薄明館殺人事件-2
「やぁやぁ、遅れてすまないね!」
吹雪の薄明館。
紅茶再現同好の会の輪へ、一人の男が駆け込んできた。
山吹茶色の髪を揺らし、慌ただしく注いだ紅茶を一気に飲み干す。
「吹雪で道がわからなくなってしまってね。でも早くみなさんにお会いしたかったんだ」
男が不躾な作法を詫び、談笑の輪へ溶け込んでいく。
輪から少し離れたソファ席で、宏花がじっとその男を見ていた。
そして、カップの縁に口をつけたまま、
「――あいつ、人を殺したな」
向かいに座る澄々にだけ聞き取れる声で呟いた。
《薄明館殺人事件-2》
「……なんでわかるの」
澄々は声を潜めて問いかけた。
山吹茶色の髪をした男が、コートも脱がずにソファへ腰を下ろす姿を視界の端に捉えながら。
「殺気」
宏花は、それだけを答えた。
「面倒臭がらないでよ。もう眠いの?」
「ジジイ扱いするなよ」
じろりと睨む瞳は、先ほどまで浮かべていた妖しい笑みとはまるで別物だった。
澄々は、それが少し惜しいと思う。
「宏花って昔からそれ言うよね。
殺気って見てわかるもの?」
「修行が足りないね。うちのばあさんが聞いたら投げ飛ばされるよ」
「三世代前の刃浦より、今は随分と平和になりましたからねぇ!」
澄々の声がわずかに大きくなる。
宏花は「声がでかい」と嗜めると、チーズをひとかけ澄々の口へ押し付けた。
「しょうがないな。
殺気も見えないお莫迦さんのために、教えてあげよう」
そう言うと、宏花は立ち上がり、男の座るソファの背後へ向かって歩き出した。
「――失礼。俺たちも、ご挨拶をしても?」
山吹茶色のつむじが、弾かれたように振り返る。
「っえぇ! もちろん、あの……」
「すみません。これでは体勢が苦しいですよね」
無理に振り返ったせいで、男の胴体は座面の上で濡れ雑巾のように捻じれている。
宏花はそこで初めて男の正面へ回り込んだ。
その移動の最中、宏花は後ろをついてくる澄々へ視線を送る。
一瞬だけ向けられたその眼差しは、
これが殺気だと――そう教えていた。
(これのどこが?
彼はただ、宏花の声に振り返っただけじゃないか。
ただ驚いて……いや、違うな)
改めて男を観察する。
首筋には汗が浮いているのに、頬は上気していない。
むしろ、血の気が引いたように白かった。
それは不安であり、緊張。
(なるほどなぁ……。
考えてみれば、俺たちの思う殺気と、彼らの抱く殺気は別物か)
澄々は、広太郎へ握手の手を差し伸べる宏花を見た。
浮かべる笑みは、柔和そのもの。
(でも宏花は、彼が人を殺したとはっきり言った。
たぶんまだ他に、根拠があるはずなんだけど……)
巡る思考は、今日五人目の他人が触れる宏花の手を視界に入れる度に、別の方向へ逸れてしまう。
(……早く、手洗ってほしいな。
じゃなくて。宏花はあの一瞬でそれを見た……ほんと、敵わないな)
「挨拶が遅れてすまない。
僕は、望月広太郎。時計の修理屋をしている」
声のよく通る、溌剌とした青年だった。
「……どうりで。指先が長くて、器用そうだと思ったんです」
握手した手を離さぬまま、宏花はその指先をじっと見つめた。
わずかに引こうとした広太郎の手は、そのまま宙で止まる。
「爪も整っていて……おや」
宏花の視線が、爪の間――褐色の汚れを撫でる。
その瞬間、勢いよく手が引き抜かれた。
「部品の滑りをなめらかにする油が! お恥ずかしいです」
「いえいえ。職人さんの立派な勲章ですよ」
「く、勲章だなんて……」
広太郎は手を隠すようにポケットへ押し込んだ。
つま先は、宏花から逃げるように外を向いている。
それでも宏花は、話しかけることをやめなかった。
「外はどうでしたか?」
「外、ですか?」
