ノート……過去から知った事
カーテンを開ける音……目を閉じていても周りが僅かに明るくなるのを感じる。
……まだ眠い。
俺を呼ぶ声がする。……でもまだ起きたくないので寝返りをしてその声をやり過ごす。
何かを開け閉めする音、水道の水の流れる音、ガスコンロを点火する音……あぁ、お湯を沸かすのか……少しうるさいな、静かにしてくれまだ寝ていたいんだ。
ダダダっと階段を物凄い勢いで降りてくる足音とリビングのドアを開ける音。
……‼︎
ヤバイ!……うっ!
「航太起きて!…朝だよ。」
夢がソファで寝ていた俺にダイビングして来たのだ。
一瞬息が止まり死ぬかと思った。
「くっ…くるしい。……起きるから……」
俺のお腹をまたいでその上に座り、乗馬しているみたいに身体を揺らしている。
「酔っ払いさん、起きて!」
「おっ起きるから…そこどいてくれ。」
「だらしないなぁ……腹筋鍛えた方がいいよ。」
そう笑ってやっと上から降りてくれた。
……二日酔いなんだ仕方ないだろ……腹筋は結構割れてるぞ、これでも……
腹部を摩りながら上体を起こす……あっ…クソッ! 頭が……
完全に飲み過ぎだ。
「顔……洗ってくる。」
立ち上がると足がふらついた。
……久しぶりだなこんなに酷いのは、調子に乗り過ぎた。
チラッとキッチンの方を見ると何時もと変わらない兄貴が朝食を作っている。
俺より飲んでいたと思うが平気な顔してるよ。……相変わらず強いな
……駄目だ、風呂にしよう。
「兄貴、風呂は、」
「沸いてるぞぉ……」
「あっ…そう。……じゃあ、入って来るよ。」
「どうぞ。」
……やる事にソツがないねぇ。
30分程風呂に浸かりあがると朝食の用意が整っていた。
「こんな時間だ昼食は作らないからしっかり食べておけよ。」
時計を見ると間もなく10時になろうとしていた。
……二日酔いで胃がしっかり受け入れてくれるだろうか?
兎に角食べよう。
「ウゥ…食べたぁ」
胃が苦しくてソファにゴロリと横になった。
「航太、これ。」
兄貴が頭側からノートを差し出した。
「……何?」
「お袋の書いたものだ……お前に預ける。」
起き上がり受け取る。ノートは5冊。
「義母さんの日記?…とか。」
「……日記とも言えないな。毎日書いていた訳でもないし……俺も最初の方しか読んでないからハッキリは言えないけど、その日あった事とか思った事を箇条書きみたいに記したものだ。」
「どうして俺に預けるって……」
「航太の事しか書いてないからだよ。
数ページ目を通してすぐに分かった。だから先に読んではいけないと思ってやめた。」
「……これ、どこにあったんだよ」
「仏壇の裏さ……この間整理しながら念入りに掃除してたら出てきた。」
「いいの?」
「航太が読むべきノートだと思う。」
「……ありがとう。」
◆◆◆
ノートを持って自室のドアを背中越しに閉める。
5冊の大学ノートは色褪せて長い間誰にも見つかる事なく閉じられひっそりと眠っていた。
しかし、義母さんが亡くなり、書かれる事のない今迄の様々な出来事さえも想いと一緒に閉じ込めてある様に感じた。
ベットに座り《No.1》と表紙に書かれたノートを手にとる。
開く手が緊張しているのが自分でもわかる。
……何が書かれてあるのだろう。
兄貴は俺の事だけだと言っていたが……それだけに読むのが怖い。
一つ息を吐く……ページを開く。
∞∞∞∞∞10月7日∞∞∞∞∞
今日、航太が我が家にやって来た。
余りに不安そうにしていて思わず抱きしめた。
智美さんに誓った。
この子を責任持って育てる。
その覚悟をここに記しておく。
∞∞∞∞∞10月14日∞∞∞∞∞
航太が来て1週間、喋ってくれない。
焦らずにいこう。
∞∞∞∞∞10月29日∞∞∞∞∞
札幌の姉が来た。
2階で航太はきっと怯えていたと思う。
姉が帰った後部屋を覗きに行ったら、隼人と一緒に安心した様に眠っていた。
大丈夫。
時間はかかるけど4人でやっていける。
∞∞∞∞∞11月1日∞∞∞∞∞
今日から近所にある幼稚園へ通い始める。
手をつなごうと差し出したが、幼稚園バックの肩ベルトを両手で握り、私の手をとってはくれなかった。
ちょっと悲しかった。
∞∞∞∞∞11月3日∞∞∞∞∞
札幌の姉の事以来隼人とは楽しそうに話す姿が見られる。
やっぱり兄弟。安心する。
∞∞∞∞∞11月15日∞∞∞∞∞
今日は嬉しい事があった。
幼稚園のお迎えの時航太が私の手を取ってくれた。指3本…半歩前進?
