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月待町の恋時計 3 ~優しさの返却期限~  作者: 草風緑


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第2話 待つ時間は、心が忙しい

月待町の恋時計

優しさの返却期限


第2話 待つ時間は、心が忙しい


 月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。


 告白する前の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。


 片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。


 失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。


 好きな人の声だけが、聞こえなくなったり。


 町の人たちは、それを大事件のようには言わない。


「ああ、恋時計が動いたんだね」


 そんなふうに、商店街のおばあちゃんが、揚げたてのコロッケを紙袋に入れるくらいの温度で言う。


 でも。


 水野紗良のまわりには、その朝、何も起きていなかった。


 手紙は白紙に戻らない。


 髪に星も咲かない。


 頭の上に雨雲もない。


 好きな人の声が聞こえなくなるわけでもない。


 月待町の空は、少しだけ白っぽい青をしていて、通学路の角にあるパン屋からは、焼きたてのパンの匂いがした。


 自転車のベルが鳴る。


 小学生が横断歩道を走る。


 商店街のおじさんが、店先に並べる野菜の箱を持ち上げている。


 世界は、いつも通りだった。


 けれど、紗良の心だけが、朝からずっと忙しかった。

 

 学校に着くと、紗良は下駄箱の前で足を止めた。


 自分の名前の書かれた小さな扉。


 何度も開けている、いつもの下駄箱。


 そこに何かが入っているはずはない。


 そう思っているのに、手が勝手に伸びる。


 ぱかり、と開ける。


 中には、上履きがあるだけだった。


 白い上履き。


 少し曲がったかかと。


 昨日入れたままの、小さな砂粒。


 手紙はない。


 当然だった。


 朝倉先輩が、紗良の下駄箱に返事を入れるなんて、約束はしていない。


 そもそも、返事を紙でもらうとも決まっていない。


 放課後に呼び止められるかもしれない。


 図書室で何か言われるかもしれない。


 もしかしたら、何日か後に、手紙で返してくれるのかもしれない。


 だから、ここを見ても意味はない。


 意味はないのに。


 紗良は、もう一度、下駄箱の中を見た。


 やっぱり何もない。


「……上履きしかない」


 小さくつぶやいた。


 わかっていたことなのに、胸の奥が少しだけしぼむ。


 しぼんだあと、すぐに自分で自分を叱った。


 返事は急がなくていいって言ったのは、わたしでしょ。


 そうだ。


 言った。


 手紙を渡したとき、ちゃんと言った。


 急がなくていいです、と。


 読んだことだけは、忘れないでください、と。


 朝倉先輩は、忘れないよ、と言ってくれた。


 それだけで十分だったはずなのに。


 十分だと思ったのに。


 朝になると、人の心は意外と欲張りになる。


 紗良は上履きに履き替え、下駄箱を閉めた。


 ぱたん、という音が、いつもより少し大きく聞こえた。

 


 教室に入ると、朝のざわめきが迎えてくれた。


 机をくっつけて話す子。


 昨日のテレビの話をする子。


 小テストの存在を今思い出して、教科書を開いている子。


 黒板の右上には、日直の名前が書かれている。


 紗良は自分の席に鞄を置いた。


 椅子を引く。


 座る。


 そして、机の中を見た。


 教科書。


 ノート。


 昨日返しそびれたプリント。


 それから、折り畳まれた時間割表。


 手紙はない。


 当たり前だった。


 当たり前なのに、また胸の奥が少しだけしぼんだ。


「紗良、おはよう」


 後ろの席の子が声をかけてきた。


「おはよう」


「今日の一時間目、数学だよね」


「うん。たぶん小テスト」


「え、聞いてない」


「昨日、先生が言ってたよ」


「終わった」


「まだ始まってないよ」


 いつもの会話。


 いつもの朝。


 紗良は笑った。


 ちゃんと笑えたと思う。


 でも、机の中を閉めたあとも、心のどこかがまだ机の奥を見ていた。


 返事なんて、そこにあるはずがないのに。

 

