第28話 数字というものは、風向きが変わるとき、いちばん先にざわつきますのよ。
朝、執務室に入ったわたくしを出迎えたのは、机の上に山と積まれた報告書と、ヘルマンのうっすら青ざめた顔でしたわ。
「おはようございます、財務卿閣下」
「おはようございますわ、ヘルマン。……その顔、たいして嬉しくない知らせですわね?」
机の端に置きっぱなしだった昨夜の茶器とお菓子の包み紙を、セバスチャンが無言で片づけながら、じろりと視線だけ寄越してきます。
「お嬢様。机の上に昨晩の成果物を積み上げたまま寝るのは、おやめくださいと何度」
「成果物ですわよ? 税収予測の再計算に、港湾使用料の見直し案。紙屑ではございませんわ」
「茶渋のついたカップのことを申し上げております」
そういう細かいところはいいのです。わたくしは椅子にどかりと腰を下ろし、ヘルマンが差し出した束の一番上をつまみ上げました。
「さて、なにがあったのか、三行で」
「三行で済むなら、こんなに紙は使いませんよ、財務卿殿」
ヘルマンは苦笑しながらも、さっと要点をまとめてくるあたり、もう立派にご苦楽シティ仕様ですわね。
「昨日から今朝にかけて届いた荷主台帳と、移住志願者台帳の更新分を集計しました。……前王国からの流入が、明らかに増えています」
わたくしはぱらぱらと紙をめくり、ぱっと目についた数字に指を滑らせました。
「港を経由する荷の発地……ふむ。前王国東部からの便が、先月比で三割増し」
「はい。しかも、単なる通過じゃなくて、売り切りとこっちでの仕入れが同時に。実質、ご苦楽シティへの軸足移動です」
ヘルマンが別の紙を示します。
「それから、移住志願者。昨日だけで二十組。そのうち、『前王国の増税でやっていけなくなった』と明記してるのが半分以上」
「……あら」
口元が自然と吊り上がるのを、自分でも抑えきれませんでした。
「向こう、やりましたのね」
「ええ。おそらく金持ちからもっと税を取れのあの……」
「学園の頃から民の味方ごっこが大好きだった、あの清純(笑)ヒロインさん」
リリアーナ・ベルローズの顔が脳裏に浮かびます。泣きそうな顔と、上目遣いと、都合のいい正義感。数字の一つでも読めればまだ可愛げもあるものを。
「ヘルマン、具体的にはどんな増税を?」
「詳しい法文まではまだですが、商人やギルドに対する累進的な営業税らしいですね。売上が一定額を超えたら、税率が跳ね上がるとか」
ああ、それは。
「儲けている悪い金持ちからは多めに取るべきという、民受けは最高で経済には最悪のやつですわね」
「はい。短期的には喝采でしょうが、中堅以上の商人は確実に逃げ腰になります」
ヘルマンの声には、わずかながら哀れみが混じっていました。
「で、面白いのはここからでして」
彼は別の紙束を広げました。そこには、港に届いた噂話や商談のメモが走り書きされています。ユリウスの几帳面な字が、ところどころに紛れ込んでいるのを見て、わたくしは少し口元を緩めました。
「前王国の港税は据え置きだが、営業税が上がるって話が回った途端、こちらの問い合わせが急増してます」
「売上を伸ばしたら罰金なんて、商人にとってはいじめ以外の何物でもありませんもの」
数字を追うのは楽しい。でも、こういう愚策が風に乗って運ばれてくる瞬間は、格別ですわ。
「つまり、向こうのヒロイン様が『民の味方』を気取って振った鞭が、きれいにこちらへの移住者募集広告になっていると」
「まあ、雑に言えばそうなりますね」
ヘルマンが肩をすくめるのを見て、わたくしは椅子を回転させ、窓の外の港を見やりました。
朝だというのに、桟橋のあちこちがもう賑やかです。荷を降ろす掛け声、客引きの声、子どもたちの笑い声。少し前まで、ここには風とカモメの声しかありませんでしたのに。
「ユリウスは?」
「はいっ」
控えめな返事とともに、書類の山の向こうからメガネがひょっこりと現れます。可愛い部下ですこと。
「前王国からの手紙と、商人たちの聞き書き、まとめておきました」
