第3話 黒い封筒は、やさしい顔で届く
月待町の恋時計
優しさの返却期限
第3話 黒い封筒は、やさしい顔で届く
月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。
告白する前の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。
片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。
失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。
好きな人の声だけが、聞こえなくなったり。
町の人たちは、それを大事件のようには言わない。
「ああ、恋時計が動いたんだね」
そんなふうに、駄菓子屋のおじいちゃんが、十円ガムのおまけを確認するくらいの温度で言う。
けれど。
もし、恋時計を止める方法があるとしたら。
誰かを好きになる苦しさも。
誰かの返事を待つ痛みも。
誰かを傷つける怖さも。
ぜんぶ、なかったことにできるとしたら。
それは、救いなのだろうか。
それとも。
もっと別の、何かなのだろうか。
朝倉陽は、黒い封筒を開けないまま、一晩を過ごした。
机の上に置かれた黒い封筒は、夜の間ずっと静かだった。
勝手に開くこともない。
音を立てることもない。
手を伸ばしてくることもない。
ただ、そこにある。
そのことが、かえって怖かった。
もし封筒が勝手に震えたり、青白く光ったり、いかにも不思議なものらしく振る舞ってくれたら、朝倉はもう少し簡単に怖がれたかもしれない。
これは危ないものだ。
近づいてはいけないものだ。
そう決められたかもしれない。
けれど、黒い封筒は何もしなかった。
ただの封筒みたいな顔をしていた。
ただ少し、黒すぎるだけで。
ただ少し、銀色の字が冷たすぎるだけで。
朝倉陽さま。
その名前を見るたびに、胸の奥で針が鳴った。
ちく。
たく。
ちく。
たく。
昨日より、少しだけ冷たい音。
朝倉は、机の前の椅子に座ったまま、何度も封筒を見た。
開けるべきではない。
そう思った。
でも、捨てることもできない。
そうも思った。
理由は、わからなかった。
いや。
本当は、少しだけわかっていた。
黒い封筒は、朝倉がいちばん見たくない考えを、形にして机の上に置いたものだった。
返事をしないほうが、傷つけないのかな。
自分でそう言った。
誰かに言わされたわけではない。
自分の声だった。
その声に答えるように、封筒は現れた。
まるで。
そうですよ、と言うみたいに。
その考えは、あなたがひとりで抱えなくてもいいのですよ、と言うみたいに。
やさしい顔で。
朝倉は、何度も手を伸ばしかけた。
そのたびに、やめた。
封筒の横には、白い便箋が置かれている。
水野さんへ。
そこから先は、まだ何も書けていない。
ペンの先で少しだけ紙を押した跡がある。
書こうとして、書けなかった跡。
それが、朝倉には自分の弱さの形に見えた。
桜色の封筒も、机の上にあった。
紗良からの手紙。
もう何度も読んだ。
何度読んでも、最後の一文で胸が止まりそうになる。
読んだことだけは、忘れないでください。
忘れないよ。
そう答えた。
でも、忘れないことと、返事をすることは違う。
忘れないだけなら、できる。
きっと、これから先も。
紗良が手紙をくれた日のことを。
少し震えた声を。
泣きそうなのに逃げなかった顔を。
忘れないことはできる。
でも、それだけでは足りない。
足りないとわかっているのに、足りないものを差し出せない。
朝倉は、深夜まで机の前に座っていた。
家の中の音が少しずつ消えていく。
廊下を歩く足音。
水道の音。
テレビの小さな音。
それらが順番に遠くなり、最後に部屋の時計の音だけが残った。
かち。
かち。
かち。
胸の奥の音と、壁の時計の音が重なる。
ちく。
たく。
かち。
かち。
眠らなければ、と思った。
でも、封筒を机の上に置いたまま目を閉じるのが怖かった。
それで朝倉は、黒い封筒を『夜の返却箱』の本にはさみ直した。
もとあった場所へ戻すように。
そうすれば、なかったことになる気がした。
けれど、本を閉じても、封筒がそこにあることはわかった。
本の厚みが少しだけ変わっている。
ページの間に、黒い夜が一枚増えたみたいだった。
翌朝、朝倉はいつも通りに学校へ行った。
制服を着る。
鞄に教科書を入れる。
筆箱を入れる。
借りていた本も入れる。
