第34話 移住者たちの小さなドラマ
数字のひとつひとつには、生活の顔がついておりますのよ。
預かり所の台帳をめくりながら、わたくしはそう実感しておりました。
「……前王国・北辺村より一家五人元徴税兵、単身未亡人+孤児二人」
新規口座の横に、ユリウスが小さく書き込んでいるメモ欄には、そんな文字が並んでいます。
「ユリウス。わたくし、台帳に身の上話を書く欄を設けなさいと指示した覚えはございませんけれど?」
「す、すみません! でも、覚えきれなくて……その、顔と数字が一致しないと落ち着かなくて……」
メガネの奥の目がしょぼしょぼしています。昨夜、かなり残業させましたものね。少し優しくして差し上げましょうかしら。
「まあ、悪くない癖ですわ」
「えっ」
「お金だけを見ていると、一人三枚とか口座一件にしか見えませんもの。どういう人がどれくらい動かしているかが分かった方が、街を調整しやすくなりますわ」
わたくしは椅子から立ち上がり、窓の外の港に目を向けました。
少し前までより、明らかに人の色が変わっている。
ぼろ布一枚だった子どもたちが、少しだけましなシャツを着て走り回っていたり。軍隊崩れのような男が、荷車を押して笑っていたり。
「レオンは?」
「避難受け入れの仮宿の件で、自警団と回っています。一気に増える前に、受け皿を整えておきたいって」
ユリウスの報告に、わたくしは満足げに頷きました。
「では、わたくしたちは増えた分の中身を見に行きましょうか」
「中身、ですか」
「ええ。この街に何を求めて来た人たちなのか。それをちゃんと見ておかないと、金額の多い少ないだけで判断してしまいますもの」
セバスチャンが、ため息をひとつつきながらコートを持ってきました。
「どうぞ。お嬢様が他人様の生活を見に行く前に、ご自分の机の上の生活感を何とかしていただきたいものですが」
「机は生活空間ではございません。戦場ですわ」
「だからこそ、足の踏み場を残していただきたいのですが」
口うるさい執事を背に、わたくしとユリウスは仮住居区画へと向かったのでした。
◇
港から少し離れた丘の中腹に、最近、仮設の木造家屋がいくつも並び始めました。
難民や移住者の最初の寝床として、自警団と職人たちが突貫で建てたものですわ。見た目は粗末ですが、雨風はしのげます。
「……なんか、思ったより賑やかですね」
ユリウスが、少し驚いたように辺りを見回しました。
洗濯物が揺れ、子どもたちが木の剣で遊び、どこからか薄いスープの匂い。確かに、難民キャンプというより、少し貧しい新興街区といった趣ですわね。
「自警団、よくやってますわ」
入口には、簡易の見張り台。治安担当の若者が、交代で目を光らせています。彼らに宿泊費の一部を回しているおかげで、仮宿も預かり所も、なんとか回っている状態ですわ。
「アメリア様、その……今日の予定は?」
「三組ほど、こちらから会いに行くつもりですの」
ユリウスのメモをひったくって、名前を確認する。
「元兵士。未亡人。それから、元徴税官」
「……元徴税官、ですか」
なんとも言えない表情をするユリウス。前王国での記憶が、少しだけ顔を曇らせたのでしょう。
「数字を扱う人間は、味方にしておいた方が楽ですわ。もちろん、まともな人なら、ですけれど」
◇
一組目。元兵士は、洗濯物を干している最中でした。
「カール・ヴェルナーと申します。元・前王国国境警備隊、槍兵」
日に焼けた皮膚。古い傷跡。着ているシャツはすり切れているけれど、洗いざらしで清潔。
「給金の遅配が続いて、次の月まで待てと言われているうちに、隊そのものが縮小になりまして。退役手当も、まだ全部は……」
ユリウスが、さっと台帳を確認する。
「入金は、僅かな退職金と、持っていた槍と甲冑を売った分だけ。預かり所の残高は、銀貨六枚」
「奥さんと、お子さんは?」
「嫁は……もう待てないと言って、実家へ戻りました。子はいません」
淡々とした声ですが、その指先に、わずかな震えがありました。
「この街で、なにをしたいとお考えですの?」
わたくしの問いに、カールは少しだけ目を伏せました。
「正直、まだ、はっきりとは……。戦うことしかしてこなかったので。でも、ここでは、槍を振り回す前に、荷車を押せと言われまして」
仮宿の近くに停められた荷車を指さす。
