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月待町の恋時計 3 ~優しさの返却期限~  作者: 草風緑


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第1話 朝倉陽は、誰にでも優しい

月待町の恋時計

優しさの返却期限


第1話 朝倉陽は、誰にでも優しい


 月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。


 告白する前の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。


 片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。


 失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。


 好きな人の声だけが、聞こえなくなったり。


 町の人たちは、それを大事件のようには言わない。


「ああ、恋時計が動いたんだね」


 そんなふうに、商店街のおばあちゃんが、揚げたてのコロッケを紙袋に入れるくらいの温度で言う。


 恋時計。


 目には見えない。


 どこにあるのかも、はっきりとはわからない。


 それでも、誰かを好きになったとき。


 胸の奥で、小さな針が動く。


 ちく。

 たく。

 ちく。

 たく。


 好きという気持ちは、たぶん時間に似ている。


 止めようとしても進む。


 戻したくても戻らない。


 そして、誰かに渡した優しさにも、ときどき返却期限がある。


 朝倉陽は、そのことをまだ知らなかった。


 いや。

 知らないふりをしていたのかもしれない。

 

 放課後の図書室には、午後の光が斜めに差しこんでいた。


 窓際の本棚に並んだ背表紙が、夕方の色を受けて少しだけ金色に見える。


 ページをめくる音。


 椅子を引く音。


 貸出カードに日付を書く鉛筆の音。


 図書室には、静かな音がたくさんある。


 朝倉は、その音が好きだった。


 大きな声ではない。


 けれど、確かに誰かがそこにいるとわかる音。


 そんな音に囲まれていると、自分の中にある余計なざわめきまで、少しずつ棚に戻されていくような気がする。


「朝倉先輩、この本、読み終わりました」


 一年生の女子が、カウンターに本を差し出した。


 朝倉は受け取って、表紙を見る。


「ああ、これ読んだんだ」


「はい。先輩がすすめてくれたので」


「どうだった?」


「最後、ちょっと泣きました」


「ちょっと?」


「けっこう泣きました」


「正直でよろしい」


 朝倉が笑うと、後輩もつられて笑った。


「次、何かおすすめありますか?」


「あるよ」


 朝倉はカウンターの内側から出て、児童文学の棚へ向かった。


 後輩があとをついてくる。


 棚の前で少し考え、朝倉は一冊の本を抜き出した。


 薄い水色の表紙の本だった。


「これ」


「どんな話ですか?」


「最後の三ページで心臓をつかまれる話」


「えっ、怖い話ですか」


「怖くはない。けど、帰り道で読むなら気をつけて」


「どうしてですか?」


「涙で前が見えなくなるかもしれないから」


「そんなにですか」


「本による。あと、その日の心の湿度による」


「心の湿度」


 後輩は、少し笑って本を受け取った。


「じゃあ、雨の日に読みます」


「いいね。たぶんよく効く」


「本って薬みたいですね」


「薬ほど強くはないけどね」


 朝倉は、棚に戻す本を整えながら言った。


「湿布くらいにはなる」


 後輩は吹き出した。


「湿布ですか」


「疲れてるところに貼ると、ちょっと楽になる」


「じゃあ借ります。湿布の本」


「貸出カードにそう書いたら、司書の先生に怒られるからやめてね」


 後輩は笑いながらカウンターへ戻っていった。


 朝倉は、その背中を見送ってから、返却された本を棚に戻した。


 本を差しこむ。


 少し飛び出した背表紙を、指先で軽く整える。


 隣の本と高さをそろえる。


 ほんの少しだけ。


 でも、そうしないと気になる。


「朝倉先輩」


 横から声がした。


 振り向くと、日向こよみが立っていた。


 同じ図書委員の後輩だ。


 こよみは返却本を三冊抱え、朝倉の手元をじっと見ていた。


「それ、癖ですよね」


「それ?」


「本を戻したあと、背表紙を整えるやつです」


「ああ」

 朝倉は自分の指先を見た。


 言われてみれば、たしかによくやっている。


「本にも礼儀があるからね」


 いつもの調子で言うと、こよみは少しだけ目を細めた。


「本にですか」