 一時間目の数学は、案の定、小テストだった。


 紗良は問題用紙を前にして、シャーペンを持った。


 一次関数。


 連立方程式。


 グラフの傾き。


 いつもなら、そこまで苦手ではない。


 けれど今日は、数字の横に、関係ない言葉が浮かんでしまう。


 返事。


 読んでくれたかな。


 何回読んだかな。


 一回だけかな。


 困ったかな。


 重かったかな。


 迷惑だったかな。


 シャーペンの先が、問題用紙の上で止まる。


 紗良は、あわてて首を横に振った。


 今は数学。


 恋ではない。


 恋時計ではなく、座標平面。


 告白ではなく、傾き。


 そう思って、もう一度問題を見る。


 でも、「点Aから点Bへ」という文章が、「先輩からわたしへ」に見えてきたので、紗良は小さく息を吐いた。


 心が忙しい。


 本当に忙しい。


 授業中なのに、勝手に廊下を走り回っているみたいだった。

 


 休み時間、紗良は廊下の窓から中庭を見た。


 中庭のベンチには誰もいない。


 少し前まで、雨宮律先輩が頭上の雨雲に濡れながら座っていた場所だ。


 あのとき、月待町の不思議はとてもわかりやすかった。


 失恋した人の上に、雨が降る。


 傘をさしても、傘の内側に降る。


 それは大変だったけれど、少なくとも、周りから見て「何かが起きている」とわかった。


 紗良の手紙もそうだった。


 書いても書いても、朝になると白紙に戻った。


 つらかった。


 怖かった。


 でも、それは不思議だった。


 誰かに相談する理由になった。


 時計塔へ行く理由になった。


 なのに、今は何も起きない。


 手紙は消えない。


 髪に星も咲かない。


 雨も降らない。


 ただ、待つのが苦しい。


 それだけだった。


「それだけ、って言うには」


 紗良は窓ガラスに映った自分に向かって、小さくつぶやいた。


「けっこう大事件なんだけどな」


 窓ガラスの中の紗良は、少し困った顔をしていた。


 

 昼休み、紗良はこよみと一緒に図書室へ向かった。


 廊下には、弁当箱を持った生徒や、購買部へ急ぐ生徒が行き交っている。


 こよみは、いつものように静かな歩き方をする。


 でも紗良は、いつもより少しだけ早足だった。


「紗良」


「ん?」


「図書室、逃げないよ」


「えっ」


「足が急いでる」


 紗良は、自分の足元を見た。


 たしかに、少しだけ急いでいる。


「本が呼んでるのかも」


「本?」


「うん。水野さん、返却箱を見に来てくださいって」


 こよみは、すぐには笑わなかった。


 そのかわり、少し首をかしげた。


「返却箱?」


 紗良は、観念してため息をついた。


「……返事、紙でもらうのかどうかすらもわからないのにね」


 廊下の窓から、光が差している。


 紗良は、その光を踏みながら言った。


「なんで下駄箱とか、机の中とか、返却箱とか、何度も見ちゃうんだろ」


 こよみは、何も笑わなかった。


 ただ、紗良の隣を歩いている。


 それが、少しありがたかった。


「返事は急がなくていいって言ったの、わたしなのにね」


「うん」


「待つのって、こんなに心が忙しいんだね」


「うん」


「こよみ、うんしか言ってない」


「今は、うんが合ってる気がして」


 紗良は少しだけ笑った。


「そういうところ、こよみだよね」


「どういうところ?」


「聞いてくれるところ」


 こよみは、少しだけ目を伏せた。


「聞くしかできないこともあるから」


「でも、それが助かることもあるよ」


 紗良はそう言ってから、少し恥ずかしくなった。


 自分の声が思ったより本音だったからだ。


 図書室の扉の前に着く。


 紗良は、深く息を吸った。


「入ります」


「図書室だよ」


「うん。でも、戦場みたいな気持ち」


「本がたくさんある戦場」


「武器はしおり」


「弱そう」


「でも、紙で指を切ると痛いよ」


 こよみが小さく笑った。


 紗良も笑った。


 少しだけ、心が軽くなった。

 

 図書室に入ると、いつもの匂いがした。


 紙。


 木の棚。


 少し古い本。


 窓から入る午後の光。


 紗良は、まず返却箱を見た。


 空ではなかった。


 何冊か本が入っている。


 でも、手紙はない。


 あるはずがない。


 返却箱は、本を返すところだ。


 恋の返事を入れるところではない。


 そんなことはわかっている。


 わかっているのに、見てしまう。


 紗良は返却箱の前で、少しだけ肩を落とした。


「返却箱さん、仕事してるだけだった」


「本来の仕事だね」


「優秀」


「うん」


「わたしの期待が場違いだった」


 こよみは、返却箱から本を取り出しながら言った。


「期待って、たまに置き場所を間違えるよね」


「うわ」


「うわ?」


「こよみ、今日もいいこと言う」


「いいことだった?」


「うん。ちょっと刺さった。返却箱に」


「返却箱に?」


「わたしじゃなくて、返却箱に刺さったことにしておく」


 紗良は冗談の形にして、本を抱えた。


 そうしないと、気持ちが床にこぼれそうだった。


 

