第52話 二つの国の選択を見比べながら(ユリウス視点)
数字って、こんなに重かったでしたっけ。
会議が終わったあとの公会堂は、人が引いたぶんだけ、やけに広く感じられました。
長机の上には、まだインクの乾ききらない羊皮紙が数枚。さっきまでその周りで、僕の元・祖国と、今の勤め先の街と、その後ろの国が、平然とお金と未来の話をしていたわけで。
正直に言えば、胃が痛いです。
「ユリウス。ぼうっと突っ立っていると、机ごと片付けられますわよ」
聞き慣れた声に振り向くと、アメリア様が椅子の背もたれにふんぞり返って、ペン先をくるくる回していました。さっきまで前王国の王太子に「現実を見てくださいませ」と正面から言い放っていた人と、同じ人とは思えません。
「あ、はい。その、片付けを……」
「片付けは後でよろしいですわ。あなたの顔色のほうが、よほど片付いておりませんもの」
「そんなにひどいですか」
「ええ。覚悟を決めかけた人間の顔をしていらしてよ」
覚悟、なんて大それたものは、まだ自分の中にはないと思う。でも、さっきの会議で突きつけられた数字と台詞が、頭の中をぐるぐる回っているのは事実です。
◇
会議中、僕は端のほうで記録係をしていました。ご苦楽シティ側の議事録と、前王国側に渡す写しを、同時に作る仕事です。
前にいたときは、あの王都の会議で記録係見習いだった。遠くの席から、殿下の綺麗な言葉と、リリアーナ嬢の民の味方宣言を聞いていた。
今回の会議で飛び交ったのは、もっと直截的な言葉でした。
緊急食糧援助。軍への貸し付け。内債の一部買い取り。
それに対して、アメリア様たちが提示した条件。
──港の関税徴収権と港湾使用料の一部を、ライシアとご苦楽シティ側に譲渡。
──財務監査役を常駐させて、三ヶ月ごとに数字を報告。
──返済計画を、国内で公表。
書きながら、何度もペン先が震えました。
どれも、前王国にとっては屈辱に近い条件だ。でも、数字だけを見れば、そこまで極端なものではないと分かってしまう。
王都の学舎で習った財政学の教本が、頭の隅でぼそりと囁きました。
──破綻寸前の国の債務再編では、債権者が徴税権の一部を握るケースもある。
──透明性確保のため、財政再建計画を公開する国も多い。
──信用を取り戻すには、まず“どのくらい穴が空いているか”を示す必要がある。
教本の文字と、今目の前にある祖国の惨状が、音を立てて重なっていく。
そして、アメリア様の言葉。
『今だからこそ”ですの』
『民の味方を名乗るなら、民に現実を見せる勇気くらいはお持ちになって?』
……あの場にいた、前王国側の財務官とリリアーナ嬢の顔が、忘れられません。
◇
「ユリウス」
ふいに肩を軽く叩かれて、我に返りました。
レオンさんです。相変わらず涼しい顔ですが、よく見ると少し疲れが滲んでいる。
「記録、お疲れさま。君の写しのおかげで、条件の伝達もスムーズにいくだろう」
「い、いえ……。僕は、書いていただけで」
「書きながら、王国にとってこれは何を意味するかを考えていた顔でしたよ」
図星すぎて、言葉に詰まります。
レオンさんは、窓の外に停泊する前王国の軍艦を、しばらく無言で眺めていました。
「……君にとって、王国はまだ祖国か?」
唐突な問いに、喉が詰まりました。
「それは、その……」
言い淀む僕を見て、アメリア様が横から口を挟みます。
「愚問ですわ、レオン。人の生まれた場所なんて、そう簡単に切り替えられませんことよ」
「それもそうだね」
レオンさんは軽く笑い、言葉を少し変えました。
「ではこう聞こう。ユリウス。君は、今の王国の帳簿とご苦楽シティの帳簿のどちらに、自分の名前を残したい?」
胸の奥で、何かがきしむ音がしました。
あの国で、帳簿に名前を残そうなんて、考えたこともなかった。ただの書記官見習いで、数字を写しているだけで精一杯だったから。
でも今は──
ご苦楽シティの台帳には、僕の字が確かに残っている。移住者の名も、預かり所の貸し借りも、野営地の使用料も。
それが嬉しいと、気づいてしまっています。
「……ご苦楽シティの、ほうです」
自分でも驚くくらい、小さな声で答えました。
アメリア様が、くすりと笑います。
「でしたら、あなたの迷いは半分くらい片付きましたわね」
「半分、ですか」
「ええ。残りの半分は、祖国に対する情ですもの。すぐには整理できませんわ」
アメリア様は、ペン先を指に乗せてくるくる回しながら、さも退屈な雑談のように続けました。
「よろしければ、あなたの祖国の話、聞かせてくださる?」
「僕の……ですか」
