薄明館殺人事件-1
男はため息を吐いた。
目の前の床に、うつ伏せの死体が転がっている。
腹部を深々と刺されたのだろう。流れ出た大量の血がカーペットを濡らしていた。
こちらへ伸ばされた右手は、何かを最期まで離すまいとしたかのように歪んでいる。
凶器は包丁だ。
血に濡れた刃物が、すぐ傍に転がっている。
「……中途半端な」
男は死体のすぐ横にしゃがみ、血に濡れた包丁を摘み上げた。
切先から血がしたたる頃、男の視線は死体の口元をなぞった。
そして、ふっと鼻で笑った。
杏色の瞳は死体への興味を失い、踵を返し部屋を後にする。
ドアが閉まった、その時だった。
ふいに、空間へ闇が落ちる。
停電。
ドアに手をかけたままの、その耳が捉えた走り去る足音が、誰のものだったのか。
その答えは、闇の中へ溶けるように消えた。
《薄明館殺人事件-1》
「う、わ! 寒い! 寒すぎ!!」
雪が頬を叩く中を、二人の男が歩いていた。
寒い寒いと大声を上げる男は、黒い着物を抱き寄せるように身を縮こまらせている。
前を見て歩いていないせいで、その肩は隣を歩く男に何度もぶつかっていた。
「そんなに寒いなら返すよ。これ、澄々のでしょ?」
肩をぶつけられてよろめきながら、男は羽織を脱ごうとする。
その下には、平安貴族かと思うほど幾重にも重ねられた着物が覗いていた。
「だめ! 着てて!」
澄々と呼ばれた青年――黒木澄々は、羽織を脱ごうとする手を慌てて掴み、そのまま元の位置へ戻す。
そして、その冷え切った手を包むように撫でた。
「こんなに手が冷たいのに。宏花、これは寒いってことなんだよ」
「……お前、俺のこと何だと思ってるの」
澄々に説き伏せられた――柳木宏花は、目を細め、不満げな表情を浮かべる。
「宏花は俺の大事な人で、愛する人で、可愛くて、放っておけなくて、俺の世界の中心人物♡」
「“兄弟子”が抜けてる。尊敬が足りてないんだよ」
「あぁ、うん。世話の焼ける兄弟子、ね」
その一言に、宏花はわざと肩をぶつけた。
しかし、よろめきもしない大きな体を見上げているうちに、わずかな苛立ちが胸の内に募った。
しばらく歩くと、雪原にぽつりと佇む洋館が姿を現した。
「……あれだ」
「“薄明館”……。
重要な書面を隠すには、ぴったりの辺境だね」
雪景色に溶け込むような白い外観。
遠目には輪郭すら曖昧だった館は、近づくにつれてその堂々たる造りを現し、思わず目を見張らせた。
「さっさと終わらせよう。たぶん明日にはあの橋落ちるぞ」
「えっ! 怖いこと言わないでよ。あれが唯一の吊り橋なんだから」
澄々は振り返り、今渡ってきた吊り橋を見た。
森を裂くように開いた崖と崖を繋ぐ吊り橋が、吹雪の中で頼りなく揺れている。
木々の擦れ合う音が風に混じり、不吉な軋みとなって耳に届いた。
「――お客様」
玄関先には、ランタンを手にした初老の男が立っていた。
「紅茶再現同好の会で」
宏花の言葉に、澄々も背筋を伸ばす。
潜入はすでに始まっている。
この手の任務における兄弟子の教えは「堂々としてろ」それだけだ。
「……お待ちしておりました。私、使用人の鷺森と申します」
聞き馴染みのない苗字に、ほんの一瞬動きが止まる。
