第60話 ユリウス、書記官としての一歩ですわ
第二王都南港が、ようやく一日の流れを覚え始めた頃。
わたくしは、ご苦楽シティと南港を行き来する船の上で、膝の上の帳簿をぱらぱらとめくっておりました。
出入り貨物の量。関税収入。港湾使用料。違反記録。
数字の列は、まだ不細工ながらも、一応は右肩上がりを描き始めている。
「ここまでは、及第点ですわね」
ひとりごちたところで、甲板から声がした。
「アメリア様、もうすぐ南港が見えてきます」
顔を上げれば、風に前髪を乱されたユリウスが、書類束を抱えて立っていた。
黒髪に眼鏡。ご苦楽シティに来た頃より、頬の線が少しだけ引き締まっている。
「往復にも、だいぶ慣れたご様子ですわね」
「波とアメリア様の無茶振りには、そこそこ」
生意気な口が利けるようになったのは、成長の証と受け取っておきましょうか。
「本日のご予定は?」
「午前中は、共同管理港の再建委員会との打ち合わせ。午後は、港の教室の様子を見て、それからご苦楽シティに戻りますわ」
「いよいよ、教室が本格始動ですね」
「ええ。その前に、あなたにはひと仕事お願いしておりますけれど」
ユリウスが、眉をひそめる。
「ひと仕事……ああ、あの、現地役人との説明会ですか」
「そう。あなたが担当ですわ」
「やっぱりそうなりますか」
がっくりと肩を落とす姿が、少しだけ愉快だった。
◇
第二王都南港の役所棟。かつての港湾管理室を片付けて作った、仮設の会議室。
そこに、十人ほどの現地役人が集まっていた。
古い帳簿を抱えた中年男たち。新しい仕組みに露骨に警戒している若い吏員。中には、まだ何が何やら分かっていない顔も混じっている。
彼らの前に、ユリウスが立った。
「本日は、お忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます」
声は、最初こそわずかに震えていたが、すぐに落ち着きを取り戻す。
わたくしは、部屋の後方の椅子に腰掛け、静かに様子を見ていた。
「本日ご説明するのは、共同管理港としての新しい帳簿と、皆さまにお願いしたい仕事の内容です」
黒板には、簡単な図が描かれている。
港の出入り口。関税窓口。倉庫。再建委員会。ご苦楽シティとの連絡線。
「まず、関税と港湾使用料について」
ユリウスは、黒板の一角を指さした。
「これまでは、担当部署ごとに別々の帳簿をつけておられたと聞いています。関税は関税。使用料は使用料。罰金は罰金」
「あたりまえだろう」
中年の役人が、鼻を鳴らす。
「混ぜて書いたら、かえって分かりづらくなるではないか」
「一冊にまとめる必要はありません。ただ、数字を突き合わせる必要はあります」
ユリウスは、穏やかに返した。
「今までは、それぞれの帳簿が合っているかどうかを、誰も確かめてこなかった」
「おいおい、我々を疑っているのかね」
「人を疑っているのではなく、数字を確認したいだけです」
その言い回しは、わたくしの口癖にかなり近くなってきた。
「実際、先週までの三日間の数字を拝見しましたが、関税帳簿と港湾使用料帳簿の合計額と、再建委員会に報告された数字の間に、いくらか差がありました」
ざわめきが起きる。
「誤差の範囲だ」
「そうですね。今のところは」
ユリウスは、あくまで落ち着いた声音で続ける。
「ですが、その誤差が毎日続けば、一月、一年で、どれだけの金額になるでしょうか」
役人たちが、顔を見合わせる。
「だからこそ、皆さまの協力が必要なのです」
ユリウスは、一歩前に出た。
「我々は、皆さまを監視しに来たわけではありません。南港の数字を、南港の人間と一緒に整えるために来ました」
その言い回しに、わずかなざらつきがあるのを、わたくしは聞き逃さない。
祖国出身の彼にとって、この港は、単なる出張先ではない。
「この港が、きちんと税を納め、兵に給金を払い、内債を少しずつ返していけるようにする。そのための帳簿を、一緒に見ていただきたいのです」
「だがなあ」
別の役人が、腕を組んだ。
「なぜ、我々が、他国の書記官に従わねばならんのだ」
出ましたわね、その台詞。
「他国、ですか」
ユリウスは、ほんの一瞬だけ視線を落とし、それから顔を上げた。
「では、お尋ねします」
彼は、黒板に描かれた図を、指先でなぞった。
「皆さまの給金は、どこの帳簿から支払われていますか」
「それはもちろん、セレスタイン王国の」
「その王国の帳簿は、今、自分たちだけで回せていますか」
