第59話 元祖国民たちの小さなざまあ、と小さな希望
第二王都南港の市場開きから、十日ほど。
ご苦楽シティと同じく、朝一番の鐘が鳴ると同時に門が開き、黒板の前に人だかりができる光景にも、ようやく慣れてきましたわ。
「本日分の屋台区画の抽選を開始します。出店希望者は、列の最後尾に並んでください。横入りは無効です」
ユリウスの声が、港に響く。
その横で、フリードリヒが淡々と抽選箱を振り、番号札を取り出しては、木札に書き込んでいく。
「……信じられん。くじで場所を決めるなど」
列の脇で、ひそひそと囁く声が耳に入った。
見れば、絹織物で身を固めた中年男が、取り巻きらしき若い商人を従えて立っている。胸元の小さなバッジから察するに、かつての王都由来の貴族系商会の人間ですわね。
「今までは、うちの倉庫の前の一角は、代々うちが使ってきたのだぞ。ここで仕入れて、ここで売る。それが筋というものではないか」
「ですが、旦那様……今は、その、共同管理港ゆえ……」
「ふん。共同管理といっても、第二王都南港は、あくまで我が国の港だ。多少の融通は利くはずだろう」
多少の、という言葉ほど、帳簿にとって危険なものはございませんこと。
わたくしは、何食わぬ顔で近づき、にこりと笑った。
「おはようございます。初めてお目にかかりますわね」
「む……あなたは」
「ご苦楽シティ財政担当、アメリア・フォン・ラグランジュと申します。この港の共同管理にも、少々、口を出させていただいておりますの」
貴族系商会の男は、あからさまに眉をひそめた。
「元、セレスタイン王国の財務卿補佐……だそうですな」
「よくご存じで」
「あなたの、その冷酷な帳簿のせいで、どれだけの者が苦しんだか。祖国での噂は聞いておりますよ」
おや、懐かしい台詞ですこと。
「そのわたくしに、今、何を求めておられるのかしら」
「求める? とんでもない」
男は、取り巻きに顎をしゃくってみせた。
「今日は、場所を使わせてもらいに来ただけだ。うちの倉庫の前の桟橋だ。今まで通り、我が商会の出店場所として扱ってもらおう」
ユリウスが、困ったようにこちらを見る。
黒板には、はっきりと書いてある。
本日の屋台区画は、全て抽選。事前の場所取り、専用扱いの申し出は受け付けない。
「今まで通り、というのは、便利なお言葉ですわね」
わたくしは、黒板を軽く叩いた。
「こちらに、新しい通りが書いてありますの。ご覧になれませんでした?」
「そんな落書きは知らん。第二王都南港は、もともと我々の庭だ。後から来たよそ者に、指図されるいわれはない」
よそ者。
まあ、実際その通りですから、否定はいたしませんけれど。
「なるほど。では、確認させていただきますわね」
わたくしは、男の正面に立ち、わざと一歩だけ距離を詰めた。
「あなたは、第二王都南港が、従来通りのやり方を続けるべきだとお考えで?」
「当然だ」
「袖の下で順番を変え、顔なじみだけが港の良い場所を占め、税はまけてもらえる者ともらえない者がいる」
わたくしは、指を折りながら続ける。
「その結果として、この港の税収は、潜在力の半分にも届いておりませんでした。倉庫は修繕が追いつかず、桟橋も満足に整備できない。船は他所の港へ逃げ、内債は膨らみ、軍の給金は遅れ」
「そ、それは……」
「あなた方にとっては、居心地のよい庭だったのでしょう」
にこり。
「ですが、その庭を維持するための水と肥料は、もう、底をつきかけているのですわ」
男の顔が、さっと赤くなり、それから青くなった。
「無礼な。誰に向かって」
「共同管理港の帳簿係に、でしてよ」
笑みを変えぬまま、きっぱりと言う。
「この港は、もはや、かつてのように、特定の商会と役人だけの庭ではございません」
黒板を、指先でとんと叩く。
「セレスタイン王国とライシア王国。そして、ご苦楽シティ。三者が、同じ数字を見る場所ですの」
「だが、我々の倉庫は、代々のものだ。それを使うのは、我々の権利だろう」
「倉庫そのものは、もちろんあなた方の財産ですわ」
そこは、認めておきましょう。権利関係をむやみに曖昧にするのは、悪い前例になりますもの。