刃浦ではその土地を五つに分けた創世以来、出身五領それぞれの文字――“木”“高”“藤”“井”“田”を取った家名を名乗ることが定められている。
だが、この名はその命名規則に当てはまらない。
(なるほど、ここでは出身を隠すのか……)
澄々は最近聞き齧った、同好会の“お約束”を思い出した。
「黒岡、澄々です」
鷺森の視線に、不信の色は見えない。
「柳宏花です」
「……やなぎ、ですか? 文字は……」
「一文字で。枝垂れ柳と同じ字です」
澄々は思わず隣を見た。
この厚顔無恥な兄弟子は、偽名規則など嘲笑うかのように堂々と名乗ったのだ。
(いや……まぁ、一般人が勝手に名乗る偽名なんて、ただのごっこ遊びでしかないんだけどさぁ)
館内を案内する鷺森の後ろについて歩く廊下で、宏花は口元をほとんど動かさずに呟いた。
「お前、全部顔に出てるぞ」
「宏花は浪漫ってものを知らないよね」
澄々はむっとして言い返した。
「――こちらで、みなさんお揃いですよ」
鷺森に案内された応接間では、すでに数人の男女が談笑していた。
見たところ、年齢も職業も共通しているようには思えない。
「しまった。俺たちが最後でしたか」
「いいえ。あと……お二方、まだお見えになっておりません」
「そうでしたか。よかったよかった」
笑みを浮かべ、宏花は応接間へ足を踏み入れた。
澄々もその後に続く。
「やぁ。出遅れてしまいましたかな?」
「おぉ、これはこれは。我らも今しがた集まったところです」
宏花の呼びかけに、輪になってソファへ腰掛けていた面々が振り返る。
ひときわ大きな声で答えたのは、身なりの整った恰幅の良い男だった。
「私は真壁弦之助。普段は小さな呉服屋をやっております」
差し出された手に握手を返す。
宏花の浮かべる愛想の良い笑みに、澄々は感心した。
普段は仏頂面で、半分眠っているような顔をしているくせに、仕事中にだけ発揮されるこの社交力は、一体どこに隠しているのか。
「僕は間山誠二。学生をしています」
爽やかな好青年だった。
糊の利いた襟元が、その清潔感をより際立たせている。
「私は広瀬珠緒。みなさんにお会いできて嬉しいですわ」
柔和な笑みが、応接間の空気を一段明るくした。
「俺は悠木三郎。見ての通り、剣士だ」
大きな笑い声をあげて、傍らの刀を示す。
袖口から覗く腕には太い血管が浮き、その力に絶対の自信を持っていそうだった。
「俺は柳宏花。漢字一文字で柳です。こちらは友人の――」
「黒岡澄々です。父の商いを手伝っています」
和やかな自己紹介が終わると、弦之助が部屋に並ぶ軽食へ興味を示したことをきっかけに、その輪は自然と解けた。
宏花と澄々も、彼らから少し離れた椅子へ腰を下ろす。
「こうも堂々と嘘を吐く人間に会うのは久しぶりだなぁ」
「最近はそういうのが流行ってるらしいよ。
趣味の話に没頭するために、身分は隠して、遠くの場所で会う。
秘密の倶楽部みたいな」
澄々はサンドイッチを開き、クラッカーの上へチーズを重ねる。
甘いものはないかと、テーブルの上へ視線を走らせた。
「何に憧れたんだか。
澄々はわかる? 彼らの本当の職業」
一口大の最中を口へ運ぶ。
半分だけ齧って置こうとしたが、澄々の視線を受け、残りも口に放り込んだ。
「宏花はわかるの?