「うん。棚に戻すなら、ちゃんと居心地よく戻したい」


「本、喜びますか」


「たぶん」


「聞いたんですか」


「背表紙がそう言ってる」


 こよみは真面目な顔で本棚を見た。


「聞こえたことないです」


「日向さんは、もっと大事な声が聞こえるからじゃない?」


 そう言った瞬間、こよみの表情がほんの少しだけ動いた。


 笑うわけでも、困るわけでもない。


 でも、胸の奥の小さな引き出しに触れられたみたいな顔だった。


 朝倉は、言いすぎたかなと思った。


 こよみには、そういうところがある。


 人のちょっとした変化に気づく。


 笑っていても、無理をしているとわかる。


 大丈夫と言っても、その中に小さな雨音が混じっていれば気づいてしまう。


 だからこそ、朝倉はときどき、こよみの前で冗談を軽くしすぎる。


 重いものを見つけられる前に、言葉の上へ薄い紙を一枚かぶせるみたいに。


「朝倉先輩」


「うん?」


「今日は、いつもより本を丁寧に戻してます」


 朝倉は、本棚に触れていた手を止めた。


「そう?」


「はい」


「三年生だからね。卒業前に本への礼儀が深まってるのかも」


「本への礼儀は深まってもいいですけど」


 こよみは少し間を置いた。


「自分への礼儀も、忘れないでくださいね」


 朝倉は、返事をするまでに一拍遅れた。


 それをごまかすように、いつもの笑い方をした。


「日向さんって、たまに本じゃなくて人のページを読んでるよね」


「たまに言われます」


「誰に?」


「紗良に」


 その名前が出た瞬間。


 朝倉の胸の奥で、何かが小さく鳴った。


 ちく。

 たく。


 ほんのわずかな音。


 聞こえないふりをしようと思えば、できるくらいの音。


 でも、確かにあった。


 水野紗良。


 二年生の図書委員。


 明るくて、よく笑って、でも本当は少しだけ泣き虫なところがある後輩。


 そして。


 朝倉の鞄の中には、今も紗良からの手紙が入っていた。


 淡い桜色の封筒。


 何度も読んだせいで、折り目の端がほんの少しやわらかくなっている手紙。


 朝倉は、視線を本棚に戻した。


「水野さん、今日来てる?」


「来てます。さっきまでカウンターにいました」


「そっか」


 それだけを言う。


 普通に言えたと思う。


 こよみは、何も言わなかった。


 ただ、少しだけ朝倉を見ていた。


 その視線が痛かった。


 責めているわけではない。


 問い詰めているわけでもない。


 でも、気づいている。


 気づいている人の沈黙は、ときどき言葉よりも逃げ場がない。


「朝倉先輩」


「うん」


「紗良の手紙」


 朝倉の指先が、本の背表紙に触れたまま止まった。


 こよみは続ける。


「読みましたか」


 朝倉は、すぐに笑った。


「読んだよ」


 軽く。


 明るく。


 いつもの調子で。


「五回くらい読んだ。いや、七回かもしれない。数えると重いから、五回にしておこう」


 こよみは笑わなかった。


 そのかわり、静かに聞いた。


「返事、しないんですか」


 図書室の時計が、かちりと小さく鳴った。


 誰かがページをめくる音がする。


 貸出カードに鉛筆が走る音がする。


 遠くで、椅子の脚が床をこすった。


 図書室はいつも通りだった。


 でも、朝倉のまわりだけ、少し空気が重くなる。


「返事ってさ」


 朝倉は、本棚を見たまま言った。


「書いた瞬間に、誰かの時間を変えるんだよね」


 こよみは答えなかった。


 朝倉は、背表紙をそろえるふりをした。


 もう十分そろっているのに。


「俺、誰にでも同じようなことをしてたんだよ」


 言葉が、思ったより静かに出た。


「傘を貸すとか、本をすすめるとか、ちょっと笑わせるとか。水野さんだけに特別だったわけじゃない」


 それは、本当だった。


 雨の日に傘を貸した。


 本をすすめた。


 図書室で困っている後輩に声をかけた。


 落ち込んでいる子に、少し変な冗談を言った。


 誰かが笑えば、それでよかった。


 図書室の空気が少しやわらかくなれば、それでいいと思っていた。


 でも、紗良の手紙には書かれていた。


 雨の日に、傘を貸してくれたこと。


 同じ本に手を伸ばして、少し笑ったこと。


 返却カードに書く字がきれいだったこと。


 本を棚に戻すとき、背表紙をそっと整える癖のこと。


 朝倉にとっては、日常だった。


 たいしたことではなかった。


 でも、紗良の手紙の中では、それらは宝物みたいに光っていた。


 それが、怖かった。


 自分が何気なく置いた小石を、誰かがずっと胸のポケットに入れていたことを、急に知らされたみたいだった。


「だったら」


 朝倉は笑おうとした。


 でも、うまく笑えなかった。


