第2話 待つ時間は、心が忙しい
月待町の恋時計
優しさの返却期限
第2話 待つ時間は、心が忙しい
月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。
告白する前の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。
片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。
失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。
好きな人の声だけが、聞こえなくなったり。
町の人たちは、それを大事件のようには言わない。
「ああ、恋時計が動いたんだね」
そんなふうに、商店街のおばあちゃんが、揚げたてのコロッケを紙袋に入れるくらいの温度で言う。
でも。
水野紗良のまわりには、その朝、何も起きていなかった。
手紙は白紙に戻らない。
髪に星も咲かない。
頭の上に雨雲もない。
好きな人の声が聞こえなくなるわけでもない。
月待町の空は、少しだけ白っぽい青をしていて、通学路の角にあるパン屋からは、焼きたてのパンの匂いがした。
自転車のベルが鳴る。
小学生が横断歩道を走る。
商店街のおじさんが、店先に並べる野菜の箱を持ち上げている。
世界は、いつも通りだった。
けれど、紗良の心だけが、朝からずっと忙しかった。
学校に着くと、紗良は下駄箱の前で足を止めた。
自分の名前の書かれた小さな扉。
何度も開けている、いつもの下駄箱。
そこに何かが入っているはずはない。
そう思っているのに、手が勝手に伸びる。
ぱかり、と開ける。
中には、上履きがあるだけだった。
白い上履き。
少し曲がったかかと。
昨日入れたままの、小さな砂粒。
手紙はない。
当然だった。
朝倉先輩が、紗良の下駄箱に返事を入れるなんて、約束はしていない。
そもそも、返事を紙でもらうとも決まっていない。
放課後に呼び止められるかもしれない。
図書室で何か言われるかもしれない。
もしかしたら、何日か後に、手紙で返してくれるのかもしれない。
だから、ここを見ても意味はない。
意味はないのに。
紗良は、もう一度、下駄箱の中を見た。
やっぱり何もない。
「……上履きしかない」
小さくつぶやいた。
わかっていたことなのに、胸の奥が少しだけしぼむ。
しぼんだあと、すぐに自分で自分を叱った。
返事は急がなくていいって言ったのは、わたしでしょ。
そうだ。
言った。
手紙を渡したとき、ちゃんと言った。
急がなくていいです、と。
読んだことだけは、忘れないでください、と。
朝倉先輩は、忘れないよ、と言ってくれた。
それだけで十分だったはずなのに。
十分だと思ったのに。
朝になると、人の心は意外と欲張りになる。
紗良は上履きに履き替え、下駄箱を閉めた。
ぱたん、という音が、いつもより少し大きく聞こえた。
教室に入ると、朝のざわめきが迎えてくれた。
机をくっつけて話す子。
昨日のテレビの話をする子。
小テストの存在を今思い出して、教科書を開いている子。
黒板の右上には、日直の名前が書かれている。
紗良は自分の席に鞄を置いた。
椅子を引く。
座る。
そして、机の中を見た。
教科書。
ノート。
昨日返しそびれたプリント。
それから、折り畳まれた時間割表。
手紙はない。
当たり前だった。
当たり前なのに、また胸の奥が少しだけしぼんだ。
「紗良、おはよう」
後ろの席の子が声をかけてきた。
「おはよう」
「今日の一時間目、数学だよね」
「うん。たぶん小テスト」
「え、聞いてない」
「昨日、先生が言ってたよ」
「終わった」
「まだ始まってないよ」
いつもの会話。
いつもの朝。
紗良は笑った。
ちゃんと笑えたと思う。
でも、机の中を閉めたあとも、心のどこかがまだ机の奥を見ていた。
返事なんて、そこにあるはずがないのに。
一時間目の数学は、案の定、小テストだった。
紗良は問題用紙を前にして、シャーペンを持った。
一次関数。
連立方程式。
グラフの傾き。
いつもなら、そこまで苦手ではない。
けれど今日は、数字の横に、関係ない言葉が浮かんでしまう。