「今は、荷揚げの手伝いを日雇いで。いくらかは、ちゃんと当日払いしてもらえています」
「槍を振り回さずに、荷車を押す。結構なことですわ」
わたくしは、満足げに頷きました。
「この街では、給金の遅配はしません。日雇いでも、週払いでも、いつ払うかを先に決めます。それを破った者には、市場と預かり所を通じて罰を与えますわ」
カールの目が、わずかに大きくなりました。
「……罰、ですか」
「ええ。給金を払わない雇い主は、うちの街では信用できないと数字で刻みますもの」
ユリウスが小さく息を呑んだ。前王国では、そんな発想はなかったでしょうね。
「カール・ヴェルナー」
わたくしは、彼の名前をゆっくりと呼んだ。
「槍を振り回す仕事も、この先まったく要らないとは申しません。治安維持や護衛の仕事は、必ず必要になりますわ」
「……」
「でも、その前に、荷車を押すことと、数字を数えることを覚えていただきたいのです。この街では、力だけでは食えませんもの」
カールは、しばらく黙ってから、静かに頷きました。
「……教えていただけるなら、覚えます」
「よろしいですわ。元兵士の読み書き教室の枠、増やしておきましょうかしら」
ユリウスが慌ててメモを取る。そう、ただ受け入れるだけではなく、どう育てるかを同時に考えませんと。
◇
二組目は、未亡人でした。
名前はエルザ。夫は疫病で亡くなり、親類の家を転々としたあと、「これ以上は無理だ」と言われて、子ども二人を連れてここまで来たそうですわ。
部屋の中は狭いけれど、きちんと片付いていて、子どもたちは静かに本の真似事をしていました。
「読み書きは?」
「私は……あまり。子どもたちは、少しだけ。教会で、字を……」
ユリウスが、優しく笑った。
「ここにも教室がありますよ。昼間、お母さんが働いている間、子どもたちはそこで読み書きと計算を教えてもらえます」
「お、お金は……」
「最初のうちは無料。その代わり、大きくなったら、この街で働いてください」
わたくしは、さらりと告げました。
「投資ですもの。将来の納税者候補、しっかり育てておかないと」
「……投資」
エルザが、その言葉を小さく繰り返す。
「私は、その……裁縫が少しだけできます。前の村では、たまに近所の人の服を直して……」
「たまに?」
「はい。ちゃんと仕事としてやったことはなくて……」
わたくしは、少しだけ考えました。
「ユリウス。仕立てと裁縫の需要、あったかしら?」
「はい、仮住まいの人たちの服のほつれ直しとか、子どもの服の作り直しの相談が増えてます。新品を買う余裕はないけど、直せるなら直したいって」
「でしょうね」
わたくしはエルザに向き直った。
「仮設裁縫室を、一つ用意しましょうか」
「え……?」
「ここから歩いて数分のところに、小さな空き部屋がありますの。そこを昼間だけ使って、ほつれ直し専門店を始めてみませんこと?」
エルザの目が、信じられないように揺れた。
「で、でも、そんな……私なんかに……」
「あなたなんかではございませんわ。ほつれを直せる人に、です」
ぴしゃり。
「なんかとご自分を下げる方は、商売には向きませんの。私はこれができますと言い切れるように、少しずつ慣れていただきますわ」
エルザは、唇を噛んでから、ぎこちなく頷いた。
「……やって、みたいです」
「よろしいですわ。仮設裁縫室一号、開店準備ですわね」
ユリウスが、嬉しそうにメモを取りながら、ぽつりと呟いた。
「……難民受け入れって、仕事を探すことなんですね」
「布団だけ並べて、スープを配るだけなら、三日で行き詰まりますもの」
わたくしは肩をすくめる。
「この街は、逃げてきた人を寝かせておく場所ではございません。もう一度、稼げるようにする場所ですわ」
◇
三組目。元徴税官。
彼は、仮宿の片隅で、擦り切れた外套を畳んでいました。
「ヘルマン様と、何度かご一緒したことがあります」
そう名乗りながら、深々と頭を下げた。
「前王国東部の徴税局で、末端の計算係をしておりました。ラグランジュ様の案に、こっそり賛成していた一人です」
「こっそり、ですのね」
わたくしは、意地悪く笑ってみせた。
「表立って賛成できなかった理由は?」
「……家族が、王都におりまして」
彼は苦い顔をした。