それ美味しい?」
「食えるよ。
そんなの、見たらわかるだろ」
澄々はサンドイッチを咀嚼しながら、彼らへ目を向けた。
「……いや、見てわかるのなんて宏花くらいだよ。
俺のやり方でいい?」
宏花は挑戦的な笑みを浮かべ、椅子の背もたれへ頭を預けた。
「いいよ。あとで答え合わせしようか」
その言葉に澄々は立ち上がり、脱いだ羽織を宏花の膝に乗せた。
そして紅茶のカップを手に、談笑の輪に向かう。
「――みなさん、紅茶は飲まれました?」
「もちろん。見事なものだね」
最初に返事をしたのは、やはり弦之助だった。
その手にはティーカップが握られている。
(この反応の良さ……商人の気質を感じるが……)
「これ、いつ淹れたのかしらね。淹れたてではないのに、ちっとも渋くないの」
「茶葉が良いのでしょうか? 香葉楼でも扱っていたら良いのに」
珠緒の言葉に、誠二が応じる。
“香葉楼”という葉茶屋が、彼らを繋ぐ中心地なのだろう。
「香葉楼の店主は、ここには来ないんですか?」
「店主自身はそういうものに興味が無いんだよ」
「興味が無くても、他人が勝手に交流するのは好きなんだから、珍しい人だよな。
ほら、この館を紹介してくれたのも店主だ」
弦之助の言葉に、改めて館内を見る。
五参家の長を呼んでもおかしくない重厚な内装。
ただの同好会を開くには豪華すぎる。
「ここを貸し出せば喜ぶ客もいるだろうが、いかんせん吊り橋がなぁ……」
「――でも、葉茶屋に交流帳が置いてあるなんて、私も驚いたわ」
拾いかけたつぶやきは、珠緒の言葉にさらわれて追いやられる。
澄々の思考も、自然と流れていった。
「まぁ、そこに書き込んだからこそ、俺らがこうして出会えたわけだ」
三郎が傍らの刀に触れる。
まるで、そこにあることを確かめるように。
(修行を終えたばかりの子どもじゃあるまいし……なんだか、刀に慣れていないみたいだ)
「三郎さんは……珍しいですね。氷を入れて飲むんですか?」
三郎のティーカップの中では、氷が静かに揺れていた。
わざわざ用意させたものらしい。
「俺は氷が無いと飲めないんだ。ほら、ある程度冷たい方が、素材本来の風味がわかるだろ?」
「そうか? でも、俺たちが再現しようとしてるのはもっと昔の紅茶だ。
氷なんて無い時代なんだから、そこは折れてくれよ」
(再現……彼らがここに集まった理由か。
……宏花も、それくらい教えてくれればいいのに)
最近新調した義足の具合を見るだなんだと言って、休んでいたところを引っ張り出してきた兄弟子をちらりと見る。
ソファが心地良いのか、その首はこくりこくりと船を漕いでいた。
「俺、あの友人に連れられたばかりで疎いのですが、何を再現するんですか?」
「刃浦で初めてお紅茶を飲んだ、大高仁蔵の味を再現するのよ」
いつの間にか隣へ来ていた珠緒から、ほのかに酒の香りがした。
(彼女自身が大酒飲みというより……酒の多い空間に長くいる人間の香りか)
「大高……高氏なんですね。たしかに、昔から趣向品には目が高い」
「そうなんですよ! あの味を再現できれば、気品を買われて異国の茶会へ招かれた大高に、少し近づけるような気がしますよね」
誠二の声が、さらに明るくなる。
(彼は間違いなく高氏の人間だ。
手入れの行き届いたシャツは、使用人に整えてもらったものだろう。
あの若さなら、良家の学生というのも嘘ではないのかもしれない)
話をしながら、澄々の中で彼らの輪郭が少しずつ鮮明になっていく。
「……珠緒さんは、普段どんな紅茶を嗜まれるんです? 酒もお強そうですけど」
「まぁ。ほどほどですわ。貴方の方がお強そうよ」
珠緒の右手が、さりげなく肩に触れた。
その小指の内側は、わずかに膨らみ、形が変わっている。
(他人との距離感に慣れた接触。
それに、三味線弾きの特徴である撥だこ――彼女は芸者で間違いないな)
「軽食も美味しいですね。あいつにも食わせてやらないと」
澄々はいくつか軽食を皿に取り、さりげなく彼らの輪から離れた。
去り際に見た三郎の皿には、すべての軽食が一種類ずつ丁寧に並べられている。
「宏花」
呼びかけると、その頬に影を落とす長い睫毛がかすかに震え、杏色の瞳が覗いた。
「珍しいね。外で寝るなんて」
宏花は両手を前へ突き出し、大きく伸びをする。
それから再び背もたれへ身を預けた。
「お前はそんなことにも嫉妬するんだね」