返事。
読んでくれたかな。
何回読んだかな。
一回だけかな。
困ったかな。
重かったかな。
迷惑だったかな。
シャーペンの先が、問題用紙の上で止まる。
紗良は、あわてて首を横に振った。
今は数学。
恋ではない。
恋時計ではなく、座標平面。
告白ではなく、傾き。
そう思って、もう一度問題を見る。
でも、「点Aから点Bへ」という文章が、「先輩からわたしへ」に見えてきたので、紗良は小さく息を吐いた。
心が忙しい。
本当に忙しい。
授業中なのに、勝手に廊下を走り回っているみたいだった。
休み時間、紗良は廊下の窓から中庭を見た。
中庭のベンチには誰もいない。
少し前まで、雨宮律先輩が頭上の雨雲に濡れながら座っていた場所だ。
あのとき、月待町の不思議はとてもわかりやすかった。
失恋した人の上に、雨が降る。
傘をさしても、傘の内側に降る。
それは大変だったけれど、少なくとも、周りから見て「何かが起きている」とわかった。
紗良の手紙もそうだった。
書いても書いても、朝になると白紙に戻った。
つらかった。
怖かった。
でも、それは不思議だった。
誰かに相談する理由になった。
時計塔へ行く理由になった。
なのに、今は何も起きない。
手紙は消えない。
髪に星も咲かない。
雨も降らない。
ただ、待つのが苦しい。
それだけだった。
「それだけ、って言うには」
紗良は窓ガラスに映った自分に向かって、小さくつぶやいた。
「けっこう大事件なんだけどな」
窓ガラスの中の紗良は、少し困った顔をしていた。
昼休み、紗良はこよみと一緒に図書室へ向かった。
廊下には、弁当箱を持った生徒や、購買部へ急ぐ生徒が行き交っている。
こよみは、いつものように静かな歩き方をする。
でも紗良は、いつもより少しだけ早足だった。
「紗良」
「ん?」
「図書室、逃げないよ」
「えっ」
「足が急いでる」
紗良は、自分の足元を見た。
たしかに、少しだけ急いでいる。
「本が呼んでるのかも」
「本?」
「うん。水野さん、返却箱を見に来てくださいって」
こよみは、すぐには笑わなかった。
そのかわり、少し首をかしげた。
「返却箱?」
紗良は、観念してため息をついた。
「……返事、紙でもらうのかどうかすらもわからないのにね」
廊下の窓から、光が差している。
紗良は、その光を踏みながら言った。
「なんで下駄箱とか、机の中とか、返却箱とか、何度も見ちゃうんだろ」
こよみは、何も笑わなかった。
ただ、紗良の隣を歩いている。
それが、少しありがたかった。
「返事は急がなくていいって言ったの、わたしなのにね」
「うん」
「待つのって、こんなに心が忙しいんだね」
「うん」
「こよみ、うんしか言ってない」
「今は、うんが合ってる気がして」
紗良は少しだけ笑った。
「そういうところ、こよみだよね」
「どういうところ?」
「聞いてくれるところ」
こよみは、少しだけ目を伏せた。
「聞くしかできないこともあるから」
「でも、それが助かることもあるよ」
紗良はそう言ってから、少し恥ずかしくなった。
自分の声が思ったより本音だったからだ。
図書室の扉の前に着く。
紗良は、深く息を吸った。
「入ります」
「図書室だよ」
「うん。でも、戦場みたいな気持ち」
「本がたくさんある戦場」
「武器はしおり」
「弱そう」
「でも、紙で指を切ると痛いよ」
こよみが小さく笑った。
紗良も笑った。
少しだけ、心が軽くなった。
図書室に入ると、いつもの匂いがした。
紙。
木の棚。
少し古い本。
窓から入る午後の光。
紗良は、まず返却箱を見た。
空ではなかった。
何冊か本が入っている。
でも、手紙はない。
あるはずがない。
返却箱は、本を返すところだ。
恋の返事を入れるところではない。
そんなことはわかっている。
わかっているのに、見てしまう。
紗良は返却箱の前で、少しだけ肩を落とした。
「返却箱さん、仕事してるだけだった」
「本来の仕事だね」
「優秀」
「うん」
「わたしの期待が場違いだった」
こよみは、返却箱から本を取り出しながら言った。
「期待って、たまに置き場所を間違えるよね」
「うわ」
「うわ?」
「こよみ、今日もいいこと言う」
「いいことだった?」
