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第42話 数字で見る沈む国と育つ街(ユリウス視点)

 同じ「数字」なのに、どうしてこんなに違って見えるんだろう。


 机の上に広げた二冊の帳簿を見比べながら、ぼくはそんなことを考えていた。


 一冊は、ご苦楽シティの預かり所と市場の集計帳簿。


 もう一冊は、ライシア王都経由で届いた、前王国の公表値と、噂と聞き書きをまとめた数字の束。

 片方は、毎日少しずつ増えている。


 もう片方は、毎月少しずつ、穴が広がっている。

 数字の並び方は、どちらもきれいなのに──行き先だけが、まるで違う。


     ◇


 名前はユリウス・フォン・ノートン。


 前王国出身の、どこにでもいるような伯爵家の分家の若造。


 今は、ライシア王国の自由都市、ご苦楽シティで、アメリア・フォン・ラグランジュ様の下で書記官見習いをしている。


 この街に来てから、どれくらい経っただろう。


 最初に踏み込んだときは、「港」と呼ぶのもはばかられるくらい、寂れた桟橋しかなかった。

 今は──。


「ユリウス、昼の便の集計、出ましたわよ」


 背後からひょいと紙束が差し出された。

 顔を上げると、アメリア様がいつものように悪戯っぽく笑っている。


「数字の風景、見物にはよろしいタイミングですわ」

「風景……ですか」


 ぼくは紙束を受け取り、ぱらぱらとめくった。

 荷主台帳。発地と着地。品目と数量。関税と保管料。

 つい半年前までは、空欄が多くて、紙の白い部分ばかりが目立っていたのに。

 今は、ほとんどの行に、なにかしら文字と数字が詰まっている。


「昼前に入ったのが、小麦と干し魚が合わせて十船分。前王国東部ライシア北部他国の小港から、まんべんなく」


 自分で声に出していて、少し不思議な気持ちになる。

 最初の頃は、「バルド商会の一割テスト便」が来るだけで、皆で歓声を上げていたのに──いまは、それが「当たり前」みたいな顔をして並んでいる。


「倉庫枠の埋まり方も、なかなかのものですわよ?」


 アメリア様が、別の紙を指さした。

 港湾倉庫使用状況。

 空き枠は、以前より確かに少ない。でも、「満杯」ではない。


 「長期契約組」がしっかりと押さえた枠と、「試験組」が揺れながら使っている枠と、「短期利用」が出入りする枠と──ちゃんと色分けされて、回っている。


「……ほんとだ。前は、空きばっかりだったのに」


「港と倉庫は、空きが多すぎても埋まりすぎてもいけませんのよ」


 アメリア様は、椅子の背にもたれながら指をひらひらと動かした。


「空きだらけだと、ここは儲からない港だと思われますわ。常に満杯だと、新しい荷が入る余地がないと敬遠されますの」


「ほどよく埋まっていて、でも、少し余裕がある状態が、一番いいんですね」


「ええ、予約が取れないほどではない高級レストランくらいが理想ですわ」


 レストランの比喩は、この街ではよく出てくる。


 「街全体が大きなレストラン」という、アメリア様の口癖。

 最近は、ぼくも少しだけ、そのイメージに慣れてきた。

 倉庫は「厨房」で、港は「入り口」で、市場は「ホール」で、預かり所は「レジ」。

 そして──お客さんは、ただの「客」じゃない。

 ここで働く人たちも、お金を預ける人たちも、「この店の一部」。


     ◇


「預かり所の方は?」


 アメリア様の問いに、ぼくは自分の担当帳簿を引き寄せた。


「この一ヶ月で、小口融資を使った人が二十四人。返済完了が十七人、返済途中が五人、期日を少し過ぎている人が二人」


「期日を少し過ぎているのは、どんな人たち?」


「一人は、子どもが熱を出して店を休んでしまった魚屋さん。もう一人は、荷車が壊れて一週間動けなかった行商人さんです」


 ぼくは、台帳のメモ欄をなぞる。


「どっちも、毎日少しずつでも返そうとしている動きが見えます。逃げる気配はありません」

「なら結構ですわ」


 アメリア様は、あっさり言った。


「返済が少し遅れたくらいで、全部切り捨てるつもりはございません。返そうとしているかどうかが大事ですの」


「逃げる気配がある人は……いないんですか?」

「いまのところはいませんわね。──ぼくが怖いからでしょう」

「そこは否定しません」


 口から素直な言葉が出てしまって、ぼくは慌てる。


「い、いや、その……数字が怖いって意味で!」

「よろしいですわ。わたくしが怖くても、数字が怖くても、結果は同じですもの」


 アメリア様は、悪びれずに笑った。


「借りたものを返さなかったときにどうなるかを、最初にはっきりさせておく。──それだけで、逃げ足の速い人の半分は来なくなりますわ」


「怖がらせることも、優しさなんですね」