………義母さんの想いが一字一句に込められていて心に沁みてくる。
∞∞∞∞∞11月20日∞∞∞∞∞
学校から帰って来た隼人がジュースを飲んでいる。航太がチラチラ見ていた。
冷蔵庫は絶対に開けようとしない、遠慮している。
隼人がペットボトルのジュースを渡してやり、中身が残ったボトルにそれぞれの名前を隼人が書いた。
これは航太のだから好きな時出して飲む様にと言った。
航太、嬉しそうに頷く。
∞∞∞∞∞11月28日∞∞∞∞∞
幼稚園で友達と揉めた。航太が突き飛ばしたと先生から言われる。
どうやら…もらわれっ子…とからかわれたそうだ。
その子はおそらく母親から聞いたのだろう。
近所でも噂になっているのは知っていたが、子供にまでそんな話をするなんて……悔しい
航太の心を傷付けて欲しくない。
幼稚園から帰ると玄関で航太泣き出した。
ごめんなさいと何度も何度も謝る。
抱きしめて、謝らなくていい、航太は悪くないと言いながら私も一緒になって泣いた。
∞∞∞∞∞12月10日∞∞∞∞∞
庭で隼人がキャッチボールを教えている。
航太楽しそう、でもグラブは隼人のおさがり。
そうだ、クリスマスプレゼントは野球のボールとグラブにしよう。
∞∞∞∞∞12月25日∞∞∞∞∞
朝バタバタと慌てて航太降りてくる。
サンタからのプレゼント、ボールとグラブを私に見せてくれた。
良かったねと言うと嬉しそうに笑っていた。
∞∞∞∞∞1月1日∞∞∞∞∞
4人で初詣。
航太に何をお願いしたのか聞いたら、ただ一言…ありがとう…って言った……と言う。
何がありがとうなのかは教えてくれない。
∞∞∞∞∞1月7日∞∞∞∞∞
航太と暮らす様になって4ヶ月目に入った。
最初に比べると随分私とも話す様になった。
そして隼人の事をいつの間にかお兄ちゃんと呼んでいた。
私はまだ呼んでもらえてない。
……………義母さん、もうこの頃は母だと思っていたさ……でも、恥ずかしくて何かきっかけがないと言えなかったんだよ。
確か、この後割と直ぐに呼んだと記憶しているが……どうだったか?…はっきりしない。
ページを少し飛ばしてみる。
∞∞∞∞∞2月18日∞∞∞∞∞
今日、航太と2人でランドセルを買いに行った。シンプルな黒い色を選んで包装して貰うと、初めて言ってくれた。
……おかあさんって、そして……ありがとうって……頬を染めながら。
突然の言葉で…はい、どういたしまして…なんて言ってしまった。
それから暫くボウっとして宙に浮いているみたいにフワフワしてた。
…………義母さんがこの日をどれだけ待っていたのか、その喜びが手にとる様にわかる。
俺も呼べた事が恥ずかしくて…嬉しかった。
……記憶から消えてしまった出来事がこの後にも書かれてあり一つ一つ蘇っていった。
1冊目を読み終わり2冊目を開いた……そこに書いてある文字を見て、ノートを閉じバックにしまって部屋を出た。
そのまま玄関に向かうと夢が何処に行くのかと聞いてきた。
「ちょっと駅前まで」
「夢も行きたい……」
「ごめん、今日は1人で。」
可哀想だけど、目もあまり合わせずそう言って外へ飛び出して行った。
◆◆◆
何時ものカウンター席が空いているか確認して、マスターの背中に挨拶するとカウンターテーブルにバックを置き《No.2》のノートを開いた。
そのページには親父と俺がこの喫茶店に行き始めた時の事が書かれてある。
それで、なんとなく家ではなく此処で読みたいと思い来てしまった。
最初の方は義母さんも何故2人で出掛けて行くのか見当もつかなかった様だ。
「いらっしゃい航太君。久しぶりだね。」
スペシャルブレンドが出てきた。
「マスター、久しぶりってそんなに……」
ノートから目を上げてカウンターの中にいるマスターを見ると、そこにはいい感じに年を重ねた深いシワの愛嬌のある笑顔があった。
「……あれ?……マスター、お久しぶりです。あの、マスターは?…ん?……なんかややこしいなぁ。」
「はっはは……息子は今日、外せない用事があってね。ピンチヒッターですよ。」
カウンターの中に立っていたのは初代のマスターだった。
確か身体を悪くして引退し、息子である今のマスターにこの店を譲ったと聞いていた。
「体調は大丈夫なんですか?」
「……2回手術しましたが、今はすっかり。
引退してのんびりしてたからね。お陰さまで元気ですよ。」
「それは良かった……会えて嬉しいです。」
「ゆっくりしていって下さい。」
マスターは奥に引っ込み仕込みを始めた。
……こんな偶然あるだろうか?