 昼休みの図書室には、生徒が数人いた。


 窓際の席で本を読んでいる子。


 カウンターで本の場所を尋ねる子。


 奥の棚で、友達と小声で話している子。


 朝倉先輩は、児童文学の棚の前にいた。


 一年生の男子に、本をすすめている。


「この本、ちょっと疲れてる日に読むと効くよ」


 朝倉先輩の声が聞こえた。


「薬じゃないけど、湿布くらいにはなる」


「湿布ですか」


「心に貼るやつ」


「なんか効きそうですね」


「ただし、はがすとき少し泣くかも」


「それ、痛いやつじゃないですか」


「いい本は、たまに痛い」


 後輩が笑う。


 朝倉先輩も笑う。


 図書室の空気が、少しやわらかくなる。


 朝倉先輩は、そういう人だった。


 誰かを少し笑わせる。


 無理に明るくするのではなく、固まった空気を、指先で少しだけほぐす。


 紗良は、その声が好きだった。


 好きだった。


 今も、好きだった。


 だから、胸がちくっとした。


 あのやさしさは、自分だけのものではない。


 そんなこと、最初から知っていた。


 朝倉先輩は、誰にでも優しい。


 困っている子に声をかける。


 本をすすめる。


 傘を貸す。


 軽い冗談を言う。


 それは朝倉先輩の普通なのだ。


 紗良だけにくれた特別ではない。


 知っていた。


 知っていたのに。


 知っていることと、平気なことは違う。


 紗良は、抱えていた返却本をぎゅっと抱きしめた。


 本の角が、制服に少し食い込む。


「紗良」


 こよみが小さく声をかけた。


「ん?」


「大丈夫?」


 その言葉に、紗良は笑いそうになった。


 こよみは普段、「大丈夫」と軽く聞かない。


 それでも今、聞いた。


 それくらい、自分の顔がわかりやすかったのだろう。


「大丈夫」


 紗良は言った。


 でも、すぐに言い直した。


「じゃないかも」


 こよみは、何も言わずに隣にいた。


 紗良は、朝倉先輩のほうを見ないようにして、本の背表紙を見つめた。


「わたしが宝物みたいに覚えてたこと」


 声が、思ったより小さくなった。


「先輩にとっては、普通だったのかも」


 言ってから、胸の中に小さな穴が開いたような気がした。


 それは、ずっと考えないようにしていたことだった。


 雨の日に傘を貸してくれたこと。


 同じ本に手を伸ばして笑ったこと。


 貸出カードの字がきれいだったこと。


 本を棚に戻すとき、背表紙をそっと整える癖。


 紗良にとっては、どれも大事だった。


 ノートの端に書き留めたいくらい。


 何度も思い出してしまうくらい。


 でも、朝倉先輩にとっては。


 ただの一日。


 ただの後輩。


 ただの親切。


 そうなのかもしれない。


 こよみは少し黙ってから、言った。


「普通だったとしても」


 その声は、やわらかかった。


「紗良にとって大事だったなら、それはなかったことにはならないよ」


 紗良は、こよみを見た。


「こよみ」


「うん」


「今日ちょっと、いつもより時計塔の魔法使いっぽい」


 こよみは困った顔をした。


「蒼夜さんほど、言い方は鋭くないと思う」


「うん。こよみは、刺す前にちゃんとハンカチ巻いてくれる感じ」


「それ、刺してる?」


「刺してる。でも、やさしい」


 こよみは、少しだけ眉を下げた。


「刺したかったわけじゃないよ」


「わかってる」


 紗良は笑った。


 今度は、少しだけ本当に笑えた。


「ありがとう」


「うん」


 こよみは、やっぱりそれだけを言った。

 

 放課後の図書室は、昼休みより少し静かだった。


 外では運動部の声が遠くで弾んでいる。


 校庭にボールが跳ねる音。


 吹奏楽部の音階練習。


 廊下を走る生徒の足音。


 図書室の中だけが、薄い膜に包まれているみたいだった。


 紗良はカウンターで貸出カードを整理していた。


 日付順。


 クラス順。


 名前順。


 カードをそろえる作業は、少し心を落ち着かせる。


 目の前の紙だけを見ていればいい。


 誰の返事も待たなくていい。


 そう思ったのに、日付印を見ると、また考えてしまう。


 返却期限。


 本には返す日がある。


 では、気持ちにはあるのだろうか。


 告白された人は、いつまでに返事をしなければならないのだろう。


 一日?