黒い封筒をはさんだままの、『夜の返却箱』。
置いていこうと思った。
でも、置いていけなかった。
部屋に置いたままにするのも怖かった。
誰かが見つけるはずはない。
それでも、見つけられたくなかった。
鞄に入れた瞬間、肩が少し重くなった気がした。
本一冊ぶんの重さではない。
もっと別の重さ。
答えを先延ばしにした人間だけが持つ、湿った重さだった。
通学路には、いつもの朝があった。
商店街のパン屋から、焼きたての匂いが流れてくる。
自転車のベル。
店先を掃く音。
小学生たちの明るい声。
「おはよう」
「おはようございます」
朝倉は、いつものように商店街のおばあちゃんへ挨拶を返した。
「朝倉くん、今日も早いね」
「本が遅刻するとうるさいので」
「本も遅刻するのかい」
「たまに」
商店街のおばあちゃんが笑う。
朝倉も笑った。
笑うことは、できた。
昨日までと同じように。
それが少し嫌だった。
心の中に黒い封筒を入れたままでも、笑える。
誰かに冗談を言える。
優しい先輩みたいな顔ができる。
それが、自分のことなのに少し気味悪かった。
学校に着くと、朝倉は昇降口で靴を履き替えた。
下駄箱の扉を閉める。
そのとき、少し離れたところに紗良がいるのが見えた。
紗良は友達と話していた。
笑っていた。
手には教科書とノートを抱えている。
いつも通りの朝。
でも、朝倉は知っている。
あの笑顔の奥で、紗良は待っている。
昨日も。
今日も。
きっと明日も。
朝倉は、声をかけようとした。
おはよう。
たったそれだけ。
でも、声が出なかった。
紗良がこちらに気づく前に、朝倉は廊下のほうへ歩き出した。
逃げた。
そう思った。
朝の廊下は、まだ少し冷えている。
窓から入る光の中に、細かいほこりが浮かんでいた。
朝倉は、鞄の肩ひもを握り直した。
中にある黒い封筒が、背中に触れている気がした。
もちろん、そんなはずはない。
封筒は本の中にある。
鞄の中にある。
でも、心の中では、ずっと背中に張りついているみたいだった。
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
現代文の授業で、先生が教科書を読ませた。
指名された生徒が立ち上がり、少し眠そうな声で文章を読む。
朝倉は、教科書の文字を追っているふりをした。
でも、視線は何度も鞄へ向かう。
黒い封筒。
開けていない封筒。
開けなければ、何も起きない。
そう思う。
でも、開けなくても、もう何かは起きている。
朝倉は朝、紗良に挨拶できなかった。
それは、黒い封筒のせいではない。
自分のせいだ。
自分が、逃げた。
昼休み、朝倉は図書室へ行った。
いつもなら、図書室に入ると少し落ち着く。
紙の匂い。
静かな机。
本棚の列。
貸出カードの束。
そういうものが、朝倉の中の余計な音を吸い取ってくれる。
でも今日は違った。
図書室に入った瞬間、本棚の影がいつもより濃く見えた。
窓から光が入っているのに、棚と棚の間だけが暗い。
朝倉は、鞄から『夜の返却箱』を取り出した。
誰も見ていないことを確認する。
昼休みの図書室には、生徒が数人いた。
窓際の席で本を読んでいる子。
カウンターでこよみと話している生徒。
奥の棚で本を探している一年生。
紗良は、まだ来ていない。
朝倉は、少しだけほっとした。
ほっとした自分が嫌になった。
カウンターの内側では、こよみが返却カードを整理していた。
朝倉のほうを見た気がした。
気のせいかもしれない。
いや、たぶん気のせいではない。
こよみは気づく。
気づいてしまう。
朝倉は、児童文学の棚の奥へ向かった。
本棚と本棚の間。
昼休みでも、そこは少し人目が少ない。
朝倉は、『夜の返却箱』を開いた。
黒い封筒は、昨日と同じ場所に挟まっていた。
ページの間で、少しも乱れていない。
まるで本の一部みたいに。
朝倉は、それを取り出した。
封筒は、思ったより軽かった。
紙一枚の重さ。
でも、手のひらに置くと、そこだけ温度が下がった気がした。
朝倉陽さま。
銀色の字は、図書室の光を受けても、あたたかくならなかった。
朝倉は、封を切らなかった。
ただ、しばらく見つめていた。
そのとき、背後から声がした。
「朝倉先輩」
朝倉は、反射的に封筒を本の中へ戻した。
振り向くと、こよみが立っていた。
返却本を一冊抱えている。
何かに気づいた顔だった。
「びっくりした」
朝倉は笑った。
「図書室で人の背後に立つときは、鈴をつけてくれない?」