「最初に怖がってもらうのと、あとで痛い目を見せるのと、どちらがマシかを考えたら、答えは簡単ですわ」


 そう言い切れるところが、この人らしいと思う。

 人の「いいところ」も、「ずるいところ」も、「弱いところ」も──全部、数字として見ているような気がする。

 だからこそ、「救えるところ」と「救えないところ」を、線で引けるのだろう。


     ◇


 午後は、仮宿と教室回りに出た。

 仮宿の食堂では、相変わらずわいわいと人の声がしている。

 昨日受け入れたばかりの三十人も、だいぶ「顔つき」が変わっていた。

 最初は、全員「疲れ切った人」の顔だったのに──今は、「なにかを考えている人」の顔が混ざっている。


「あっ、ユリウスさん」


 スープ鍋の前で、エルザさんが手を振ってくれた。

 未亡人で、二人の子どもを連れてここに来た人。

 今は、「仮設裁縫室一号」の主であり、仮宿受付の「世話役」でもある。


「子どもたち、教室でがんばってますよ。読み書きの練習、難しいけど楽しいって」

「よかった。先生には、なにか言ってました?」

「あの子たち、数字を覚えるのが早いって」


 その言葉に、ぼくの胸が少し温かくなった。


 ──数字を覚えるのが早い。


 この街にとって、それは「未来の税収」だけじゃない。

 「未来の仲間」でもある。


 教室を覗くと、読み書きと計算の板書を前に、子どもたちが一生懸命ペンを走らせていた。

 中には、大人も混じっている。

 元兵士のカールさんも、その一人だ。


「……一足す一なんて、戦場じゃ意味のないことだと思ってましたけどね」


 休み時間に、彼は照れくさそうに笑った。


「荷車を何台並べれば、一度で運び切れるかとか、自分の給金がいくら遅れてるかとか、考えるには、必要なもんなんですね」


「知ってるのに使わないのと、知らないから使えないのとでは、全然違いますよ」


 ぼくがそう言うと、彼はしみじみと頷いた。


「知らない方に、ずっといたんだな、俺は」


 そんな会話一つひとつが、数字の裏側にある「顔」になる。


     ◇


 夕方。役所に戻ると、レオン様が王都ライシア経由の報告書を持ってきていた。


「ユリウス君、ちょうどいい。少し見比べ作業を手伝ってもらえるかな」

「見比べ作業ですか?」

「うん。前王国の数字と、こっちの数字を、君の目で一度整理しておいてほしい」


 差し出されたのは、二つの束。

 一つは、「前王国の歳入・歳出・内債・軍経費・徴税額」の、ここ一年ぶんの公表値と、噂を元にした推計。


 もう一つは、「ご苦楽シティの港湾収入・預かり所残高・移住者数・難民受け入れコストとリターン」の、ここ半年ぶんの集計。


 机の上に並べてみる。


 ──数字の桁は、もちろん、前王国の方が大きい。

 でも──。



「……前王国、歳入横ばい歳出微増内債急増……」


 ぼくは、思わず声に出して読んでいた。


「軍経費、名目上は据え置きだけど、給金支払い遅延報告が増えてる。徴税額は増えてるのに、納税者数が減り始めている」


「徴税権売却の影響だね」


 レオン様が、静かに言う。


「取れるところから濃く取る政策だ。取る人の人数も増えたが、払う人の数は減り始めている」

「払える人が、出てきちゃってるからですね」


 ぼくは、アメリア様の黒板の丸を思い出す。


 元徴税官のフリードリヒさんが、こっちで「統計係」を始めた話。

 彼のように、「払う側」から「出てきた人たち」が、今の前王国にはたくさんいるのだろう。


「一方で、ご苦楽シティ側は──」


 別の束をめくる。


「港湾収入、半年で三倍預かり所残高、右肩上がり移住者数増加難民受け入れコストは、初月こそ赤字だけど、二ヶ月目以降は黒字方向」


 数字だけ見れば、こっちは明らかに「育っている」

 でも、最初にここに来たときのぼくは、こんな未来、全然想像できなかった。


 「アメリア様」が数字を動かす姿も。

 「レオン様」が線を引く姿も。

 「ヘルマンさん」や「ジルクさん」や、「エルザさん」や「カールさん」たちが、それぞれの場所で動いている姿も。


「どう、見える?」


 レオン様が、少しだけ真面目な顔で尋ねてきた。


「二つの国の未来を、数字で見比べて」


 ──二つの国。

 生まれた国と、今の居場所。

 どちらが正しいとか、間違っているとか、そんな言葉では片づけたくない。

 でも、数字は──。


「……片方は、止まっているのに無理やり走ってる国に見えます」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「歳入も歳出も、ほとんど変わってないのに、借金だけが増えてる。軍や徴税の数字を紙の上でだけ維持して、中身を削ってる」