「ええ。数字ではない部分を、あなたの目で見てきた範囲で。ご苦楽シティの規約や条件に、反映できるところがあるかもしれませんもの」
数字ではない部分。
兵士の給金が遅れても、まだ笑って酒を飲んでいた兵士たちのこと。内債の利率の話をしながら、「これで子どもの学舎代が」と笑っていた商人のこと。
リリアーナ嬢の無料配給に列を作っていた人たちの、安堵と不安の混じった顔。
僕は、ぽつりぽつりと話し始めました。
◆◇◆
気がつけば、窓の外の空はすっかり赤くなっていました。
話している間、アメリア様はほとんど口を挟まず、ただ要所で短く質問を重ねていくだけでした。
「無料配給の列で、一番後ろに並んでいた人たちは、どんな顔をしていました?」
「配給が足りなくなるかもしれないって、不安そうで……」
「内債を買った商人は、どのくらいの期間で利息を期待していたのかしら?」
「多くて五年くらい、って話していました。それ以上先のことは分からないからって」
アメリア様は、しばし黙り込んで、窓の外を見ました。
「やはり、短期の安心だけを配っていても、持たないのですわね」
「短期の安心、ですか」
「ええ。今日だけは腹が膨れる。今月だけは利息がもらえる。今年だけは税が安い。そういう施策ですわ」
彼女はペンを置き、腕を組みました。
「ご苦楽シティで、短期の安心を配るときは、必ず長期の見返りをセットにいたしましょう」
「見返り、というと」
「例えば、無料の読み書き教室は、明日の税と商売のための投資ですわ。野営地も、兵が暴れずに金を落としてくれる場として用意する」
そして、ほんの少しだけ目を細めました。
「前王国に出す融資も同じ。今だけ助けるのではなく、将来の港と税の一部を買う投資に変える」
レオンさんが頷きます。
「だからこそ、条件を飲めないなら貸さないと最初に示した」
「情で貸した金は、回収できませんもの」
アメリア様の言葉は冷たく聞こえる。でも、その下にあるものが、少しだけ分かってきた気がしました。
この人は、情で国を動かす人間たちを、心の底から信用していない。
そして、情だけで配られた施しが、どれだけ人を傷つけるかも見てきた。
◇
「ユリウス」
ふいに名前を呼ばれて、背筋が伸びました。
「は、はい」
「あなたは、前王国に何をしてほしいと思っているのかしら」
ひどく難しい質問でした。
滅んでほしいわけではない。でも、今のままでも困る。
しばらく考えてから、絞り出すように答えました。
「……ちゃんと、自分たちで数字を見る国になってほしい、です」
「誰かに押しつけるのではなくて?」
「はい。アメリア様みたいな人が、もう一度財務卿補佐になれれば、とは……思いますけど」
「お断りいたしますわ」
即答でした。
僕の顔が、少しだけ笑ったと思います。
「でも、アメリア様みたいな見方ができる人が、何人かでも増えれば」
「それは、賛成ですわ」
アメリア様は満足げに頷きました。
「でしたら、わたくしたちがやるべきことは簡単ですわね」
「簡単、でしょうか」
「ええ。こちら側にいる人たちに、その見方を教えること。前王国から逃げてきた官吏や商人たちに、数字と現実の繋げ方を叩き込む」
レオンさんが、僕を見ました。
「その中に、君も含まれている」
息が詰まりそうになりました。
前王国の学舎で習った財政学は、きれいな机上の計算だった。ご苦楽シティで覚えた数字は、目の前の人たちの生活と直結している。
どちらが、重いか。
「……僕、ちゃんと覚えます」
気づけば、そう口にしていました。
「ご苦楽シティの数字の見方も、前王国の数字の崩れ方も。どっちも見て、こうなってほしくないって、自分の言葉で言えるようになりたいです」
アメリア様が、ふっと笑います。
「よろしい。あなたの数字も、そろそろ見習いの殻を破っていただきませんとね」
◇
その夜、宿に戻って机に向かった僕は、初めて自分のためだけのメモを書きました。
一枚目の見出しは、
『前王国 見たくなかった数字たち』
二枚目の見出しは、
『ご苦楽シティ 見てしまったほうが楽になる数字たち』
そして最後の一枚の上には、少し迷った末に、こう書きました。
『これから、自分がいたい側』
ペン先が、震えなくなっていました。
窓の外には、前王国の軍艦の灯りと、ご苦楽シティの港の灯りが、同じ海に揺れています。
二つの国の選択は、これからもっとはっきりと分かれていくのでしょう。
その行方を、一番近くで見届けるのは、きっと僕のような、小さな書記官たちなのだと思います。
だったらせめて──
自分のペンが残した線くらいは、胸を張って見られるようにしておきたい。
そう思いながら、僕は夜遅くまで、数字と文字を書き続けました。