「うん。ちょっと刺さった。返却箱に」
「返却箱に?」
「わたしじゃなくて、返却箱に刺さったことにしておく」
紗良は冗談の形にして、本を抱えた。
そうしないと、気持ちが床にこぼれそうだった。
昼休みの図書室には、生徒が数人いた。
窓際の席で本を読んでいる子。
カウンターで本の場所を尋ねる子。
奥の棚で、友達と小声で話している子。
朝倉先輩は、児童文学の棚の前にいた。
一年生の男子に、本をすすめている。
「この本、ちょっと疲れてる日に読むと効くよ」
朝倉先輩の声が聞こえた。
「薬じゃないけど、湿布くらいにはなる」
「湿布ですか」
「心に貼るやつ」
「なんか効きそうですね」
「ただし、はがすとき少し泣くかも」
「それ、痛いやつじゃないですか」
「いい本は、たまに痛い」
後輩が笑う。
朝倉先輩も笑う。
図書室の空気が、少しやわらかくなる。
朝倉先輩は、そういう人だった。
誰かを少し笑わせる。
無理に明るくするのではなく、固まった空気を、指先で少しだけほぐす。
紗良は、その声が好きだった。
好きだった。
今も、好きだった。
だから、胸がちくっとした。
あのやさしさは、自分だけのものではない。
そんなこと、最初から知っていた。
朝倉先輩は、誰にでも優しい。
困っている子に声をかける。
本をすすめる。
傘を貸す。
軽い冗談を言う。
それは朝倉先輩の普通なのだ。
紗良だけにくれた特別ではない。
知っていた。
知っていたのに。
知っていることと、平気なことは違う。
紗良は、抱えていた返却本をぎゅっと抱きしめた。
本の角が、制服に少し食い込む。
「紗良」
こよみが小さく声をかけた。
「ん?」
「大丈夫?」
その言葉に、紗良は笑いそうになった。
こよみは普段、「大丈夫」と軽く聞かない。
それでも今、聞いた。
それくらい、自分の顔がわかりやすかったのだろう。
「大丈夫」
紗良は言った。
でも、すぐに言い直した。
「じゃないかも」
こよみは、何も言わずに隣にいた。
紗良は、朝倉先輩のほうを見ないようにして、本の背表紙を見つめた。
「わたしが宝物みたいに覚えてたこと」
声が、思ったより小さくなった。
「先輩にとっては、普通だったのかも」
言ってから、胸の中に小さな穴が開いたような気がした。
それは、ずっと考えないようにしていたことだった。
雨の日に傘を貸してくれたこと。
同じ本に手を伸ばして笑ったこと。
貸出カードの字がきれいだったこと。
本を棚に戻すとき、背表紙をそっと整える癖。
紗良にとっては、どれも大事だった。
ノートの端に書き留めたいくらい。
何度も思い出してしまうくらい。
でも、朝倉先輩にとっては。
ただの一日。
ただの後輩。
ただの親切。
そうなのかもしれない。
こよみは少し黙ってから、言った。
「普通だったとしても」
その声は、やわらかかった。
「紗良にとって大事だったなら、それはなかったことにはならないよ」
紗良は、こよみを見た。
「こよみ」
「うん」
「今日ちょっと、いつもより時計塔の魔法使いっぽい」
こよみは困った顔をした。
「蒼夜さんほど、言い方は鋭くないと思う」
「うん。こよみは、刺す前にちゃんとハンカチ巻いてくれる感じ」
「それ、刺してる?」
「刺してる。でも、やさしい」
こよみは、少しだけ眉を下げた。
「刺したかったわけじゃないよ」
「わかってる」
紗良は笑った。
今度は、少しだけ本当に笑えた。
「ありがとう」
「うん」
こよみは、やっぱりそれだけを言った。
放課後の図書室は、昼休みより少し静かだった。
外では運動部の声が遠くで弾んでいる。
校庭にボールが跳ねる音。
吹奏楽部の音階練習。
廊下を走る生徒の足音。
図書室の中だけが、薄い膜に包まれているみたいだった。
紗良はカウンターで貸出カードを整理していた。
日付順。
クラス順。
名前順。
カードをそろえる作業は、少し心を落ち着かせる。
目の前の紙だけを見ていればいい。
誰の返事も待たなくていい。
そう思ったのに、日付印を見ると、また考えてしまう。
返却期限。
本には返す日がある。
では、気持ちにはあるのだろうか。
告白された人は、いつまでに返事をしなければならないのだろう。
一日?