差し出された紙には、慣れないながらも必死に整理した跡が見て取れました。噂と実情報を分けようとした形跡があります。
「いい仕事ですわ、ユリウス。どれどれ……」
ざっと目を通し、いくつかの文を声に出して読み上げます。
「『王都では民のためと言いながら、商人ばかりが標的にされている』『税を上げる代わりに、一部の村の税を免除すると約束したらしい』……ふうん」
わたくしは指先で、机の上をとん、とん、と叩きました。
「目に見える施しを増やす代わりに、見えづらいところからむしる。いかにも、人気取りが好きな人たちがやりそうなことですわね」
「……やっぱり、よくないんでしょうか」
ユリウスがおそるおそる尋ねてきます。
「貧しい村の税を軽くするって聞くだけだと、良さそうにも思えるんですけど」
「良さそうに聞こえることと、実際に良いかどうかは別問題ですわ、ユリウス」
わたくしはくるりと椅子を回し、部屋の端の黒板を指さしました。昨日の打ち合わせで使ったまま、まだ数字がいくつか残っています。
「たとえば、ここに百という大きさの国の財布があるとしましょう」
「はあ」
「これを民に見える形で使おうとすると、どうなさいます? 貧しい村に道を作る。橋を直す。麦を配る。見栄えのいいことはいくらでもあるでしょう」
「そうですね」
「でも、それをやろうとしたとき、今まで無駄に使っていたお金を削るという発想がない人は、どうすると思います?」
「……えっと……新しくお金を取る……?」
「そう。どこか別のところから、余計にむしるのですわ。いちばん楽なのは、数がそこそこ多くて、おとなしくて、文句を言いにくい相手から」
わたくしは指で商人と書きました。
「商人たちから多く売った罰として税を上げれば、貧しい民は喜びますもの。悪い金持ちから取り返してくれた!ってね」
ユリウスが複雑そうに眉をひそめました。
「でも、商人がいないと……物が運べなくなります」
「ええ。だから、どうなると思います?」
「……最初は、無理をしてでも我慢すると思います。今までの義理とか、人脈とか、いろいろありますから。でも、だんだん……」
ユリウスの視線が、窓の外の港に向きました。
「だんだん、我慢しなくてもいい場所を探し始める、ってことですか」
「よくできましたわ、ユリウス。今日のテストは満点です」
彼は顔を赤くして、メガネを押し上げました。こういうところは、本当に可愛いですわね。
「つまり向こうは、熱烈にご苦楽シティ移住キャンペーンを打ってくださっているというわけですわ」
「キャンペーン、ですか」
「そうですわ。『この国では、儲けると罰金です』ってね。そりゃあ、“儲ける気がある人間”ほど、ここに流れてきますでしょう?」
ヘルマンが肩をすくめました。
「実際、そういう声も聞こえてます。向こうじゃこれ以上稼いだら干される、なら新しい港を使ってみるかって」
「ありがたいことですわね。広告費、一枚も払っていないのに」
もっとも、その分こちらで払うべきコストも増えるのですけれど。
「……というわけで」
わたくしは手をぱん、と打ちました。
「この向こうの愚策という追い風を、きちんと帆に受ける準備を整えますわよ」
「具体的には、何から始めましょうか」
ヘルマンが、すでにペンを構えています。レオンがいたら、ここで「また一晩中になりますね」とか皮肉を一つ挟んでくれたのでしょうけれど、本日は王都との連絡で外出中ですわ。
「まず、移住志願者の受け入れ窓口を拡張ですわね。ユリウス」
「はい」
「前王国から来たというだけで特別扱いはしませんが、前王国からの増税で逃げてきた人たちには、いくつか質問を追加しましょう」
「質問、ですか」
「向こうで、どんな商売をしていて。どれくらいの売上で、どの税目がきつかったか。愚痴で結構。根掘り葉掘り、聞き出しなさいな」
ユリウスが、一瞬たじろぎました。
「愚痴で、いいんですか?」
「愚痴は、現場の数字の翻訳ですわよ」
わたくしは笑いました。
