会う為のプロセス
……土曜日。
家の中には俺1人……ソファに座って旅行雑誌を眺めていた。
余りに静かでたまに雑誌から顔を上げてリビングを見回し耳をすませて何か音を探すという意味の無い行為をしていた。
……何やってんだ…俺。
寂しがりやの子供か!……静か過ぎるのがいけないんだ。
音楽でも聴こうか……
んん!…やっと音が……かなりけたたましいが……キッチンからお湯の沸く音が呼んでいる。
ポットに沸いたお湯を入れていると、玄関の開く音がしたと思ったら階段を駆け上がって行く足音がした。
「夢!」
兄貴の声……えっ?
もう帰ってきたのか?
時計を見ると家を出てから2時間も経っていない……ヤカンを手にしたまま玄関へ慌てて足を向けた。
兄貴が靴も脱がず座り込んでいた。
……嫌な予感。
まさか…………
「兄貴?」
「あぁ、ただいま。」
背を向けたまま首だけ振り返り低い声で言った。
そして大きく息を吐き立ち上がり家の中へ……リビングのドアノブに手をかけた時、ふっと、2階に目をやった。
ソファに腰を下ろし背もたれに身体を預け天井を見上げ目を閉じている。
リビングの入口でそんな兄貴を見てから、2階に上がって行った夢も心配で階段上に顔を向ける。
…ダメだった?
溜息と一緒に肩が落ちる。
開けっ放しにしていたポットの蓋を閉め、インスタントコーヒーを2つ入れて兄貴の所に持っていった。
「兄貴……コーヒー。」
「えっ…あぁ。」
テーブルに置かれたカップを手に取り静かに揺れる琥珀色の表面を暫く見つめ、其れから口に含み飲み込むと話し始めた。
……予感は当たっていた。
夢の母親あゆみさんが今日の会う約束も守れなかったのだ。
待ち合わせ時間の5分前に到着していた夢と兄貴はタクシーから降りて来るあゆみさんを確認してホッとしたそうだ。所が会ってロクに言葉も交わさない内に会社から電話が入り戻って行ってしまったという。
今日は大丈夫だと信じていた夢にとって、又仕事で自分が後回しになり、かなりショックを受けたようで、〝ごめんなさい″と言って戻って行く後ろ姿を目を真っ赤にし睨めつけていたという。
両手を固く握り締め、下唇を噛んで意地でも涙など流すものかといった表情で、母親が乗り込むタクシーが走り去る前に背をむけ、夢は駅に向かって歩き出したと…その行動は自分が母親から見放されたのでは無く、自分が母親を見限ったのだと言いたげに、タクシーの窓から見つめる母親の顔など見向きもせず、少しずつ歩調を速めて行ったそうだ。
「それからずっと何も話さないんだ。
遠くを見つめ、まるで耳が聞こえなくなったみたいに無反応でさ……」
痺れる様な怒りが身体の中に広がっていく。
「……最悪だ。」
「あぁ…今迄で1番最悪だ。」
コーヒーを水でも飲むかの様に喉を鳴らしながら流し込んだ……さすがに少し熱かったのか、兄貴は口を手で押さえ顔を顰めた。
兄貴の苦虫を噛み潰した様な表情を見ながら全身が麻痺する位の怒りをどこにぶつけたら良いのかわからず、握った手を口元にあて苛々と眉を寄せた。
◆◆◆
その日の夕食は通夜の様で、夢を笑わせようとくだらない冗談を言っても本人の耳には半分も届いてないみたいで、ただ相槌を打つだけで会話が直ぐに途切れてしまう。
夢の前で溜息を吐くのも躊躇われ、兄貴と顔を見合わせては肩をすくめた。
「ごちそうさま。」
「もう食べないのか?……半分以上も残っているよ。」
「……うん。お腹一杯。」
食器を片付けリビングを出て行く後ろ姿を2人で心配そうに目で追った。
その後は三人三様思いを巡らせながら自室に引っ込んでいたが、夜9時を過ぎた頃玄関のインターホンが鳴った。
兄貴が階段を降りていく音がして、間もなく女性と口論する声が聞こえてきた……女性の方が若干興奮している様だ。
俺は読んでいた雑誌から顔を上げて聞き耳を立てた。
「……兎に角会わせて、言い訳をさせて欲しいの。」
「夢は…言い訳が聞きたいんじゃないよ。
そんな風だから駄目なんだ君は……自分が都合の良いように言ったて無駄。