三日?
一週間?
卒業式まで?
紗良は、自分で首を横に振った。
急がなくていいと言ったのは、自分だ。
それなのに、心の中で勝手に期限を数えるのは、ずるい気がした。
でも、数えてしまう。
昨日から今日。
今日から明日。
明日から、またその次。
待つ時間は、ただ伸びるだけではない。
中で何度も折れたり、戻ったり、絡まったりする。
まるで細い糸を、胸の中で誰かがずっと巻き直しているみたいだった。
「水野さん」
声がした。
紗良は顔を上げた。
朝倉先輩が、カウンターの前に立っていた。
手には、返却された本を二冊持っている。
「これ、返却分。奥の机に置いてあった」
「あ、ありがとうございます」
紗良は本を受け取った。
指先が触れそうになって、少しだけ引っ込める。
自分でもわかるくらい不自然だった。
朝倉先輩も、気づいたかもしれない。
けれど、何も言わなかった。
「今日、人多いね」
「そうですね。テスト前だからかも」
「図書室が勉強部屋になる時期だ」
「本は読まれず、机だけ人気になりますね」
「本棚が嫉妬するな」
朝倉先輩が笑う。
紗良も笑った。
いつもの会話。
なのに、心臓だけが少し忙しい。
「水野さん」
「はい」
呼ばれて、紗良は胸の奥をぎゅっとつかまれた気がした。
返事だろうか。
今だろうか。
ここでだろうか。
こよみは少し離れた棚で、本を戻している。
図書室には、何人か生徒がいる。
でも、小声なら話せる距離。
紗良は息を止めた。
朝倉先輩は、少しだけ口を開いた。
けれど。
「……この本、背表紙が少し破れてるから、あとで修理に回しておいてくれる?」
紗良は、一瞬だけ動けなかった。
それから、慌てて本を見た。
「あ、はい。わかりました」
「ごめんね、頼んで」
「いえ」
朝倉先輩は、いつものように笑った。
でも、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ何かがあった。
逃げたような。
飲み込んだような。
言おうとした言葉を、別の言葉で隠したような。
紗良は、それに気づいてしまった。
気づかなければよかったのに。
「じゃあ、よろしく」
「はい」
朝倉先輩はカウンターを離れた。
紗良は、手元の本を見つめる。
背表紙の端が、少しだけ破れている。
修理が必要だ。
本ならいい。
破れたところが見える。
どこに糊をつければいいのか、どこを補強すればいいのか、わかる。
でも、人の心は見えない。
紗良のどこが破れかけているのか。
朝倉先輩のどこが迷っているのか。
見えない。
だから、困る。
「紗良」
こよみが戻ってきた。
「今」
「うん」
紗良は、笑った。
笑うしかなかった。
「背表紙の話だった」
「うん」
「わたし、一瞬、返事かと思った」
こよみは、何も言わなかった。
紗良は本を抱きしめた。
「心臓が勝手に早とちりした。迷惑な臓器だよね」
「心臓は、いつも一生懸命だから」
「こよみ、心臓にも優しい」
「紗良の心臓だから」
その言葉に、紗良は少し泣きそうになった。
「やめて。図書室で泣いたら、湿度が上がる」
「本が反るね」
「そう。図書委員として避けたい」
冗談を言った。
でも、声の最後が少し揺れた。
こよみは、それに気づいても、何も言わなかった。
ただ、隣で一緒に貸出カードをそろえてくれた。
閉室時間が近づくころ、紗良は本の修理コーナーにいた。
背表紙の破れた本を、慎重に開く。
透明な補修テープ。
小さなはさみ。
やわらかい布。
図書室の隅には、壊れた本を直すための道具がまとめて置かれている。
紗良は、その作業が嫌いではなかった。
少し破れた本。
ゆるんだページ。
角が折れた表紙。
そういうものを、元通りとは言えないまでも、また読めるように整える。
それは、静かな仕事だった。
紗良は、破れた背表紙にそっとテープを貼った。
「本はいいな」
思わず、声が出た。
「どこが痛いか、見えるから」
隣にいたこよみが、手を止めた。