「猫みたいですね」
「日向さんなら、本棚の影から静かに出てきても違和感ないから」
「封筒、見てましたか」
朝倉の笑顔が、少し遅れて固まった。
こよみは、まっすぐこちらを見ている。
責める顔ではない。
でも、逃がさない顔だった。
「封筒?」
朝倉は、聞き返した。
自分でも下手だと思うくらいの声だった。
「黒い封筒です」
図書室の奥で、誰かが本を抜き出す音がした。
すっ、と紙が棚をこする音。
朝倉は、本を持つ手に力を入れた。
「見えた?」
「少しだけ」
「目がいいね」
「朝倉先輩が、急に本を閉じたので」
「怪しかった?」
「はい」
「正直」
「先輩が嘘をつくの、あまり上手じゃないので」
「それは困るな」
朝倉は笑った。
でも、こよみは笑わなかった。
「その封筒、どこで」
「本にはさまってた」
「いつですか」
「昨日の夜」
「開けましたか」
「まだ」
こよみの表情が、ほんの少しだけ変わった。
安心したような。
でも、まだ不安が消えないような。
「開けないほうがいい気がします」
「日向さん、何か知ってる?」
こよみは、少しだけ黙った。
その沈黙は、知らない沈黙ではなかった。
何かを知っている人が、どこまで言うべきか考えている沈黙だった。
「黒い封筒は」
こよみは、声を落とした。
「恋時計を止めるものと、関係しているかもしれません」
朝倉は、息を止めた。
恋時計を止める。
その言葉だけが、図書室の空気から浮いたように聞こえた。
「恋時計って、止められるの?」
「わかりません。でも、そういう噂があります」
「噂か」
「噂だけならいいんですけど」
こよみは、本棚の端に指をかけた。
「前にも、黒い封筒が出てきたことがあります」
「前にも?」
「はい」
「誰のところに?」
こよみは答えなかった。
かわりに、朝倉の持っている本を見た。
「朝倉先輩」
「うん」
「その封筒、捨てられますか」
朝倉は、すぐに答えられなかった。
捨てる。
それが正しい。
そう思う。
開けないほうがいい。
こよみがそう言うなら、なおさらだ。
でも。
本の間に挟んだ黒い封筒の重みを、朝倉は手の中で感じていた。
軽いはずなのに。
たった紙一枚のはずなのに。
捨てるという言葉が、ひどく遠かった。
「……まだ」
朝倉は言った。
「まだ、捨てられない」
こよみの目が、少しだけ揺れた。
「どうしてですか」
「わからない」
「本当に?」
朝倉は、本棚に視線を逃がした。
背表紙が並んでいる。
まっすぐに。
整然と。
どの本も、自分の場所を知っているみたいに。
朝倉は、自分だけが棚からずれている気がした。
「昨日さ」
朝倉は、ぽつりと言った。
「返事をしないほうが、傷つけないのかなって思ったんだ」
こよみは黙って聞いていた。
「そうしたら、これが出てきた」
朝倉は、本を見下ろした。
「気味悪いよね」
「はい」
「でも、少しだけ」
言いたくなかった。
でも、言ってしまった。
「少しだけ、俺の考えをわかってくれた気もした」
こよみの表情が、痛そうに変わった。
それを見て、朝倉は自分の言葉がどれほど危ないところに触れたのかを知った。
「ごめん。変なこと言った」
「変です」
「そこは否定してくれても」
「でも、わかる気もします」
朝倉は、こよみを見た。
こよみは、真剣な顔をしていた。
「苦しいときに、自分の中でいちばん弱い考えを肯定されると、少し楽になるのかもしれません」
その言葉は、静かだった。
でも、朝倉の胸に深く沈んだ。
「日向さんって、本当に人のページ読むよね」
「今は、読めているかわかりません」
「読まれてるほうは、けっこう痛い」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
朝倉は、本を閉じた。
「今のは、痛いけど必要だった気がする」
こよみは、少しだけ目を伏せた。
「開けないでください」
もう一度、そう言った。
「黒い封筒は、たぶん、優しそうなことを書いてきます」
「優しそうなこと?」
「はい」
「どうしてわかるの」
「そういうものだからです」
朝倉は、こよみの言葉の奥に何かがあるのを感じた。
でも、昼休みの図書室でそれ以上聞くことはできなかった。
遠くから、誰かがこよみを呼んだ。
「日向さん、これ借りたいんだけど」
「あ、はい」
こよみは返事をした。
それから、朝倉を見た。
「朝倉先輩」
「うん」
「優しそうな言葉が、優しいとは限りません」
それだけ言って、こよみはカウンターへ戻っていった。