夢には見透かされるさ……」
「そんな……酷いわ。」
「……帰ってくれないか。」
「お願い。一目だけでいいから……じゃあ、謝るだけにするから。」
俺が自室のドアを開けると夢が階段に背を向ける様に廊下に座っていた。
「……下に行けば会えるよ。
言いたい事が有るなら…ママに直接言えばいい。」
「…………。」
「夢?」
「……会いたく無い。」
大きく首を振り抑揚のない声で言った。
頑なに会うことを拒む夢の小さな背中が悲しい程孤独に見えた。
俺は夢の頭を優しく撫でて下へ降りて行った。
「……声が大きいよ。」
「航太……」
冷たい目で見下ろす俺からあゆみさんは一瞬目を逸らした。
「あゆみさん、夢は会いたくないって言ってますから、帰って貰えますか?」
「あっ……でも、」
「すいません。本人が嫌がってます。」
艶やかで美しい顔がやるせなく崩れ俯いた。
「……遅い、遅い時間に……御免なさい。
……帰るわ。」
冷た過ぎたろうか?
帰る姿が少し憐れに見えた。
あゆみさんが出て行くと兄貴は2階へ急いで上がって行った。
俺は唇を噛みあゆみさんが出て行ったドアを見つめてから頭を掻きあとを追う事にした。
「あぁ〜もう!」
暗い道を歩くあゆみさんの後ろ姿は、闇の中に同化したかと思うと、街灯の仄かな光で浮かびあがり、まるで揺れる気持ちを表している様に見え哀感が胸に突き刺さった。
それでも……夢の身体の内側にこびり付いた空虚を思うと、疼く様に痛くてやり切れなかった。
「あゆみさん……」
「航太君。」
あゆみさんの立ち止まった後ろの街灯が今にも消えそうで、チラチラと姿を映し出し古いフィルム映画のワンシーンに見えた。
「……貴方にとって、夢と仕事どちらが大切なんですか?」
恋愛にどっぷりはまった女子みたいな台詞を言ってしまったが、此れが1番ストレートで夢が1番聞きたい事だと思い、代わりに投げかけた。
あゆみさんの唇が僅かに開き言葉を口の中で探し、どう答えたらいいか迷っているみたいだった。
そして、声と表情を強張らせながら答えた。
「……ごめんなさい。どちらも同じなの……」
「そうですか……
じゃあ……1%でも夢の方が大切だと思える時が来たら会いに来て下さい。」
あゆみさんの顔が石のように固まった。
……酷く厳しい事を言っているのは分かっているが、今のままでは同じ事の繰り返しにしかならない……相手を傷付けるだけだ。
中途半端な態度よりずっといい。
あゆみさんが変わらなければ、いつ迄も2人で暗いトンネルの中を全く違う方向を向いて歩き続ける事になる。
そして、事によっては夢も何処かで切り替えが必要になるかも……が、それを6歳の少女に課すのは酷かもしれない。
「私は……」
「このままでいいわけ無いんです。
本当にどうしたいのか自分の気持に向き合ってみて下さい……其れからだと思います。
……失礼します。」
「…………。」
あゆみさんの目を真っ直ぐに見ながら軽く頭を下げて立ち去った。
背を向けた俺に、今あゆみさんがどんな顔をしているのかわからないが、心が啜り泣く音が聞こえてくる気がした。
リビングに戻ると兄貴がソファに座り両肘を膝に立て答えの見えない問題に頭を抱えていた。
……まるで美術書に載っているどこかの彫刻みたいだな……あっ、あれは片手か。其れに顎のあたりに手は添えられていたか。
……俺が立って見つめているの気付いて、上げた顔は何時もの穏やかな表情が厚い灰色の雲に覆われたみたいに重く見えた。
「……航太か。」
「うん、俺……夢は?」
深く息を吸い背筋を伸ばし上体を起こすと頬に曖昧な笑みを浮かべ首を左右に振った。
「そう……」
◆◆◆
あゆみさんが帰って直ぐの夢との会話を話す兄貴。
「……夢?中、入っていい?」
「…………」
「開けるぞ……」
布団を頭まで被り呼んでも顔を見せない……
ベットの脇に膝をついて布団の上から夢の身体を揺すってみたが、返ってきた言葉は痛いくらい悲しいものだったという。
「……ママには2度と会わない!