「紗良」
「うん?」
「痛い?」
短い問いだった。
紗良は、すぐには答えられなかった。
痛い。
でも、それは朝倉先輩が悪いからではない。
手紙を出した自分が悪いとも思いたくない。
ただ、待つことが痛い。
何も起きない時間が痛い。
いつも通りの朝倉先輩を見ることが痛い。
誰にでも優しい朝倉先輩を、やっぱり好きだと思うことが痛い。
「痛い、かな」
紗良は、小さく言った。
「うん。ちょっと」
「そっか」
「でも、朝倉先輩に早く返事してほしいって言いたいわけじゃないの」
「うん」
「困らせたいわけでもない」
「うん」
「返事が怖いのは、わたしだけじゃないかもしれないし」
言ってから、紗良は自分で驚いた。
そうだ。
朝倉先輩も、怖いのかもしれない。
自分は待つのが苦しい。
でも、朝倉先輩は返すのが苦しいのかもしれない。
そのことに気づいた瞬間、少しだけ心が静かになった。
けれど、同時に別の痛みが生まれた。
朝倉先輩を苦しめたのは、自分なのだろうか。
「手紙」
紗良は、補修テープの端を押さえながら言った。
「出さなかったら、まだ普通に話せたのかな」
こよみは、すぐに否定しなかった。
ただ、紗良の隣に座り直した。
その沈黙が、やさしかった。
「そう思う日もあるよね」
こよみは言った。
紗良は、目を伏せた。
そう思う日もある。
その言い方に、紗良の心は少し救われた。
思ってはいけない、と言われなかったから。
出してよかったに決まってる、と簡単に言われなかったから。
紗良は、補修した本をそっと閉じた。
「でも」
声が、少し震えた。
「出したことまで、なかったことにはしたくない」
こよみが、紗良を見る。
紗良は本の表紙をなでた。
「昨日のわたし、ちゃんといたんだもん」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
そうだ。
手紙を書いた自分。
怖くて何度も読み返した自分。
それでも渡した自分。
朝倉先輩に、忘れないでくださいと言った自分。
その自分を、なかったことにはしたくない。
「朝倉先輩が困ってるかもしれないって思うと、申し訳ない」
紗良は言った。
「でも、だからって、手紙を出したわたしまで消したくない」
「うん」
「好きって、言ったことまで、なかったことにしたくない」
「うん」
こよみは、静かにうなずいた。
そのとき。
紗良は少しだけ期待した。
何か不思議が起きるかもしれない、と。
髪に星が咲くとか。
便箋が光るとか。
図書室の時計が鳴るとか。
恋時計が、わかりやすく応えてくれるとか。
でも、何も起きなかった。
窓の外で、部活帰りの生徒が笑う声がしただけ。
図書室の時計が、普通に秒を刻んでいるだけ。
補修した本の背表紙が、少しだけきれいになっただけ。
紗良は、少し笑った。
「何も起きないね」
「うん」
「月待町なのに」
「何も起きない日もあるんだと思う」
「恋してるのに?」
「恋してるから、余計に」
こよみの声は、静かだった。
「何も起きない時間が、いちばん長いのかもしれない」
紗良は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。
何も起きない時間。
でも、その中で心はちゃんと動いている。
見えないところで。
静かに。
少しずつ。
「それ、ちょっとずるいね」
「何が?」
「不思議が起きてくれたほうが、誰かに言いやすいのに」
紗良は天井を見上げた。
「髪に星が咲いたんです、とか。手紙が白紙になるんです、とか。雨雲が出ました、とか」
「うん」
「でも、ただ待つのが苦しいです、って」
紗良は、少しだけ笑った。
「普通すぎて、言いにくい」
こよみは、補修した本を見た。
「普通の痛みも、痛いよ」
その一言で、紗良はもう少しで泣きそうになった。
でも泣かなかった。
図書室の湿度を上げるわけにはいかなかったから。
その日の帰り道、紗良とこよみは校門まで一緒に歩いた。
