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第61話 レオンと正式に向き合いますわ

第二王都南港の市場開きが、一応の形になってから、さらにしばらく。


 ご苦楽シティと南港を行き来する船の本数も、人の顔ぶれも、だいぶ安定してきましたわ。


 祖国の軍の給金遅配は、少なくとも南側駐屯については解消傾向。内債の利率も、ようやく現実的な水準に落ち着きつつある。


 帳簿の上では、ぎりぎりながらも、左側と右側の桁がかろうじて釣り合い始めたところ、といったところでしょうか。


「崩壊は、ひとまず回避。そこから先は、本人たち次第、ですわね」


 夕暮れの港を見下ろしながら、そんなまとめをつぶやいたとき。


「本人たち、って誰のこと?」


 背後から聞き慣れた声がした。


「国と、人。両方、ですわ」


 振り返れば、レオンが数枚の書類を手に、欄干にもたれかかっている。


 ご苦楽シティの役所棟の、屋上テラス。わたくしのお気に入りの場所。


「今日も、よく働いていらしたご様子ですわね」


「お互いさま」


 レオンは、手にしていた書類をひらひらさせた。


「南港の再建委員会からの最新報告だよ。税収も貨物量も、想定ラインに乗ってきた。君の嫌いな『大外し』は、今のところなさそうだ」


「それは何よりですわ」


 欄干に肘を乗せ、彼の横に並ぶ。


 ご苦楽シティの港の灯り。その向こうに、南港の灯り。そのさらに向こうに、まだ薄暗い祖国の内陸。


「少し前のわたくしなら、祖国の数字がどうなろうと、知ったことではないと思っておりましたのに」


「今も、半分くらいはそう思っているだろう?」


「否定はいたしませんわ」


 わたくしは肩をすくめる。


「ただ、完全に沈まれてしまうと、こちらの帳簿まで赤く染まりますもの。利害の一致というやつですわね」


「はいはい、利己的動機」


 レオンが笑う。


「でも、その利己心がなかったら、ここまで踏み込まなかったのも事実だろう」


「やはり、わたくしたちは性格が悪くてこそ、うまくいく組み合わせのようですわ」


「僕を巻き込まないでくれる?」


 軽いやりとりのあと、ふっと風が止んだ。


 日が落ちきる直前。空が、青とも紫ともつかない色に沈んでいく時間帯。


「アメリア」


 レオンが、視線を港から夜空へと移した。


「この数年のことを、数字抜きでまとめるとしたら、何て言う?」


「数字抜き、ですって?」


 かなりの無茶振りをなさいますわね。


「断罪されて、追放されて、隣国で好き勝手に稼いでいたら、祖国が土下座してきましたわ」


「それ、だいぶ数字の話も混ざってない?」


「わたくしの人生から数字を抜いたら、三割くらいしか残りませんもの」


 そう言うと、レオンの口元が、もう一段柔らかくなった。


「じゃあ、数字込みで構わない」


 彼は、真面目な顔つきに戻る。


「ここまで来られたのは、君と一緒だったからだと、本気で思ってる」


 その台詞は、さらっと言うには少々重たすぎますわよ。


「祖国の崩壊を、隣国としてどう処理するか。最初に話を持ちかけられたとき、正直、胃が痛くなった」


「それはお気の毒に」


「でも、ご苦楽シティなら、君なら、数字と条文でどうにかするかもしれないと、思ってしまった」


 レオンは、欄干から身を起こした。


「実際、そうなった」


「半分は、向こうが勝手に自滅してくださったおかげですけれど」


「その自滅を、ただ眺めているだけの選択もあった」


 レオンの瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。


「でも、君はそうしなかった」


「この海域の商売が、面倒になるのは嫌ですもの」


「そういうところも含めて、だよ」


 彼は、少し息を吸い込んでから、言葉を続けた。


「ここまで来られたのは、君と一緒だったから。これから先も、この街と、南港と、その先に広がる国の形を、君と一緒に見ていたい」


「……」