役人たちは、言葉に詰まった。
「だからこそ、共同管理なのです」
ユリウスの声は、震えていない。
「どの帳簿に、自分の名前を残したいか。僕は一度、アメリア様に問われました」
ふいに、視線がわたくしのほうをかすめる。
「祖国の帳簿か。ご苦楽シティの帳簿か」
「……」
「そのとき、僕は、ご苦楽シティを選びました」
静かな告白が、部屋の空気をわずかに変えた。
「でも、それは、祖国を捨てたという意味ではありません」
ユリウスは、黒板の、港とご苦楽シティをつなぐ線を指さす。
「今、僕は、この線の上にいるつもりです」
「線?」
「はい」
彼は、頷いた。
「祖国の港と、ご苦楽シティをつなぐ線。その上で、どちらの数字も見ながら、帳簿を書いているつもりです」
役人たちが、黙って彼を見ている。
「皆さまにも、同じ質問をいたします」
ユリウスは、視線をひとりひとりに配る。
「どこの帳簿に、自分の仕事の名前を残したいですか」
「そりゃあ……」
「セレスタイン王国の、だろう」
ぽつりぽつりと、声が上がる。
「でしたら、なおさらです」
ユリウスは、黒板の中央を軽く叩いた。
「この共同管理港の帳簿を、ぐちゃぐちゃなままにしておくことは、祖国の帳簿に泥を塗ることになります」
わたくしは、思わず指先で机をとんと叩いた。
いいわね、その言い方。
「僕は、ご苦楽シティの書記官として、この港の数字を整えたい」
ユリウスは、はっきりと言った。
「セレスタイン王国出身の書記官としても、です」
役人たちの中の数人が、小さく頷いた。
彼らの心が、今この場で完全にこちらに傾いたとは限らない。長年の慣習と疑心暗鬼が、そう簡単に消えるはずもない。
それでも。
南港の数字に、自分の名前を刻むこと。その意味を、自分の言葉で語れた書記官が、一人、ここにいる。
それだけで、充分ですわ。
◇
午後。港の端の、空き倉庫を改装した小さな教室。
粗末な机と椅子が十脚。黒板。壁には、ご苦楽シティで使っているものと同じ、数字と文字の表が貼られている。
「今日は、足し算の続きです」
ユリウスが、子どもたちの前でチョークを走らせる。
「二と三を足したら、いくつになる?」
「ご!」
「そう。五」
小さな声が弾む。
その中に、見覚えのある顔があった。
クララの子どもだ。ご苦楽シティの教室にも通っていたが、今日は南港の開設初日に合わせて、わざわざ見に来たらしい。
「数字が読めると、何が良いか、覚えていますか」
ユリウスが尋ねると、ひとりの少年が手を挙げた。
「だまされない!」
「その通り」
黒板に、大きく一行。
だまされない。
「帳簿の数字が読めれば、給金のごまかしに気づけます。内債の利率がおかしいときにも、気づきやすくなります」
子どもたちは、半分くらいは分かっておらず、半分くらいは分かったふりをしている。
それでも、いい。
「大人になったときに、今日習った数字が、きっと役に立ちます」
ユリウスの横顔は、穏やかで、どこか誇らしげだった。
わたくしは、教室の入口にもたれ、静かにその様子を眺める。
数年前。王都で、帳簿の束に押しつぶされかけていた書記官見習いは、もういない。
ここにいるのは。
自分の言葉で、祖国と新しい街の両方を語れる書記官だ。
「ユリウス」
授業が終わり、子どもたちがわいわいと帰っていったあとで、声をかけた。
「お疲れさまでしたわ」
「アメリア様……聞いていらしたんですか」
「一部始終、拝見しておりました」
彼が、どこか気恥ずかしそうに眼鏡を直す。
「なかなか、立派な書記官ぶりでしたわよ」
「からかわないでください」
「からかってなどおりませんわ」
真面目に告げる。
「あなたの数字も、もう見習いではございません」
「……ありがとうございます」
小さな声。けれど、その一言には、はっきりとした重さがあった。
「祖国への情と、ご苦楽シティへの忠誠。両方を抱えたまま、線の上に立てるのは、器用な人間だけですわ」
わたくしには、できなかった芸当だ。
「その器用さを、存分に利用させていただきますわね」
「それは、まあ……いつものことなので」
ユリウスが、ようやく笑った。
教室の窓からは、港の喧騒がかすかに聞こえる。
ご苦楽シティと第二王都南港。
ふたつの港をつなぐ線の上で。
ひとりの書記官が、自分なりの答えを見つけ始めている。
それは、この国の帳簿にとっても、きっと悪くない数字になるはずだと、わたくしは思った。