もう…嘘をつかれるのはイヤ……夢の事なんてどうでもいいんだよ!」
「どうでも言い訳じゃ無いさ…」
「嘘!」
布団から勢いよく起き上がり怒りをそのまま言葉に出し吐き捨てる。唇を噛んで強張らせた表情の瞳は仔犬みたいに頼りなげで震えていたと……
「ママなんか……大嫌い!」
心の奥から絞り出す声で言い、又布団に潜ってしまい口を閉ざしたそうだ。
煙草を出して口にくわえ火を点ける。
吐いた煙を見ながら言った。
「……このままでいいわけ無い。時間をみてあゆみと話すよ。」
「そうだね……」
俺の頭の中で少し悲観的な言葉が浮かんだ。
…………果たしてあゆみさんが変われるだろうか?
変わろうとする意思と覚悟が持てるのか……
でも、あゆみさんの変化を期待するだけでは駄目なのかもしれない……夢も…しかし其れは……
◆◆◆
次の日から何時もの明るいませた夢に戻っていた……表面的には。
きっと心の中は梅雨空の様に晴れない気持ちを持て余し、時に大粒の雨を降らせているのだと思うと、元気に振る舞う姿が不憫で俺の心も締め付けられる様に痛んだ。
……そして、父親である兄貴はもっと苦しいだろう。
そんな日が10日程続いたある夜、夢も就寝しリビングで2人きりになった。
「今日……あゆみと話して来た。」
「えっ……うん。そうか……聞くよ。」
「ありがとう。」
兄貴の瞳が穏やかに笑って見えた。
お互い仕事の合間に、あゆみさんの会社近くのカフェで待ち合わせ会ったそうだ。
いつもは艶やかで自信がみなぎり、大輪の花を咲かせたみたいに華やかな女性だか、店内に入って来た姿は花が萎んでしまった様に生気が無く頼りな気に見えたそうだ。
「あいつのあんな顔初めてだ……チョット可哀想だったよ。」
「…………」
………………「忙しいのにすまない。」
「いいえ、でも1時間位しか時間取れないけど……」
「わかった。……それで夢の事なんだが…」
「会ってくれるの?」
あゆみさんの期待する表情を見て此れから言わなければ成らない酷な言葉を一瞬躊躇ったという。
「でも、言ったんだろ。」
「あぁ。言い辛い言葉だけにかえって容赦なく冷たい言い方になった気がする。」
辛そうに微笑む。
…………「夢はやはり会いたくないって言っている。」
「そんな……次は、」
「これ以上不安にさせないでくれ……」
「不安……」
「……約束をすっぽかされる度不安になるんだよ……自分は母親に嫌われている、仕事を優先するのは自分がどうでもいい存在だからだって……」
「そんな事ないわ!」
「……仕事が忙しいのはわかっている。でも、本当に会いたいなら後少しだけでいいから娘を優先出来ないのか?