「ただし、その前に広がる公共の桟橋と市場区画は、共通のルールで運営されます」
わたくしは、黒板の横に貼り出してある、市場規約の写しを指さした。
「ここに、はっきりと書いてございます」
専用利用の禁止。抽選による日替わり区画。違反時の罰則。
男は、紙を睨みつけるように読んだあと、鼻を鳴らした。
「そんな紙切れ一枚で、代々の慣習をひっくり返せると?」
「紙切れ一枚で、あなたの内債も紙切れになりかけたではございませんか」
くす、と笑ってみせる。
「条文は、紙切れですわ。帳簿もまた、紙切れです。でも、その紙切れの束で、人の暮らしも、国の形も、いくらでも変わりますの」
男のこめかみが、ぴくりと動く。
「……よかろう」
しばしの沈黙ののち、しぶしぶという様子で唇を開いた。
「今日は、そこの若いのの言う通り、抽選とやらに付き合ってやろう」
「ありがとうございますわ」
「だが、忘れるなよ。第二王都南港の顔役たちを、あまり軽んじれば、いつかしっぺ返しが来るぞ」
捨て台詞を残し、男は列の最後尾へと歩いていった。
ユリウスが、ほう、と小さく息を吐く。
「……今の、よろしかったんでしょうか」
「よくはありませんわね」
正直に言っておきましょう。
「彼らの恨みは、しばらく溜まります。機会があれば、こちらを引きずり下ろそうともするでしょう」
「では、なぜ」
「今ここで、彼らだけに特権を残せば、他の商人たちが、二度とこの黒板を信用しなくなりますわ」
わたくしは、列の中ほどにいる、小さな荷車の商人たちを見やる。
粗末な服。手作りの屋台。けれど、目の奥だけはぎらぎらとした光が宿っている。
「大きな商会には、これまで十分に甘い汁を吸ってきた蓄えがあります」
わたくしは、肩をすくめた。
「しばらくは、少しくらい苦労していただいても、死にはしませんわ」
「ざまあ、というやつですね」
ユリウスが、小さく苦笑する。
「そうですわ。小さなざまあ、でございます」
大きなざまあは、もう祖国の財政全体で、たっぷり味わっていただきましたからね。
「その代わり」
わたくしは、列の前方に目を向けた。
そこには、見覚えのある顔がいくつかあった。
ご苦楽シティに完全移住していたはずの元下級貴族が、一時出張で屋台を構えに来ている。
かつて王都で細々と店をやっていた中小商人が、南港に拠点を移す相談をしている。
「真面目に帳簿を出し、順番を守る者には、この港は、十分に稼げる場所になりますわ」
それが、今日からの新しい前提条件。
港の一角では、ご苦楽シティから連れてきたパン屋、麦と陽だまりの屋台が、香ばしい匂いを漂わせていた。
「無料ではありませんが、試供品価格にはなっておりますのよー」
店主の奥方が、明るく声を張り上げる。
「ご苦楽シティから来ました、安心安全のパンでーす。関税も港湾使用料も、ちゃんと払ってまーす」
その一言に、周囲の商人たちから、くすくすと笑いが漏れた。
冗談半分。本音半分。
こういう軽口の積み重ねが、やがて、ここでの当たり前を作っていく。
「アメリア様」
少し離れたところから、控えめな声がした。
見ると、ご苦楽シティから家族を呼び寄せたばかりの元難民夫婦が、小さな手をつないだ子どもを連れて立っている。
「教室の件、ありがとうございました。南港のほうにも、読み書きの場ができると聞いて」
「ええ。ここにも、小さな教室をいくつか開きますわ」
港で働く子どもたちが、夕方には文字を習いに来る。そんな光景が、目に浮かぶ。
「数字を読める子は、騙されにくくなりますもの」
「うちの子にも、帳簿の見方を教えてやってください。いつか、自分の店を持てるように」
「承りましたわ」
子どもの目が、きらきらと輝いている。
その光は、かつて王都の無料配給の列で見た、ただ施しを待つだけの目とは、まるで違っていた。
小さなざまあと、小さな希望。
どちらも、帳簿の上では、同じように数字として記録される。
ご苦楽シティと、第二王都南港。
ふたつの港を行き来する人と物と金の流れが、少しずつ、同じリズムを刻み始めているのを、わたくしは肌で感じていた。