 だから、「給金遅配」や、「徴発」とか、「徴税権売却」とかが起きている。

 数字の「きれいさ」を守るために、本当に必要なところを削っている。


「もう片方は、数字が増えたり減ったりしながら、ちゃんと向きを決めてる街です」


 ご苦楽シティの帳簿を指でなぞる。


「難民受け入れコストは増えてる。護衛付き街道の費用も増えてる。教室や預かり所にかけるお金も増えてる。でも、それで増える未来の数字も、一緒に書いてある」


 回収開始点。

 受け入れも投資。

 アメリア様が、何度も黒板に書いた言葉。


「増やしたい数字と減らしたくない数字を決めて、そこに向けてお金を流してる街って感じです」

「なるほど」


 レオン様が、小さく笑った。


「止まっているのに走ろうとしている国と、少しずつ形を変えながら歩いている街か」

「ぼくは──」


 気づいたら、口が勝手に動いていた。


「ぼくは、後者の方に居たいです」


 言葉にしてしまった瞬間、胸の奥にあったなにかが、コトリと音を立てて落ち着いた気がした。


「前王国を捨てるとか、見捨てるとか、そういうことじゃなくて」


 自分に言い訳をしながら続ける。


「こっちでなら、自分の数字をちゃんと使える気がするっていうか……」

「自分の数字?」


 レオン様が、少し意外そうに目を瞬かせた。


「はい。ぼくみたいな下っ端の書記官の数字なんて、前王国じゃ、大きな帳簿の端っこに埋もれて終わりです」


 でも、この街では──。


「ユリウスのメモ欄とか、ユリウスの台帳の線が、誰をどこに配置するかとか、どこにどれだけ賭けるかの材料になってる」


 難民一団三十人のメモ。

 ブロイエル商会の帳簿。

 小口融資を使った商人たちの履歴。

 ぼくの拙い字が、アメリア様やレオン様、ヘルマンさんたちの「線引き」に使われている。


「使われているって実感が、こっちにはあります」


 数字を書く手が、ただの「作業」じゃなくて──。


 「この街のどこかに線を引く手」の一部になっている。


「だから、ぼくは……その……」


 そこで、言葉が詰まった。


 代わりに、別の人の顔が頭の中に浮かぶ。


 王都の財務省で、疲れ切った顔で報告書を書いているであろう老財務卿。

 「アメリア嬢がいれば」と、喉まで出かかった言葉を飲み込む官僚たち。

 前王国の兵舎で、空の財布を弄びながら給金通知の紙を睨んでいる兵たち。

 その人たちのことを思うと、「完全に切り離す」のは、やっぱり難しい。

 でも──。


「少なくとも、自分の一生分の数字は、こっちに置きたいです」


 それが、今のぼくの精一杯の言い方だった。


     ◇



 夜。執務室には、いつものように紙とカップとお菓子の包みと、アメリア様がいた。

 レオン様は、ジルクさんたちと街道の打ち合わせに出ている。

 少し静かな、数字だけの時間。


「……さっき、自分の数字って言ってましたわね」


 書類を整理しながら、アメリア様がぽつりと言った。


「聞こえてましたか」

「壁に耳あり、帳簿に目あり、ですわ」


 どんなことわざですか、それ。


「で、自分の数字をこっちに置きたいと?」

「はい」


 観念して、素直に頷く。


「ぼくの一生で書ける数字なんて、大した量じゃないと思いますけど。それでも、どこでそれを書くかくらいは、自分で決めたいなって」


「よろしい心がけですわ」


 アメリア様は、さらりと言った。


「どこに自分の時間と労力を投資するかを、自分で決められる人間は、そう多くありませんもの」


「アメリア様は、最初から決めてたんですか?」


「いいえ?」