「財務卿補佐の案に賛成した官吏は、次々に左遷や冷や飯に……。自分が飛ばされる分には構わなかったのですが、残された家族がどうなるかを考えると……」
「ええ、分かりますわ。勇気を出せない人間を責めるのは簡単ですけれど、守りたいものがあるほど、身動きは取りにくくなりますもの」
わたくしは、さらりと言いました。
「で、いまは?」
「……局そのものが、先に飛びました」
淡々とした言い方でした。
「増税と減免の乱発で、徴税局への不満が爆発して。有力貴族の一団が、新しい徴税権を握ってしまいまして。わたしたちみたいな数字だけ見ていた役人は、まとめて不要に」
ユリウスが、複雑そうに眉をひそめる。
「それで、この街へ?」
「ここなら、数字を見てくれる場所があると聞きまして」
元徴税官――名前はフリードリヒと名乗りました――は、少しだけ顔を上げた。
「……今さら、あのとき、もっと勇気を出していればと悔やんでも、仕方ないのですが」
「ええ、過去は帳簿にしか残りませんわ」
わたくしは、軽く肩をすくめた。
「大事なのは、いまどこにいるかと、これからどこへ数字を並べるかですもの」
「あの……」
フリードリヒが、おそるおそる口を開く。
「この街で、数字を見る仕事を、もう一度やらせてもらえる余地は、ありますか」
ユリウスが、はっとこちらを見ました。
「アメリア様、ヘルマンさんの補佐とか……」
「ええ、ちょうど統計の整理係が欲しいと思っていたところですわ」
わたくしは、頷いた。
「フリードリヒ。あなた、徴税という名のもとに、人からお金を取り上げる仕事をしてきましたわね」
「……はい」
「この街では、人がお金をどう使っているかを見る仕事をしていただきます。取り上げるのではなく、流れを読む。それなら、過去の経験も役に立ちますわ」
フリードリヒの目に、ほんの少しだけ光が戻った。
「よろしければ、ヘルマン統計室の見習いから始めてくださいまし。給金は、当面は控えめ。でも、遅配はなし。数字を読める人間の席は、大事にしますもの」
ユリウスが、小さく笑った。
「数字を読める人間が増えたら、ぼくの残業もちょっとは減るかもしれませんしね」
「そこには期待しておきましょうかしら」
そう、冗談めかして言ったものの。
──ほんとうは、かなり本気ですわ。
◇
夕方、役所に戻る道すがら。
港の向こうに沈む夕日を眺めながら、ユリウスがぽつりとこぼしました。
「……難民って言葉のイメージ、少し変わりました」
「そうですの?」
「はい。前王国にいた頃は、かわいそうな人たちってまとめて呼んでしまっていて」
ユリウスは、自分の靴先を見ながら続ける。
「でも、今日会った人たち、元兵士、裁縫ができる未亡人、元徴税官で……それぞれ、持っているものが全然違って」
「ええ。かわいそうとひとまとめにするのは、楽ですけれど無責任ですわ」
わたくしは、指を一本立てた。
「何ができるか何ができないか何を怖がっているか。それぞれ違うのに、全部同じスープと布団で済ませてしまったら、その人にとっての一番良い使い道が見えませんもの」
「……使い道って言い方、やっぱりアメリア様ですね」
レオンの口調を真似て、ユリウスが少しだけ笑った。
「でも、多分、その通りなんだろうなって思います。人も数字も、どう使うかが大事って」
「光栄ですわ」
わたくしは、少しだけ胸を張った。
「この街にとって、元兵士未亡人元徴税官は、新しい数字の種ですもの。腐らせるのは、もったいないでしょう?」
「はい」
ユリウスが、まっすぐに頷いた。
「じゃあ、ぼくも、台帳にメモを書くの、ちゃんと続けます。この人はなにができそうかって」
「よろしくてよ。それを見ながら、どこに誰をはめ込むか考えるのは、わたくしの楽しみですもの」
セバスチャンが、少しだけ呆れたように息を吐いた。
「お嬢様。楽しみの結果が、また机の上の書類の雪崩となって戻ってくることを、どうかお忘れなきよう」
「それは、わたくしのご苦労ですわ」
くすりと笑いながら、わたくしは執務室の扉を押し開けた。
机の上には、すでに新しい報告書の山。
その一枚一枚の向こうに、今日会った三人以外にも、たくさんの顔がある。
「さあ、顔つきの数字を、今日もきっちり並べ直して差し上げましょうか」
ご苦楽シティは、今日も少しだけ、逃げ場から稼ぐ場へと姿を変えていくのでしたわ。