「あの子の手紙って、俺が作らせた勘違いみたいじゃん」


 言った瞬間、自分で少し傷ついた。


 紗良の手紙を、そんなふうに言いたいわけではなかった。


 でも、ほかにどう言えばいいのかわからなかった。


 こよみは、すぐには否定しなかった。


 その沈黙が、朝倉には少しありがたかった。


 簡単に「そんなことないです」と言われたら、たぶん笑ってごまかしていた。


 こよみは、一度だけ本棚に目をやった。


 それから、朝倉を見た。


「先輩にとって普通でも、紗良にとって大事だったなら」


 こよみの声は、図書室の音に溶けるくらい静かだった。


「それは、勘違いじゃありません」


 朝倉は、何も言えなかった。


「普通だったことが、誰かの中で特別になることはあります」


「それ、責任重大だね」


 やっと言えた言葉は、冗談の形をしていた。


「俺、そんなの持てる器じゃないんだけど」


「器じゃなくて、たぶん手です」


「手?」


「もらったものを、落とさないための手」


 こよみは、返却本を抱え直した。


「でも、ずっと持ったままにするのも違うと思います」


 その言葉が、朝倉の胸に残った。


 ずっと持ったままにするのも違う。


 確かにそうだ。


 手紙は、受け取ったら終わりではない。


 読むね、と言った。


 忘れないよ、と言った。


 その場の優しさで。


 そのとき、本当にそう思っていた。


 けれど、その言葉には続きがある。


 読んだなら。


 忘れないなら。


 どう返すのか。


 それを考えなければいけない。


「日向さん」


「はい」


「図書委員って、貸出カードだけじゃなくて人の心にも日付押すの?」


 こよみは、少し考えた。


「押すなら、返却期限も書きます」


 朝倉は笑った。


 今度は、少しだけ本当に笑えた。


「それ、こわいね」


「延滞すると、どうなるんでしょう」


「心の延滞料とか?」


「高そうです」


「うん。払えないな」


 こよみは、やっと少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、朝倉はほっとした。


 けれど、その奥で、胸の針はまだ動いていた。


 ちく。

 たく。

 ちく。

 たく。


 何かを急かすように。

 



 図書室の閉室時間が近づくころ、紗良がカウンターに戻ってきた。


 手には、返却された本を数冊抱えている。


 朝倉は、本棚の前でその姿を見つけた。


 紗良は、いつも通りに見えた。


 明るい声で、こよみに何かを言っている。


 こよみが小さくうなずく。


 紗良は少し大げさに肩をすくめる。


 何か冗談を言ったらしい。


 でも、笑ったあとに、ほんの一瞬だけ視線が朝倉のほうへ向いた。


 目が合う。


 紗良の表情が、わずかに止まった。


 朝倉は、笑った。


 いつものように。


 後輩に向ける、軽くてやわらかい笑顔。


 紗良も笑った。


 けれど、その笑顔は、少しだけ不器用だった。


 手紙を渡す前なら、きっと違った。


 もっと普通に話せた。


 この本、返却です。


 ありがとう。


 先輩、この前すすめてくれた本、読みました。


 どうだった?


 よかったです。でも最後つらかったです

 じゃあ次は、もっとつらいやつにする?


 そんな会話が、何も考えずにできたはずだった。


 でも、今は違う。


 たった一通の手紙が、ふたりの間に小さな橋をかけた。


 渡れば、どこかへ行ける。


 でも、渡らなければ、ずっとその橋はそこにある。


 見ないふりをしても。


 通り過ぎるふりをしても。


 たぶん、消えない。


「朝倉先輩」


 紗良が声をかけてきた。


 朝倉は、少しだけ背筋を伸ばす。


「うん?」


「この本、棚に戻しておきますね」


「ああ、ありがとう」


 紗良は、本を抱え直した。


 それから、いつものように明るく言う。


「先輩、背表紙チェック厳しいので、ちゃんとまっすぐ戻します」


「俺、そんなに厳しい?」


「厳しいです。本にだけ紳士です」


「本にだけって」


「人にも紳士ですけど、本への紳士度が高めです」


 紗良は笑った。


 朝倉も笑った。


 会話は、うまくいった。


 ちゃんと普通に話せた。


 けれど、普通に話せたことが、逆に胸に刺さった。


 紗良は、待っている。


 この笑顔の奥で。


 何も聞かずに。


 急かさずに。


 でも、待っている。


 朝倉は、そのことがわかった。


 わかってしまった。


 紗良が本棚へ向かう後ろ姿を見ながら、朝倉は鞄の中の手紙を思い出した。


 淡い桜色の便箋。


 少し震えた字。


 けれど、逃げていない字。



 