「正確な法文や統計が届くまでに、向こうで何が起きているかを一番よく知っているのは、直接殴られてきた人たちですもの。彼らの言葉から、どの層が一番痛めつけられているかを拾い上げれば、次にこちらに来る波が読めますわ」
その波に合わせて、港の倉庫、人手、宿屋の部屋数、すべてを調整するのです。
「荷物の流れも同じですわね、ヘルマン」
「はい。発地と商品名の一覧、前王国由来の分だけ別に切り出しておきます」
「それと、向こうで今後さらに重税をかけられそうな品目も予測しましょうか」
「予測……」
ヘルマンが考え込みます。わたくしは黒板にぜいたく品。必需品。と書き分けました。
「人気取りが好きな人たちが狙うのは、だいたい二つですわ」
「はい。贅沢品への課税強化と、見えやすい税の免除」
「その通り」
わたくしは酒、香辛料、娯楽、と書き足しました。
「悪い贅沢というラベルを貼りやすいものから、きっと打ちますわ。庶民には関係ないと言いやすいですものね」
「なるほど。そこから逃げたい商人たちは、先に動き始めるはずだ、と」
「ええ。でしたら、こちらでそういった品を歓迎する倉庫枠と関税の軽減キャンペーン”を、こっそり用意しておきましょう」
「……本当に、向こうの増税がうちの広告みたいになってきましたね」
ヘルマンの呟きに、わたくしは肩を竦めてみせました。
「向こうが勝手に炎を上げてくださるのですから、こちらはその熱でパンでも焼きますのよ」
「パン……ですか」
「比喩ですわ、ユリウス。でもまあ、麦と陽だまりには、祭りのときにでも新メニューを出してもらいましょうかしらね」
問題は、焼き加減を間違えると、こちらまで焦げるということです。
「増税のニュースを聞きつけて、短期的に儲けようとする連中も増えますわ。税を逃れるために、インチキ帳簿をつけたり。抜け道を探したり」 「……それは、困ります」
ユリウスの顔が真面目になりました。
「せっかくルールを守ればここは楽に稼げるって評判になりかけてるのに」
「ええ。ですから、向こうが愚策を打つほど、こちらの選別は厳しくなると、きちんと宣言しておきましょう」
わたくしは新しい紙を一枚引き寄せ、「告示案」と見出しを書きました。
「ご苦楽シティは、どの国からの商人でも歓迎します。ただし、帳簿を二冊持ち歩く方は、お引き取りくださいませ”」
「二冊……」
「一冊は税務署用、もう一冊は本当の売上用。前王国では、よく見た光景でしたわ」
ヘルマンが苦笑します。
「そういう人たちほど、新しい港に真っ先に来るでしょうね」
「ええ。でも、抜け道探しが得意な人と正々堂々と稼ぎたい人は、ちゃんと分けてあげないと」
わたくしはペンを走らせます。
「帳簿と預かり所の記録を連携させる新しい規約を、今のうちに作っておきましょう。売上を嘘つく人は、預かり所も使えない。お金の安全と便利さが欲しいなら、真面目にやりなさい、と」
自分で言いながら、少しばかり胸がすっとしましたわ。
「……アメリア様」
ふいに、扉の向こうからノックとともにレオンの声がしました。
「入ってよろしいですか」
「どうぞ。ちょうど、あなたに見せたいおもちゃ──いえ、案件が山ほどございますの」
扉が開き、レオンが入ってきます。少し埃っぽいマントの裾を払いながら、彼は机の上の紙の山を見て、片眉を上げました。
「またひと晩で、ずいぶん積み上げましたね」
「港と同じですわ。放っておくと、自然と荷が積まれるのです」
「茶碗と菓子の包みまで含める必要はないと思いますが」
レオンの視線が、セバスチャンの手元にちらりと落ちました。セバスチャンが「ご覧の通りです」とでも言いたげに、わずかに肩をすくめます。
「で、どうやら向こうが動いたようですね」
レオンはユリウスから報告書を受け取り、ざっと目を通しました。その顔つきが、いつもの柔らかさから、政治家らしい鋭さへと変わります。
「累進的営業税に、村落への免税。……やりましたね、前王国は」
「ええ。見事な自爆ですわ」
「いや、自爆で済めばいいのですが」
レオンは紙束を机に戻し、わたくしをまっすぐ見ました。
「ここから先は、こちらにも飛び火する火事だと、僕は見ています」