 三日?


 一週間?


 卒業式まで?


 紗良は、自分で首を横に振った。


 急がなくていいと言ったのは、自分だ。


 それなのに、心の中で勝手に期限を数えるのは、ずるい気がした。


 でも、数えてしまう。


 昨日から今日。


 今日から明日。


 明日から、またその次。


 待つ時間は、ただ伸びるだけではない。


 中で何度も折れたり、戻ったり、絡まったりする。


 まるで細い糸を、胸の中で誰かがずっと巻き直しているみたいだった。


「水野さん」


 声がした。


 紗良は顔を上げた。


 朝倉先輩が、カウンターの前に立っていた。


 手には、返却された本を二冊持っている。


「これ、返却分。奥の机に置いてあった」


「あ、ありがとうございます」


 紗良は本を受け取った。


 指先が触れそうになって、少しだけ引っ込める。


 自分でもわかるくらい不自然だった。


 朝倉先輩も、気づいたかもしれない。


 けれど、何も言わなかった。


「今日、人多いね」


「そうですね。テスト前だからかも」


「図書室が勉強部屋になる時期だ」


「本は読まれず、机だけ人気になりますね」


「本棚が嫉妬するな」


 朝倉先輩が笑う。


 紗良も笑った。


 いつもの会話。


 なのに、心臓だけが少し忙しい。


「水野さん」


「はい」


 呼ばれて、紗良は胸の奥をぎゅっとつかまれた気がした。


 返事だろうか。


 今だろうか。


 ここでだろうか。


 こよみは少し離れた棚で、本を戻している。


 図書室には、何人か生徒がいる。


 でも、小声なら話せる距離。


 紗良は息を止めた。


 朝倉先輩は、少しだけ口を開いた。


 けれど。


「……この本、背表紙が少し破れてるから、あとで修理に回しておいてくれる?」


 紗良は、一瞬だけ動けなかった。


 それから、慌てて本を見た。


「あ、はい。わかりました」


「ごめんね、頼んで」


「いえ」


 朝倉先輩は、いつものように笑った。


 でも、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ何かがあった。


 逃げたような。


 飲み込んだような。


 言おうとした言葉を、別の言葉で隠したような。


 紗良は、それに気づいてしまった。


 気づかなければよかったのに。


「じゃあ、よろしく」


「はい」


 朝倉先輩はカウンターを離れた。


 紗良は、手元の本を見つめる。


 背表紙の端が、少しだけ破れている。


 修理が必要だ。


 本ならいい。


 破れたところが見える。


 どこに糊をつければいいのか、どこを補強すればいいのか、わかる。


 でも、人の心は見えない。


 紗良のどこが破れかけているのか。


 朝倉先輩のどこが迷っているのか。


 見えない。


 だから、困る。


「紗良」


 こよみが戻ってきた。


「今」


「うん」


 紗良は、笑った。


 笑うしかなかった。


「背表紙の話だった」


「うん」


「わたし、一瞬、返事かと思った」


 こよみは、何も言わなかった。


 紗良は本を抱きしめた。


「心臓が勝手に早とちりした。迷惑な臓器だよね」


「心臓は、いつも一生懸命だから」


「こよみ、心臓にも優しい」


「紗良の心臓だから」


 その言葉に、紗良は少し泣きそうになった。


「やめて。図書室で泣いたら、湿度が上がる」


「本が反るね」


「そう。図書委員として避けたい」


 冗談を言った。


 でも、声の最後が少し揺れた。


 こよみは、それに気づいても、何も言わなかった。


 ただ、隣で一緒に貸出カードをそろえてくれた。

 

