼らが対処するでしょう」
「ちょっと待て、あんたなぜそこまで知ってる?
俺より後に来ただろう?」
三郎の手が宏花の肩を掴んだ。
「確かに……それに、どこか楽しんでいるように見えます。
不謹慎だとは思わないんですか? ご遺体の前ですよ?」
誠二が続けた。
その瞳には、わずかな怒りが滲んでいた。
「立派な正義感ですね。
なら貴方が確認してみますか? 彼の死因」
誠二の目が泳いだ。
「見てもないくせに適当を言うな。
何が目的なんだ」
一層強くなる三郎の手。
宏花は視線を這わせ、この場の全員を見回す。
藍褐の長い髪からのぞく杏色の瞳。
それは良くも悪くも、人を惑わす力があった。
「宏花、そのくらいに……」
「でしたら、死亡推定時刻?も、言いましょうか?
昨日の――」
「――俺、見ました!」
宏花の言葉を遮るように、広太郎が言った。
全員が広太郎を振り返る。
その瞬間、澄々の背筋を、嫌な予感が這い上がった。
(まずい……宏花に、面倒なことが起こる)
「俺、見たんです。
昨日の夜、彼がこの部屋から出てきたのを」
宏花は広太郎を見ていた。
表情は無く、ただ、じっと。
「……まさか、彼が……?」
珠緒の怯えた声は、誰の耳にもはっきり届いた。
彼らの視線が宏花を捉える。
そこに映るのは、恐怖。
「待ってください!
宏花は、そんな――」
言いかけて、澄々は言葉に詰まった。
(待て、何て言えばいい?
宏花は、そんな雑な殺し方をしない?
宏花だったら死体が露見した時点で全員を殺している?
……どれも、何の弁明にもなってないじゃないか)
視線を泳がせて黙り込む澄々を置き去りにするように、話は進んでいく。
「ご遺体を前にして平然としている人を信用できません。
この方はどこか別の部屋に隔離しましょう」
「そうだな。
この中で腕っぷしが強いのは俺だろう。近くで見張っておく」
誠二の提案に、三郎が乗る。
「ほら、こっちだ」
弦之助が宏花の背に手を伸ばす。
エスコートにさえ見えるその仕草は、どこか馴れ馴れしかった。
弦之助は周囲には聞こえないように、宏花に囁く。
「……私の生業を知っているような口ぶりだったな。
前科がついたら、うちで雇ってやるよ」
「生憎、俺には終身雇用されてるところがあるんだ」
宏花の声は、羽のように軽い。
「ま、待てッ」
澄々が宏花を追おうと立ち上がりかけるが、その袖をぐんと引かれる。
「珠緒さん……」
「あの、澄々さん……私、怖くて……。
お部屋まで、運んでくださる……?」
珠緒が濡れた瞳で見上げる。
澄々が迷って階上を目で追うと、こちらを見下ろす宏花と目が合った。
その視線は、外の空気よりも冷たい。
息を呑む澄々に、宏花は舌を出して目を逸らした。
「まずい……これは、かなりまずい……」
澄々は両手で顔を覆った。
「勝手に起きた殺人に、勝手に怯えた人間たちが、都合よく宏花に全部押し付けたな。
宏花も宏花で、なんで余計なことを……。親切心か。観察か。実験か。
あぁ、本当に――」
「澄々さん……?」
珠緒が不思議そうに覗き込む。
その時、澄々はふいに顔を上げた。
「――宏花を、取り戻さないと」
蘇芳の瞳が、まっすぐ前を睨みつけていた。