朝倉は、本棚の奥にひとり残された。
手の中の本。
本の間の黒い封筒。
胸の奥の冷たい針。
優しそうな言葉が、優しいとは限らない。
その言葉は、しばらく朝倉の中で鳴っていた。
その日の放課後、朝倉は紗良を避けた。
露骨にではない。
たぶん、誰が見ても避けているとは思わないくらいに。
紗良がカウンターに来ると、朝倉は返却本を持って棚へ行った。
紗良が本棚のほうへ歩いてくると、朝倉は先生に頼まれた資料を取りに資料室へ行った。
紗良と目が合いそうになると、近くの本の背表紙を整えた。
本にも礼儀があるからね。
いつもの冗談を、心の中で言った。
でも、今日はその言葉が薄っぺらく聞こえた。
本への礼儀より、人への礼儀をどうにかしろ。
そんな声が、自分の中から聞こえた気がした。
紗良は、何も言わなかった。
いつも通り、返却カードを整理し、本を棚へ戻し、こよみと小さな声で何かを話していた。
その横顔を見るたびに、朝倉の胸は重くなった。
待っている。
紗良は待っている。
でも、急かさない。
そのことが、余計に苦しかった。
いっそ、責められたほうが楽かもしれない。
早く返事をしてください。
どうして避けるんですか。
迷惑なら迷惑って言ってください。
そう言われたら、朝倉は傷つくだろう。
でも、答えなければならなくなる。
逃げ道がふさがる。
けれど紗良は、それをしない。
だから朝倉は、自分で逃げ道をふさがなければならない。
それができない。
閉室後、朝倉は図書室の鍵を閉めた。
今日は紗良とほとんど話さなかった。
気をつけて帰ってね、すら言わなかった。
そのことに、ほっとしている自分がいた。
そして、その自分を嫌悪している自分もいた。
鞄の中には、『夜の返却箱』が入っている。
黒い封筒を挟んだまま。
こよみに言われた。
開けないでください。
優しそうな言葉が、優しいとは限りません。
朝倉は、その言葉を何度も思い出した。
思い出したのに。
家に着くころには、もうわかっていた。
自分は、たぶん今夜、開けてしまう。
夜。
朝倉の部屋は、静かだった。
机の上には、白い便箋。
桜色の手紙。
『夜の返却箱』。
そして、黒い封筒。
朝倉は椅子に座っていた。
こよみの声が、まだ耳の奥に残っている。
開けないでください。
優しそうな言葉が、優しいとは限りません。
その通りだと思う。
だから開けないほうがいい。
でも、朝倉の心には、もうひとつの声があった。
中身を知らなければ、捨てられない。
本当に危ないものなのか確かめたいだけだ。
読むだけなら、何も起きない。
選ばなければいい。
使わなければいい。
知るだけなら。
見るだけなら。
それは、言い訳だとわかっていた。
わかっていたのに、手が伸びた。
黒い封筒を持つ。
封筒は、やはり軽かった。
紙の感触はなめらかで、冷たい。
朝倉は、封を切った。
その瞬間、部屋の時計の音が一度だけ遠くなった。
かち。
それから、静かになる。
朝倉は息を止めた。
何も起きない。
窓の外の月は、雲の向こうで淡く光っている。
家族の声も遠い。
朝倉は、封筒の中をのぞいた。
黒い紙が入っていた。
それから。
銀色の細いものが、紙の奥で冷たく光っていた。
朝倉は先に、黒い紙を取り出した。
紙は封筒と同じく、夜を薄く伸ばしたような色をしていた。
そこに、銀色の文字が浮かんでいる。
印刷ではない。
誰かが書いたような字。
整っていて、静かで、やさしげな字。
返事をする必要はありません。
朝倉は、最初の一文で動けなくなった。
その言葉は、あまりにも欲しかった言葉だった。
誰かに言ってほしかった言葉。
朝倉くん、無理に返事しなくていいよ。
黙っていたほうが、相手のためになることもあるよ。
あなたは悪くないよ。
そう言われたかった。
黒い紙は、続ける。
返事をしなければ、誰も傷つきません。
言葉は、ときに刃になります。
ならば、言葉を渡さないことも、優しさです。
朝倉の喉が、ひゅっと鳴った。
違う。
そう思った。
でも、紙の言葉は、朝倉の胸の中にあった弱い場所を、正確になぞってくる。
自分が考えたこと。
自分が逃げ道として思い浮かべたこと。
それを、まるで正しい答えみたいに書いている。
朝倉は、続きを読んだ。
あなたの優しさが、相手の恋を育てたのなら。
あなたには、その恋を終わらせる責任があります。
終わらせる責任。
その言葉に、胸が重くなる。
朝倉は、紗良の手紙を思い出した。
雨の日の傘。
同じ本に手を伸ばしたこと。