 予想外の返事だった。


「王都財務卿補佐になったときは、与えられた帳簿を黒字にすることだけしか考えておりませんでしたわ。この国とかあの国とか、そこまでは」


「じゃあ、いつから……?」


「わたくしを追い出した国が一年も持たないと確信したとき、ですわ」


 あっけらかんと、アメリア様は言った。


「沈みかけの船の帳簿をいじり続けるより、新しい船の帳簿を一から書く方が面白いですもの」


「面白い……」


「ええ、退屈がいちばんの敵ですから」


 その言葉は、何度も聞いた。

 でも、今は少し違って聞こえる。


「……ぼくも、退屈は嫌いです」


 自分でも驚くくらい、はっきり言えた。


「前王国の帳簿が壊れていくのを、ただ見ているだけの仕事は──たぶん、すごく退屈だったと思うから」


「壊れていくのを見るのは、退屈というより苦痛ですわね」


 アメリア様は、少しだけ目を伏せた。


「壊れるのを止める手段がないと知りながら、数字だけ書き続けるのは、わたくしの趣味ではございません」


「だから、こっちで壊れないように線を引く方を選んだんですね」


「ええ。こっちで壊れたら、それはそれでわたくしの責任ですし」


 さらりと口にしてしまうところが、この人の「チートじゃないけど、やっぱりすごい」ところだと思う。


 全部分かっているわけじゃない。

 読み違えることもある。

 でも、「読み違えたら直す」と言い切って、その「直す仕事」から逃げない。

 そんな人の下で、「自分の数字」を使えるなら──。


「ユリウス」

「はい」


「二つの国の未来を見比べたとき、どちらを選んだのか。──いま口にした以上、途中で揺れないことですわ」


 アメリア様は、じっとこちらを見た。


「前王国が完全に沈む前に助けの手を求めてくるでしょう。そのとき、あなたはどちらの側に立つのか。それは、今から覚悟しておきなさいな」


「……はい」


 喉が、少しだけ渇いた。

 でも、目は逸らさなかった。


「ご苦楽シティの書記官として──ぼくは、こっちの数字を守ります」

「よろしい」


 アメリア様は、満足げに笑った。


「では、その覚悟に見合うだけの仕事を用意して差し上げますわ」

「ひい……」


 つい、情けない声が漏れてしまう。


「移住者台帳の更新預かり所の小口融資履歴の整理難民一団第二波への備えバルド商会との長期契約条件の写し書き──」


「ちょ、ちょっと待ってください、アメリア様!」


「なにかしら?」


「一度にそんなに未来の宿題を並べないでください!」


「心配なさらないで。全部終わるまで、ちゃんと生かしておいて差し上げますわ」 


 それは安心していいのか、どうか。

 ため息をつきながらも、ぼくはペンを握り直した。



     ◇



 窓の外では、港の灯りがまた一つ、二つと増えていく。


 前王国の空は、きっと今ごろ、もっと暗く、もっと重い雲で覆われている。


 それでも──どこかで、誰かが、「数字を書いている」。

 沈みかけの帳簿に。

 育ちかけの帳簿に。

 ぼくは、自分の一生分の数字を、どちらに書きたいのか。

 さっき、答えは出した。

 あとは、その答えに恥じないように、ひとつずつ、行を行を埋めていくだけだ。



 自分にそう言い聞かせて、ぼくは新しい帳簿を開いた。


 ここから先の数字が、どんな未来を連れてくるのか。


 怖くもあり、楽しみでもある。


 それなら──。


 怖さより、楽しみを選びたい。


 ぼくは、そう決めたのだった。

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