 閉室時間が近づくころ、紗良は本の修理コーナーにいた。


 背表紙の破れた本を、慎重に開く。


 透明な補修テープ。


 小さなはさみ。


 やわらかい布。


 図書室の隅には、壊れた本を直すための道具がまとめて置かれている。


 紗良は、その作業が嫌いではなかった。


 少し破れた本。


 ゆるんだページ。


 角が折れた表紙。


 そういうものを、元通りとは言えないまでも、また読めるように整える。


 それは、静かな仕事だった。


 紗良は、破れた背表紙にそっとテープを貼った。


「本はいいな」


 思わず、声が出た。


「どこが痛いか、見えるから」


 隣にいたこよみが、手を止めた。


「紗良」


「うん?」


「痛い?」


 短い問いだった。


 紗良は、すぐには答えられなかった。


 痛い。


 でも、それは朝倉先輩が悪いからではない。


 手紙を出した自分が悪いとも思いたくない。


 ただ、待つことが痛い。


 何も起きない時間が痛い。


 いつも通りの朝倉先輩を見ることが痛い。


 誰にでも優しい朝倉先輩を、やっぱり好きだと思うことが痛い。


「痛い、かな」


 紗良は、小さく言った。


「うん。ちょっと」


「そっか」


「でも、朝倉先輩に早く返事してほしいって言いたいわけじゃないの」


「うん」


「困らせたいわけでもない」


「うん」


「返事が怖いのは、わたしだけじゃないかもしれないし」


 言ってから、紗良は自分で驚いた。


 そうだ。


 朝倉先輩も、怖いのかもしれない。


 自分は待つのが苦しい。


 でも、朝倉先輩は返すのが苦しいのかもしれない。


 そのことに気づいた瞬間、少しだけ心が静かになった。


 けれど、同時に別の痛みが生まれた。


 朝倉先輩を苦しめたのは、自分なのだろうか。


「手紙」


 紗良は、補修テープの端を押さえながら言った。


「出さなかったら、まだ普通に話せたのかな」


 こよみは、すぐに否定しなかった。


 ただ、紗良の隣に座り直した。


 その沈黙が、やさしかった。


「そう思う日もあるよね」


 こよみは言った。


 紗良は、目を伏せた。


 そう思う日もある。


 その言い方に、紗良の心は少し救われた。


 思ってはいけない、と言われなかったから。


 出してよかったに決まってる、と簡単に言われなかったから。


 紗良は、補修した本をそっと閉じた。


「でも」


 声が、少し震えた。


「出したことまで、なかったことにはしたくない」


 こよみが、紗良を見る。


 紗良は本の表紙をなでた。


「昨日のわたし、ちゃんといたんだもん」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。


 そうだ。


 手紙を書いた自分。


 怖くて何度も読み返した自分。


 それでも渡した自分。


 朝倉先輩に、忘れないでくださいと言った自分。


 その自分を、なかったことにはしたくない。


「朝倉先輩が困ってるかもしれないって思うと、申し訳ない」


 紗良は言った。


「でも、だからって、手紙を出したわたしまで消したくない」


「うん」


「好きって、言ったことまで、なかったことにしたくない」


「うん」


 こよみは、静かにうなずいた。


 そのとき。


 紗良は少しだけ期待した。


 何か不思議が起きるかもしれない、と。


 髪に星が咲くとか。


 便箋が光るとか。


 図書室の時計が鳴るとか。


 恋時計が、わかりやすく応えてくれるとか。


 でも、何も起きなかった。


 窓の外で、部活帰りの生徒が笑う声がしただけ。


 図書室の時計が、普通に秒を刻んでいるだけ。


 補修した本の背表紙が、少しだけきれいになっただけ。


 紗良は、少し笑った。


「何も起きないね」


「うん」


「月待町なのに」


「何も起きない日もあるんだと思う」


「恋してるのに?」


「恋してるから、余計に」


 こよみの声は、静かだった。


「何も起きない時間が、いちばん長いのかもしれない」


 紗良は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。


 何も起きない時間。


 でも、その中で心はちゃんと動いている。


 見えないところで。


 静かに。


 少しずつ。


「それ、ちょっとずるいね」


「何が?」


「不思議が起きてくれたほうが、誰かに言いやすいのに」


 紗良は天井を見上げた。


「髪に星が咲いたんです、とか。手紙が白紙になるんです、とか。雨雲が出ました、とか」


「うん」


「でも、ただ待つのが苦しいです、って」


 紗良は、少しだけ笑った。


「普通すぎて、言いにくい」


 こよみは、補修した本を見た。


「普通の痛みも、痛いよ」


 その一言で、紗良はもう少しで泣きそうになった。


 でも泣かなかった。


 図書室の湿度を上げるわけにはいかなかったから。


 