返却カードの字。
本を大切に扱うところ。
それらが紗良の恋を育てたのなら。
たしかに、自分には責任があるのかもしれない。
好きになってほしくて優しくしたわけではない。
でも、結果としてそうなった。
なら。
その恋が苦しみになっているなら。
終わらせる責任があるのかもしれない。
違う。
朝倉は、紙を握りしめそうになった。
違うはずだ。
でも、何が違うのか、すぐには言えなかった。
相手の恋時計を、静かに止めてあげましょう。
それは、拒絶ではありません。
それは、救いです。
救い。
その文字だけが、少しやわらかく見えた。
朝倉は、もう一度封筒の中を見た。
銀色の細いものがある。
取り出してはいけない。
そう思った。
でも、手は動いた。
封筒の奥から、それをつまみ出す。
机の上に置いた瞬間、月明かりを受けて、細い銀色がひやりと光った。
短剣だった。
けれど、普通の短剣ではない。
細く、短く、まるで時計の針のような形をしている。
針の先は鋭い。
持ち手には、黒い糸が巻かれていた。
重さはほとんどない。
でも、目を離せなかった。
黒い紙には、さらに文字が浮かんでいた。
これは、針折りの短剣。
胸の奥にある見えない針を折れば、恋時計は止まります。
相手は苦しまなくなります。
あなたも、返事に苦しまなくなります。
朝倉は、椅子から立ち上がった。
短剣から一歩離れる。
心臓が早く鳴っている。
これは、だめだ。
これは、違う。
これは、優しさじゃない。
頭ではわかる。
でも、黒い紙の文字は静かだった。
叫ばない。
脅さない。
命令しない。
ただ、そこにある。
まるで、朝倉のほうが決めるのを待っているみたいに。
封筒は、強制していない。
紙も、命令していない。
短剣も、自分から動かない。
だからこそ、怖かった。
これを使うかどうかは、朝倉が選ぶ。
朝倉が選んだことになる。
朝倉は、机の上の桜色の手紙を見た。
紗良の字。
怖くても、恥ずかしくても、それでも消さずに残した言葉。
それから、白い便箋を見た。
水野さんへ。
そこから先の書けない返事。
そして、銀色の短剣。
返事を書けない自分の前に、返事をしなくていいと言う黒い紙。
あまりに都合がよすぎる。
あまりに、やさしすぎる。
「……違う」
朝倉は、声に出した。
でも、その声は小さかった。
黒い紙は、何も答えない。
朝倉は短剣に触れなかった。
これ以上は、触れてはいけないと思った。
すぐに封筒へ戻すべきだ。
捨てるべきだ。
明日、こよみに渡すべきだ。
時計塔へ持っていくべきかもしれない。
頭の中では、正しい行動がいくつも浮かぶ。
でも、体が動かない。
朝倉は、机の前に立ったまま、長いあいだ短剣を見ていた。
もし。
もし本当に、紗良が苦しまなくなるなら。
この待つ時間から解放されるなら。
自分を好きだったことを、痛みにしなくてすむなら。
そんな考えが、胸の奥に浮かぶ。
浮かんだ瞬間、朝倉は自分の手を強く握った。
爪が手のひらに食い込む。
「違う」
もう一度言った。
今度は少し強く。
「それは、俺が楽になりたいだけだ」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥の針が、ひどく大きく鳴った。
ちく。
たく。
痛いくらいに。
朝倉は、深く息を吸った。
短剣をつかまず、黒い紙だけを封筒に戻す。
それから、机の上のハンカチを使って、短剣に直接触れないように包んだ。
封筒へ戻す。
封をすることはできない。
開けてしまったものは、もう開いている。
朝倉は黒い封筒を『夜の返却箱』にはさみ直した。
その手が震えていた。
捨てられなかった。
やっぱり、捨てられなかった。
その事実が、何より怖かった。
朝倉は、椅子に座った。
白い便箋を見た。
水野さんへ。
まだ、その先は書けない。
でも、黒い紙の言葉も選べない。
選びたくない。
選ばないままでいることも、きっと誰かを傷つける。
朝倉は両手で顔を覆った。
部屋の時計が、ふたたび動き出したように音を立てる。
かち。
かち。
かち。
胸の奥の針も、それに重なる。
ちく。
たく。
ちく。
たく。
夜は、まだ深かった。
机の上には、桜色の手紙と、白い便箋。
そして、本の間に隠した黒い封筒。
朝倉は、その三つの前で、初めて本当に思った。
明日。
誰かに言わなければいけない。
このまま一人で持っていたら、いつか自分は、優しさの顔をした逃げ道に手を伸ばしてしまう。
そんな気がした。