「えぇ。吹雪に足を取られたと言っていたので。
そんなに酷いなら、外の橋も心配ですよね」
宏花は、わざとらしいほど憂いを帯びた表情を浮かべる。
「あぁ……そう、ですね……」
広太郎の手が、ポケットの中で強く握られているのが見て取れた。
澄々はその様子に、薄く睨みをきかせる。
(怒りで余裕がなくなってきてるな。
……それを宏花に向けるようなら――)
「――皆様」
凛とした声が応接間に響いた。
澄々はその瞬間、瞳に蘇芳の色を戻し、声の方へと向ける。
「当館の主人より、書面をお預かりしておりますので代読させていただきます」
鷺森は封を開き、その中身を読み上げた。
「親愛なる紅茶再現同好の会の皆様。
本日は当館へご足労いただき、誠に感謝申し上げる。
しかし残念なことに、私は急用のため皆様へご挨拶に伺うことができない。
そのお詫びといっては何だが、本日は当館に宿泊し、心ゆくまで羽を伸ばしていただけないだろうか。
館内は自由に出歩いて構わない。
入り用のものがあれば鷺森へ申し付けてくれ。
また明日、皆様にお会いできることを楽しみにしている。
――とのことです」
「そんなの、願ったりじゃないか。なぁ!」
弦之助の弾んだ声が応接間に響く。
続いて、誠二が静かに尋ねた。
「部屋は、人数分あるんですか?」
「えぇ。皆様のお部屋は、すでにご用意しております」
鷺森はにこやかに応じた。
廊下には数人のメイドが控えている。
「それじゃあ一旦、部屋を見せてもらおうかな」
三郎が立ち上がった。
足を踏み出しかけたところで、思い出したように刀を手に取る。
(……また忘れてる。嘘をつくにしても、なんで剣士なんか選んだんだろう)
澄々は着物の袖の中で腕を組んだ。
「では、本題のお紅茶は明日に持ち越しね。楽しみだわ」
珠緒はそう言い残し、メイドの先導で応接間を後にした。
弦之助たちも、その後に続いていく。
少し遅れて立ち上がった広太郎は、廊下へ出ると皆が向かう方向とは反対側へ視線を向けた。
「お部屋は左だそうですよ。
――右の部屋に何か……忘れ物でも?」
宏花の呼びかけに、広太郎は足を止めた。
「あ……あはは。少し方向音痴でして……。
教えてくれて、ありがとうございます」
口元には笑みを浮かべている。
だが、それは最後まで形にならず、どこか歪んでいた。
「……宏花」
広太郎の背中を見送りながら、澄々は窘めるようにその名を呼んだ。
「面白いくらいに動揺したなぁ。
爪も、靴も、何も隠せていないのに」
「あんまり遊ばないでよ。反撃してきたらどうするの」
指先が掬う藍褐色の髪は、さらさらと指の間を落ちていく。
それはまるで、宏花を掴み損ねる手のように見え、妙に胸の奥をざわつかせた。
「それで、その死体は右の部屋のどこかにあるって?」
眉間に皺を寄せる澄々の視線の先。宏花はまるで芝居でも観ているかのように機嫌が良かった。
「そういうこと。
澄々こそ、一般市民に殺気なんか向けてないで、相手をよく見なさい」
「……いつのこと?」
不意に図星を突かれ、語尾がわずかに弱くなる。
「だから、見えてるって言ったろ?」
腹立たしいほど妖艶な笑みだった。
澄々は赤くなった頬を隠すように、宏花を抱き締める。
「それよりさ、澄々。
これ、痛くなっちゃった」
宏花は自分の右脚を中指で弾いた。
中身の詰まった、木の音。
「運んで」
「……しょうがないなぁ、もう」
素っ気なく言ったつもりの言葉は、どうしても端から甘くほどけてしまう。
澄々は宏花を横抱きにし、そのまま応接間を後にした。
当然のように回される腕に気を良くした澄々は、破顔してさらに抱き寄せる。
静かに重なる吐息。
窓の外では、吹雪が嘘のように止んでいた。