「してないよ。これ食べて」
澄々は、一口大のパンに鮭の切り身とチーズを乗せたものを宏花の口元へ差し出した。
宏花は躊躇いもなく、それを口へ運ぶ。
「……美味しい?」
「食えるよ。量が少なくて良いね」
その素っ気ない返答にも構わず、澄々も同じものを口にした。
「美味しいね。やっぱり、“料理人”のおすすめは違う」
「おぉ。わかったんだ」
宏花が足を組む。
その目は、続きを促していた。
「まず、三郎さんは剣士ではないよね。
刀の扱いが素人なのは、俺らからすれば見ただけでわかる」
「さすが、領内番付三年連続大関は違うね」
「揶揄うなよ。最年少大関は誰だっけ?」
宏花の態度に、澄々は目を細めた。
宏花の持つ最年少記録を更新できなかったことを、いまだに根に持っているらしい。
紅茶をひと口含み、話を戻す。
「刀の扱いは素人だけど、刃物には慣れているらしい。じゃないと、嘘でも刀を持ち出そうとは思わないよね。
じゃあ、剣士以外で刃物を扱う職業でいうとかなり絞られるけど……彼は食べ物の温度と風味を気にしていた。それが気になるのは料理人だ」
「いいね。じゃあどこで、どんな料理人をしてる?」
宏花の問いに、澄々は小さく切られたりんごを摘まんだまま動きを止めた。
「……わかんないよ。あの人はやたら氷を食うくらいで……」
「その“やたら”が、手がかりだよ」
宏花は氷をひとつ摘み、カップへ落とした。
「氷……今でこそ普及してきたけど、まだまだ希少なものだ。
それを当たり前みたいに口にできるなら、かなりの上流階級か、あるいは相当繁盛している店の人間だろうな」
澄々が口元を手で覆い、ぶつぶつと呟く。
彼が思考している時の悪癖だ。
諜報と暗殺を生業とする黒木にとって、思考がだだ漏れなのは問題だが、宏花は今くらい見逃してやろうと思った。
「……だめだ宏花。
彼が井氏なら潮流庵、木氏なら五月雨亭だとは思うんだけど、絞りきれない」
澄々が顔を上げ、白旗を掲げる。
宏花はその顔がかわいくて頬を撫でたくなったが、人前であることを思い出し、その手を引っ込めた。
「惜しいね。彼は、井氏・潮流庵の料理長だ」
「なんでわかるの?」
蘇芳色の瞳には、好奇心が滲んでいた。
幼い頃から変わらない、上へ上へと登り続ける精神。
「澄々も見ただろう?
彼の皿には料理への探究心が表れていた。
あれは、日頃から新しい料理を考えている人間の視点だ」
澄々は三郎の皿に丁寧に並べられた料理を思い出す。
そこには料理人への敬意も見て取れた。
「あぁ、だから料理長なんだ。氷を自由に扱えるのも納得だ」
「彼が井氏な理由はその皿からもわかる。
料理は自分に近い場所から海鮮、遠い場所に山菜が並んでいた。
無意識のうちに、優先順位が表れていたんだろう」
宏花の答えに、澄々は思わず膝を打った。
言われてみればどれも拾える情報だったが、それを結びつけるところまでは至らなかった。
「でも、氷の流通から二領まで絞ったのはかなり勘が良いよ」
宏花は、氷の溶けた紅茶を口にした。
「……これ、温度以外になんか変わってるのか?」
「三郎さんも、宏花にだけは言われたくないだろうね」
澄々は呆れたように笑い、プディングのカラメルをりんごに絡めて食べた。
「他は?」
「あとは――」
澄々が続けようとした、その時だった。
「やぁやぁ、遅れてすまないね!」
一人の男が、努めて明るい声を張り上げながら応接間へ入ってきた。
山吹茶色の髪を揺らし、慌ただしく注いだ紅茶を一気に飲み干す。
「おいおい、急ぎすぎじゃないか?」
「僕たちも今来たばかりですから、大丈夫ですよ」
「いやぁ失敬!
吹雪で道がわからなくなってしまってね。でも早くみなさんにお会いしたかったんだ」
宏花が、じっとその男を見ていた。
視線が男の全身を一周し、男の歩いたカーペットまで辿る。
そして。
カップの縁に口をつけたまま、周囲に聞き取られないほどの声で呟く。
「――あいつ、人を殺したな」
澄々は弾かれたように宏花を見た。
とても冗談を言っている顔には見えない。
冷たく、研ぎ澄まされた刃のような視線。
「澄々も、殺されないように気をつけろよ」
向けられた笑みに血の気は無かった。
むしろ、その男の方がよほど怪しく見える。
澄々は、ごくりと喉を鳴らした。
――宏花のこの表情が、快感を背筋が駆け上るほど好きなのだ。