空は夕方の色をしていた。
坂の上の時計塔が、遠くに見える。
丸い文字盤は、淡い光を受けてぼんやりしている。
紗良は、ふと足を止めた。
「ねえ、こよみ」
「うん?」
「時計塔って、今も開いてるのかな」
「たぶん」
「蒼夜さんに聞いたら、朝倉先輩の気持ち、わかったりするかな」
言ってすぐ、紗良は首を振った。
「ごめん。今のなし」
「どうして?」
「だって、それはずるい気がする」
紗良は、時計塔を見上げた。
「あの人の気持ちは、あの人から聞かないと意味ないよね」
こよみは、少しだけ目を細めた。
「うん」
「でも、待ってるあいだって、なんでも知りたくなる」
「うん」
「先輩が何考えてるのか。困ってるのか。迷ってるのか。わたしのこと、重いって思ってるのか」
紗良は、鞄の持ち手を握った。
「それとも、もう返事しないほうがいいって思ってるのか」
その言葉を口にした瞬間、こよみの表情が少しだけ変わった。
ほんの少し。
でも、紗良にはわかった。
「こよみ?」
「ううん」
「何か知ってる?」
「知らない」
こよみは答えた。
嘘ではない声だった。
でも、何かに気づいた声でもあった。
紗良は、少し不安になった。
「ほんと?」
「うん。知らない。でも」
「でも?」
「紗良が、そう思ったことは、ちゃんと覚えておく」
「何それ」
「大事なことかもしれないから」
紗良は、こよみの横顔を見た。
こよみはときどき、こういう顔をする。
今、目の前にあるものだけではなく、その少し奥の影まで見ようとする顔。
でも、紗良にはその影が何なのかわからなかった。
「こよみ、やっぱり今日、ちょっと魔法使い寄り」
「寄ってないよ」
「寄ってる」
「普通の図書委員だよ」
「図書委員、たまに不思議事件の受付係になるじゃん」
「月待町だからね」
二人は、少し笑った。
笑いながら校門を出た。
こよみと別れたあと、紗良はひとりで商店街を歩いた。
夕方の商店街は、家へ帰る人たちで少しにぎやかだった。
惣菜屋の前には、コロッケを待つ人が並んでいる。
花屋の店先には、白い小さな花が揺れている。
駄菓子屋のおじいちゃんが、店の奥で新聞を読んでいる。
何もかも、いつも通り。
紗良は、鞄の中に手を入れた。
そこには、手紙の下書きを書いていたノートが入っている。
もう渡したのだから、持ち歩く必要はない。
でも、なんとなく入れたままだった。
ノートの角に指が触れる。
あの日の自分が、まだ鞄の中にいるような気がした。
昨日のわたし、ちゃんといたんだもん。
そう言った自分の声を、もう一度思い出す。
紗良は、少しだけ背筋を伸ばした。
返事はまだない。
朝倉先輩が何を考えているのかも、わからない。
でも、手紙を渡した自分を、なかったことにはしない。
そう決めた。
決めたのに。
家に帰ると、まず郵便受けを見てしまった。
もちろん、何も入っていなかった。
紗良は郵便受けの前で、しばらく固まった。
そして、自分で自分に言った。
「……郵便受けにも期待してる」
誰も聞いていないのに、少し恥ずかしくなった。
でも、心はまだ忙しかった。
そのころ。
朝倉陽の部屋では、机の上に黒い封筒が置かれていた。
夜を薄く切り取ったような封筒。
表には、銀色の字。
朝倉陽さま。
朝倉は、まだそれを開けていなかった。
開けてはいけない気がした。
けれど、捨てることもできなかった。
封筒はただ、静かにそこにある。
何かを命令するわけでもない。
声を出すわけでもない。
ただ、朝倉が自分で思いついてしまった言葉を、もう一度思い出させるようにそこにある。
返事をしないほうが、傷つけないのかな。
その言葉を。
朝倉は、白い便箋を見た。
水野さんへ。
そこから先は、まだ何も書けていない。
窓の外では、半分より少し細い月が、雲に隠れたり、出てきたりしていた。
胸の奥で、針が鳴る。
ちく。
たく。
ちく。
たく。
その音は昨日より、少しだけ冷たかった。