「もちろん。そのつもりで、水路を引き直そうとしていたところですの」
わたくしは、先ほど書きかけた告示案を見せました。レオンは一読して、小さく吹き出しました。
「……帳簿を二冊持つ方はお引き取りください。ですか」
「お洒落な言い回しでしょう?」
「かなり挑発的でもありますね。前王国側の役人が読んだら、顔を真っ赤にするでしょう」
それは大変よろしいことですわ。
「でも、悪くない。こちらは真面目にやるつもりだと宣言しておけば、早い段階で、逃げてきたズルい人たちをふるい落とせる」
レオンの指が、告示の一文をなぞりました。
「ただし」
その声色に、わたくしは少しだけ身を乗り出しました。
「こちらは真面目にやると言ったからには、本当にできなければいけません。抜け道を放置したまま、うちはクリーンですと言うのは、前王国の二の舞ですから」
「当然ですわ。あなた、わたくしを誰だと思っていまして?」
レオンが目を細めました。
「自分の机の上の抜け道は、よく放置してる人ですね」
「それは、セバスチャンが塞ぐ仕事ですわ」
即座に言い返すと、なぜか部屋の空気が一瞬だけ和みました。こういう軽口の交換が、わたくしたちにはしっくりくるのです。
「真面目な話、抜け道探しの名人が押し寄せてくる可能性は高い」
レオンは黒板の前に立ち、チョークを取ります。
「増税で苦しむ真っ当な商人も来るでしょうが、税を逃れたいだけの連中も同じ船に乗ってきます。それをどうふるいにかけるかが、ご苦楽シティの次の勝負ですよ」
「ええ。だから、向こうが愚策を打てば打つほど、こちらの門番は賢くなるとお約束するのですわ」
わたくしは立ち上がり、レオンの隣に並びました。
「港の検査、自警団との連携、預かり所の規約。全部、少しずつ手を入れましょう。時間はかかりますけれど」
「時間とコストは払わないといけませんね」
レオンが頷きます。
「港の混雑も、しばらくはひどくなるでしょう。検査を厳しくすれば、通過時間は伸びる。宿屋も足りなくなる。みんな、文句を言う」
「ええ。ですから、先に文句を言われる覚悟を決めておきますの」
わたくしは、窓の外の港にもう一度目をやりました。
「向こうが勝手に移住者募集してくれてますわねと笑っているだけでは、まだ半分。残り半分は、その募集によって押し寄せた波を、きちんと受け止める仕事ですもの」
それは、決して楽な仕事ではありませんわ。数字をいじっているだけで済む話ではない。人が増えれば、揉め事も増える。ルールを嫌う者も、必ず出てくる。
でも。
「──面白くなってまいりましたわね」
わたくしは小さく笑いました。
「向こうが愚策を打てば打つほど、この街は真面目に稼ぎたい人たちの受け皿になる。数字で見れば、向こうの失策は、そのままこちらの成長曲線ですわ」
「言い方がだいぶ悪役ですね」
レオンが苦笑します。
「褒め言葉と受け取っておきますわ。だって、わたくし──」
わたくしは、黒板に新しい一文を書き足しました。
『ご苦楽シティは、逃げ場所ではなく稼ぐ場所ですわ』
「逃げるだけの人間ではなく、働いて稼ぐ気がある人間を歓迎したいのですもの」
ユリウスが、その言葉を静かに反芻するように呟きました。
「……逃げ場所じゃなくて、稼ぐ場所」
「ええ。ご苦楽ですもの。ご苦労も、楽も、一緒に味わっていただかないと」
窓の外で、船がひとつ、新たに港へ入ってきました。マストに翻る旗は、見慣れた前王国の紋章。
あの船が運んでいるのは、荷物か、人か、それとも──向こうの愚策の、続きの風か。
「さあ、仕事ですわよ、みなさま」
わたくしは机に向き直り、ペンを握りました。
「向こうの愚かな風が、ここでは追い風になるように。数字とルールで、きっちり焼き上げて差し上げましょう」
この街が、逃げ出した先でうずくまるだけの場所で終わるつもりはございませんもの。
──稼ぎたい人と、楽しみたい人が、ご苦楽になれる街へ。
前王国の風は、今日も、こちら側を少しだけ膨らませてくれていますわ。