 先輩のことが好きです。

 でも、たぶん、それより怖いのは、忘れられることです。

 わたしのことを、ただの後輩の一人だったって、なかったみたいにされることです。

 だから、読んだことだけは、忘れないでください。

 



 忘れないよ。


 朝倉は、そう答えた。


 そのときの紗良の顔を覚えている。


 泣きそうで、でも少しだけほっとした顔。


 朝倉は、あの顔も忘れられなかった。


 忘れないと約束したからではない。


 たぶん、もう忘れられないのだ。

 

 閉室のチャイムが鳴った。


 図書室にいた生徒たちが、ぽつぽつと席を立つ。


 椅子がしまわれ、本が返され、窓の外の光が少しずつ薄くなる。


 朝倉は、カウンターで貸出カードをそろえた。


 日付印を押す。


 かたん。

 かたん。


 返却期限の日付が、カードに青く残る。


 本には返却期限がある。


 借りたら、返す日が決まっている。


 けれど、人からもらった気持ちには、期限が書かれていない。


 だから、いつまで考えていいのかわからない。


 いつまで待たせてしまうのかも、わからない。


 待たせている側は、考えているつもりでも。


 待っている側の時間は、毎日少しずつ伸びていく。


 朝倉は、日付印を置いた。


 手のひらに、インクの匂いが少し移っている。


 それはいつもの匂いだった。


 図書室の匂い。


 紙と、木の棚と、古い本と、少しだけインクの混じった匂い。


 なのに今日は、その匂いが妙に重かった。


「朝倉先輩、鍵、お願いします」


 こよみが言った。


「ああ、うん」


 朝倉は図書室の鍵を受け取り、扉へ向かった。


 紗良はもう帰り支度を終えていた。


 鞄を持ち、こよみと何か話している。


 朝倉は、声をかけようか迷った。


 また明日。


 それだけなら言える。


 でも、その言葉は明日も返事を待たせる言葉だ。


 なんでもない挨拶の中に、返事を先送りする影が混じる。


 そう思ったら、声が出なかった。


 紗良のほうが先に気づいた。


「朝倉先輩」


「うん?」


「おつかれさまでした」


 明るい声だった。


 ちゃんと笑っていた。


 朝倉も笑った。


「おつかれ。気をつけて帰ってね」


「はい」


 それだけ。


 それだけの会話。


 紗良はこよみと一緒に図書室を出ていった。


 廊下に二人の足音が遠ざかる。


 朝倉は、扉の前に立ったまま、その音を聞いていた。


 気をつけて帰ってね。


 いつもなら、なんでもない言葉だった。


 でも今は、その言葉すら優しさのふりをした逃げ道みたいに思えた。


「……重いな」


 朝倉は、小さくつぶやいた。


 誰にも聞こえない声で。


 図書室の鍵を閉める。


 かちゃり、と音がした。


 その音が、何かを閉じた音に聞こえた。


 