「仕事の相棒として、だけじゃなくて」


 その一言で、空気が変わる。


「アメリア。僕は、君に賭けたい」


 数字でも条文でもなく、はっきりとした告白の言葉。


「この街に、新しい国境の形を作る仕事に、そして、その仕事を嬉々として引き受けている君という人間に」


「ずいぶんと、リスクの高い投資先をお選びになりますのね」


 口ではそう返しつつ、自分の心臓の鼓動が、いつもより二割増しの速度で跳ねているのを感じていた。


「お金と、ご飯と、ベッドが、何より大事ですのよ、わたくし」


「知ってる」


「恋愛など、その次ですわ。もしくは、そのまた次」


「それも、よく知ってる」


 レオンは、少しだけ苦笑する。


「だから、全部を僕に寄こせとは言わない」


 指先に、力がこもるのが見えた。


「ただ、その一部分でいいから、君のこれからの人生のページに、僕の名前も書き込ませてほしい」


 帳簿のたとえを、使ってきましたわね。


「レオン」


「うん」


「わたくし、退屈が一番嫌いですの」


「存じ上げてます」


「あなたのそばにいると、退屈する暇があまりありませんわ」


 断罪された日の混乱。追放馬車の中の冷静な計算。ご苦楽シティ立ち上げの慌ただしさ。祖国との条件闘争。共同管理港。


 そのどれもに、この男の姿が、何らかの形で張り付いている。


「お金と美味しいご飯と、ふかふかのベッド。その三つが、わたくしの人生の基礎であることは、今後も変わりません」


「そこは、譲らなくていい」


「ただ」


 港の灯りに目をやりながら、そっと言う。


「あなたとなら、その三つとも、今より少し、美味しくなりそうだとは、思いますわ」


 レオンの目が、驚いたように見開かれ、それからゆっくりと細まった。


「それは……かなり、良い返事として受け取っていいのかな」


「政治家は勝手に解釈なさるのがお好きですものね」


 わざとそっけなく言いながら、自分の右手を、欄干の上に出す。


 それを、彼がそっと包み込む。


 掌の温度が、こちらの体温と混ざり合う。


「契約書は、後日にいたしましょうか」


「契約書?」


「婚姻契約とやらの草案を、誰かさんが書きたくてうずうずしている顔をしておりましたので」


「うん、まあ、条文を書くのは嫌いじゃない」


 レオンが照れくさそうに笑う。


「ただ、君の前で法文の草案ばかり広げていたら、仕事と私事の区別が、ますますつかなくなりそうだ」


「もともと、あまり区別されておりませんわよ?」


「それも、知ってる」


 ふざけ半分、本気半分のやりとり。


 でも、その裏側で。


 手と手がつながっているという事実だけは、数字では測れない重みを持っていた。


「では、こういうことで」


 わたくしは、小さく咳払いをした。


「仕事の相棒、という契約に、ひとつ条文を追加しておきますわ」


「条文?」


「人生のパートナーとしての責任を、双方、可能な範囲で負うこと」


 レオンが、目を細める。


「それは、だいぶ重たい条文だね」


「嫌なら、今のうちに修正案を出しておかれます?」


「修正なしで、そのまま受諾で」


「ずいぶんと即決でいらっしゃる」


「長く検討してきた案件だからね」


 その言い方が、いかにも彼らしくて、思わず吹き出してしまった。


「では、書記官と法務官と証人を揃えて、正式な文書にしておきましょうか」


「それは追々でいいよ」


 レオンは、握った手にわずかに力を込めた。


「今は、この口約束だけで、十分だ」


「そういうところ、わたくしと正反対ですわね」


「だから、ちょうどいいんだろう?」


 ご苦楽シティの夜風が、二人の間を抜けていく。


 港のざわめき。遠くで上がる笑い声。どこかの店から流れてくる、鍋の匂い。


 国ひとつぶんの帳簿を前にして。


 わたくしとレオンは、ようやく、自分たち自身の小さな契約書に、署名を入れたのだと。


 そんなふうに、思った。

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