……君に会えなくて悲しい筈なのに、わざと明るく振舞っている夢を見ると辛い。」
「悪いとは思っているの…でも、1人で生活して責任ある仕事があって……簡単じゃないの…毎日が必死なのよ。」
「……でも、其れを選んだのは君だ。」
「…あっ……そうよ…ね。」
兄貴の言葉であゆみさんの表情が固まりやがて凍りついたように青白い影を落とし俯いてしまう姿が浮かんだ。
……自分を優先する事を選択したあゆみさんにこれ以上夢を悲しませる権利など無い。
例え会う機会を作るという離婚時の約束であっても、娘が会うことを拒めば、其れを嘆く権利もないのだ。
全て受け入れなければ……あゆみさんはそういう道を選んだのだから……
俺があゆみさんに厳しいのは、おそらく亡くなった義母さんと無意識の内比較してしまっているからだろう……義母さんが与えてくれた無償の愛と……
あゆみさんに愛がないとは思わないが、その重さは天と地ほどの差があると感じてしまう。
……俺って厳しいな…其れとも何も分かってないだけなのか……
いや、前に夢にいわれたな…ただのマザコン?……馬鹿をいっている場合じゃないな。
……兄貴は冷たい言葉で傷付けたと後悔し謝ったそうだ。
……優し過ぎ!
「……結局、自分が1番大切なのね私は……仕事の為に家族を捨てて、夢に会いたいと口にしながら約束を破る。
……航太君に言われたわ…〝仕事より1%でもいいから夢の方が大切だと思えたら会いに来てくれ″って……重い言葉だった。」
「…………」
「そんなの分かりきっている事なのに……
夢に会う資格なんて、育てる事を放棄した私には無いのよ。
それなのに、会ってくれない事にイラついたり、悲しんだり…今の私では当たり前の結果なのに……馬鹿ね。自分の立場忘れてたわ。」
そこまで話し終えると目を細めて俺を見た。
「……航太が言った言葉、かなり効いたみたいだ。」
「ちょっと、出しゃばったかな……」
「いや……ありがとう。
…俺はただ娘を優先させろとあゆみに言った。でも航太は、仕事より1%でもいいから夢を大切に思えたら会いに来てくれと言った。……同じ様で全く違う。」
「……そうか?」
ソファの背もたれに身を預け首をかしげる俺を、兄貴は悟りを開いた僧侶の様な穏やかな目をして見ている。
「俺は兎に角会う事が2人に必要だと思うだけで、あゆみの心の過程が大事なのだと考え付かなかった。
でも航太は、仕事の為に娘と離れてしまったあゆみが今あう為に何が必要なのか、重要なのか……思いの過程が大事なんだと問いた言葉だ。」
「……そんな複雑に考えて言ってなかったけど……そうなのかな…」
「そうなんだよ。……ちょっと悔しいな。」
兄貴は片眉を吊り上げてニヤリとし、俺は鼻の頭を掻きながら目を伏せ照れ笑いを浮かべた。
「兄貴みたいに気の利いた事言えたのかな……まぁ、たまには華もたせてよ。」
「今回だけな。」
俺は口を片方に引き上げ小刻みに頷いた。
「……それで、話し戻すけどその後どうしたの?」
「自分の思いだけで会う事はよすそうだ。
〝辛いけど″って、言ってたな……でも仕方ない。」
「そっか……いい方向にいけばいいよな。」
「あぁ。」
時計を見ると話し始めてから随分時間が経っていた。
「兄貴……乾杯しない?」
「えっ、何に?」
「んん……夢とあゆみさんがいい形で会える様に祈りを込めて……って言うんじゃあ駄目
?」
「なんだそれ……まぁ、そうだな。
乾杯するか。」
その後2人で缶ビールを1本ずつ開けたが、結局2本…3本と飲んでしまった。
……俺はいいけど、兄貴明日も仕事がある。
大丈夫なのか?
まぁ、酒に強いからいいか……