 帰り道、朝倉はひとりで北通りを歩いた。


 夕方の月待町は、ゆっくり夜へ向かっていた。


 商店街のほうから、コロッケを揚げる匂いが流れてくる。


 小学生たちの声はもう少なく、空には半分より少し細い月が出ていた。


 坂の上には、古い時計塔の影が見える。


 月待町に住んでいれば、あの塔の噂を知らない人はいない。


 恋で迷った人が行き着く場所。


 時計塔の魔法使いがいる場所。


 恋時計の針の音が聞こえる場所。


 朝倉は、そういう噂を笑って聞いていた。


 月待町らしい話だと思っていた。


 でも今は、笑えなかった。


 自分の胸の奥にも、何かがある気がした。


 見えない時計。


 見えない針。


 動いているのか、止まっているのかもわからない。


 ただ、紗良の手紙を読んでから、時々音がする。


 ちく。

 たく。

 ちく。

 たく。


 返事をしなければ。


 でも、どう返せばいい。


 好きです、と返せるのか。


 わからない。


 今すぐ同じ気持ちだとは言えない。


 では、断るのか。


 それも違う気がする。


 紗良の手紙を読んだあと、ただの後輩として見ることはもうできなかった。


 でも、それが恋なのかと聞かれたら、答えが出ない。


 受け取れば、期待させる。


 断れば、傷つける。


 待たせれば、苦しめる。


 何をしても、誰かを少しだけ傷つける。


 だったら。


 何もしないほうがいいのではないか。


 そんな考えが、胸の奥に浮かんだ。


 浮かんだ瞬間、自分でぞっとした。


 何もしない。


 それは、とてもやさしそうな顔をしていた。


 でも、本当にやさしいのか。


 それとも、自分が傷つける役目から逃げたいだけなのか。


 朝倉には、わからなかった。


 家に帰ると、部屋に入って鞄を机の上に置いた。


 制服の上着を椅子にかける。


 鞄を開ける。


 教科書。


 筆箱。


 借りていた本。


 そして、桜色の封筒。


 朝倉は、それを取り出した。


 封筒の表面には、自分の名前が書かれている。


 朝倉先輩へ。


 丁寧な字だった。


 少し緊張していて、でも逃げていない字。


 朝倉は、椅子に座った。


 封筒から便箋を出す。


 もう何度も読んだ手紙。


 読むたびに、同じところで胸が苦しくなる。


 雨の日に傘を貸してくれたこと。


 同じ本に手を伸ばして笑ったこと。


 返却カードの字がきれいだったこと。


 本を大切に扱うところが好きだったこと。


 そして、忘れられるのが怖い、ということ。


 朝倉は、最後の一文まで読んだ。


 便箋を膝の上に置く。


 部屋の外から、家族の話し声が聞こえる。


 どこかの家の夕飯の匂いが、窓のすき間からほんの少し入ってくる。


 月待町の夜が、静かに降りてきていた。


 朝倉は机の引き出しから、白い便箋を出した。


 返事を書こうと思った。


 ペンを持つ。


 便箋の上に置く。


 けれど、最初の一文字が出てこなかった。


 水野さんへ。


 そこまでは書ける。


 その先が、続かない。


 手紙ありがとう。


 読んだよ。


 忘れないよ。


 どれも本当だ。


 でも、それだけでは足りない。


 好きです、と書くことはできない。


 ごめんなさい、と書くことも、まだできない。


 中途半端な返事は、もっと残酷な気がした。


 朝倉はペンを置いた。


 白い便箋は、白いままだった。


 その白さが、怖かった。


 紗良の手紙には、文字があった。


怖くても、恥ずかしくても、それでも消さずに残した言葉があった。


それなのに、朝倉の返事は白紙のまま動かない。


 まるで、自分だけが何も差し出せずにいるみたいだった。


「返事をしないほうが」


 声が出た。


 自分の声なのに、どこか遠かった。


「傷つけないのかな」


 言った瞬間、机の上の本が、かすかに動いた気がした。


 朝倉は顔を上げた。


 図書室で借りてきた本だった。


 読みかけのまま、鞄から出して机に置いた本。


 表紙は黒に近い深い青。


 タイトルは、『夜の返却箱』。


 朝倉は、その本を手に取った。


 ページの間から、何かがわずかにのぞいている。


 しおりだろうか。


 そう思って、本を開こうとした。


 そのとき。


 胸の奥で、針がひとつ鳴った。


 ちく。

 たく。


 いつもより、少し冷たい音だった。


 朝倉は、なぜか指を止めた。


 本の間に挟まっているものは、しおりではない。


 そんな気がした。


 部屋の時計が、かちりと鳴る。


 窓の外では、半分の月が雲のあいだから顔を出していた。


 朝倉は、ゆっくり本を開いた。


 ページの間に、黒いものが挟まっていた。


 封筒だった。


 夜を薄く切り取ったような、黒い封筒。


 表には、銀色の字で名前が書かれている。

 

 朝倉陽さま

 

 朝倉は、息を止めた。


 図書室の音も。


 町の音も。


 自分の呼吸さえも、少し遠くなった。


 黒い封筒は、ただ静かにそこにあった。


 まるで、ずっと前から朝倉がそれを開くのを待っていたみたいに。



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