 その日の帰り道、紗良とこよみは校門まで一緒に歩いた。


 空は夕方の色をしていた。


 坂の上の時計塔が、遠くに見える。


 丸い文字盤は、淡い光を受けてぼんやりしている。


 紗良は、ふと足を止めた。


「ねえ、こよみ」


「うん?」


「時計塔って、今も開いてるのかな」


「たぶん」


「蒼夜さんに聞いたら、朝倉先輩の気持ち、わかったりするかな」


 言ってすぐ、紗良は首を振った。


「ごめん。今のなし」


「どうして?」


「だって、それはずるい気がする」


 紗良は、時計塔を見上げた。


「あの人の気持ちは、あの人から聞かないと意味ないよね」


 こよみは、少しだけ目を細めた。


「うん」


「でも、待ってるあいだって、なんでも知りたくなる」


「うん」


「先輩が何考えてるのか。困ってるのか。迷ってるのか。わたしのこと、重いって思ってるのか」


 紗良は、鞄の持ち手を握った。


「それとも、もう返事しないほうがいいって思ってるのか」


 その言葉を口にした瞬間、こよみの表情が少しだけ変わった。


 ほんの少し。


 でも、紗良にはわかった。


「こよみ?」


「ううん」


「何か知ってる?」


「知らない」


 こよみは答えた。


 嘘ではない声だった。


 でも、何かに気づいた声でもあった。


 紗良は、少し不安になった。


「ほんと?」


「うん。知らない。でも」


「でも?」


「紗良が、そう思ったことは、ちゃんと覚えておく」


「何それ」


「大事なことかもしれないから」


 紗良は、こよみの横顔を見た。


 こよみはときどき、こういう顔をする。


 今、目の前にあるものだけではなく、その少し奥の影まで見ようとする顔。


 でも、紗良にはその影が何なのかわからなかった。


「こよみ、やっぱり今日、ちょっと魔法使い寄り」


「寄ってないよ」


「寄ってる」


「普通の図書委員だよ」


「図書委員、たまに不思議事件の受付係になるじゃん」


「月待町だからね」


 二人は、少し笑った。


 笑いながら校門を出た。


 

 こよみと別れたあと、紗良はひとりで商店街を歩いた。


 夕方の商店街は、家へ帰る人たちで少しにぎやかだった。


 惣菜屋の前には、コロッケを待つ人が並んでいる。


 花屋の店先には、白い小さな花が揺れている。


 駄菓子屋のおじいちゃんが、店の奥で新聞を読んでいる。


 何もかも、いつも通り。


 紗良は、鞄の中に手を入れた。


 そこには、手紙の下書きを書いていたノートが入っている。


 もう渡したのだから、持ち歩く必要はない。


 でも、なんとなく入れたままだった。


 ノートの角に指が触れる。


 あの日の自分が、まだ鞄の中にいるような気がした。


 昨日のわたし、ちゃんといたんだもん。


 そう言った自分の声を、もう一度思い出す。


 紗良は、少しだけ背筋を伸ばした。


 返事はまだない。


 朝倉先輩が何を考えているのかも、わからない。


 でも、手紙を渡した自分を、なかったことにはしない。


 そう決めた。


 決めたのに。


 家に帰ると、まず郵便受けを見てしまった。


 もちろん、何も入っていなかった。


 紗良は郵便受けの前で、しばらく固まった。


 そして、自分で自分に言った。


「……郵便受けにも期待してる」


 誰も聞いていないのに、少し恥ずかしくなった。


 でも、心はまだ忙しかった。

 



 そのころ。


 朝倉陽の部屋では、机の上に黒い封筒が置かれていた。


 夜を薄く切り取ったような封筒。


 表には、銀色の字。


 朝倉陽さま。


 朝倉は、まだそれを開けていなかった。


 開けてはいけない気がした。


 けれど、捨てることもできなかった。


 封筒はただ、静かにそこにある。


 何かを命令するわけでもない。


 声を出すわけでもない。


 ただ、朝倉が自分で思いついてしまった言葉を、もう一度思い出させるようにそこにある。


 返事をしないほうが、傷つけないのかな。


 その言葉を。


 朝倉は、白い便箋を見た。


 水野さんへ。


 そこから先は、まだ何も書けていない。


 窓の外では、半分より少し細い月が、雲に隠れたり、出てきたりしていた。


 胸の奥で、針が鳴る。


 ちく。

 たく。

 ちく。

 たく。


 その音は昨日より、少しだけ冷たかった。



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