マスターなら何故親父がこの店に俺を連れて来たのか知っているかもしれない。
後で聞いてみよう。
今は義母さんのノートだ。
薫り高いスペシャルブレンドを一口飲む。……何時もと同じだけど、今日はなんだか懐かしい味がする。
∞∞∞∞∞7月12日∞∞∞∞∞
主人が航太を連れて出掛ける。
5月から始まって3回目、何故2人だけなのか理由がわかった。
懐いてくれない息子との距離を縮めたいみたいだ。……場所はわからない。
∞∞∞∞∞7月28日∞∞∞∞∞
夏休み。プールや友達と外で遊び随分日焼けをしてきた。
∞∞∞∞∞8月1日∞∞∞∞∞
お盆休みの主人は航太と2人智美さんの墓参りに行く。
帰って来た航太は少し元気がない。
母親が恋しくなったのかも知れない。
…………そうだった、親父が亡くなるまで毎年、お盆と命日、母の墓参りに行っていたな……亡くなってからは…確か大学を中退して日本を離れる前に1度だけ行った。
それ以降母の墓前に手を合わせてはいない。
……店のドアのベルが鳴る。
2人の客が入って来た。
マスターが注文をとりコーヒーを淹れ始めた。
その手つきを眺めながら、ふと思い出した。
母の命日の墓参りの帰りに此処へ寄った事がある。
その時の親父とマスターの会話……
「今日は命日だったね。」
「ええ…航太と行った帰りです。三回忌なんですけど立場上私がやる事は出来ないんで……お経だけあげて貰うだけでした。」
「……智美ちゃん、そんな事気にしたりしないよ。」
「ええ。」
……マスターは母の事を智美ちゃんと親しげに呼んでいた。……知っているんだ。
やはり聞いてみよう。
俺はコーヒーを出し終わるのを待った。
「マスター……もしかして俺の母、島村 智美に会ったことありますか?」
コーヒーカップを洗う手が止まり、さして驚いた様子も無く真っ直ぐ此方を見た。
「すいません、急に…でも昔、此処で親父と母の事を話しているのを思い出したんです。」
水道を止めて、愛嬌のある笑顔を見せた。
「よく知っていますよ。」
「やっぱり。……教えて下さい。」
「……いつかこんな日が来るのではないかと思っていました。
折出さんが亡くなった今、2人の事を知っているのは私だけだろうしね。
いいですよ…知っている事は全部お話ししましょう。」
ノートを手にして何かに引っ張られる様に此処へ来たのは、親父が呼んだのか…其れとも母なのか不思議な偶然に鳥肌が立つ。
…………もしかしたら、義母さんが導いてくれたのだろうか?
「……智美ちゃん、昔、此処で働いていたんですよ。」
「えっ!」
……驚いた。
自宅からそう離れていない場所で出会い恋に落ちるなんて……でも、意外とそんなものなのだろうか?
……マスターは知っている限りの、母の生い立ちから話してくれた。
……母は12歳の時事故でいっぺんに両親と兄を亡くし、引き取って面倒を見てくれる親戚も無く、高校を卒業するまで施設で育ったと言う。しかし、折角就職した会社は1年も経たない内に倒産。
生活するには兎に角仕事をしなければと、辿り着いたのがこの喫茶店だった。
仕事は真面目で、何より美人だった母は客の受けも良く、目当てに通う男性客も多かったという。
元々常連だった親父も母とは会っているが、不器用で口下手な性格もあり、挨拶や注文する位しか会話は無かったらしい。
「……でも、智美ちゃんの方は、気になる相手だったみたいですよ。」
「えぇ?……まさか。」
カップを持ち上げた手を止めた。
マスターはサイフォンに少し残っていたコーヒーをカップに入れ飲んだ。
「……用も無いのにカウンターの中に入って来て、その席の前をウロウロ。
折出さんが帰ると、彼の話ばかり。
……あれは一目惚れですね。」
信じられない。
今迄、親父の方からだと思っていた。
でも、よくよく考えてみれば、結婚していて子供も……その頃は…多分兄貴も産まれていたと思う……不器用な親父が自分から他の女性に心を寄せるなんてあり得ないな。
「2人の距離が少し近付いたのは、此処で智美ちゃんの20歳の誕生日を祝った時だったかな…」
どうやらその誕生日パーティーに親父も呼んで欲しいと母の方からマスターに頼んだようだ。で、20歳になったからアルコールが解禁だとビールを飲まされた母は、初めてのビールに酔ってしまい、その勢いで親父に好きだと告白してしまったらしい。
親父は豆鉄砲でもくらった様に目を白黒させアタフタとし見ていて面白かったとマスターが笑った。
元来男性に対して積極的な方ではない母……まして家族がある男性。ずっと思いを秘めて焦がれているだけだったが……余程好きだったのだろう、アルコールの力を借りて告白をしてしまった。
しかし、それで親父との仲がどうにかなるとは思ってはいなかった様だと言い口の横に皺を寄せた。
「……何も言わずにいるのが苦しくなったんだろうね……」
感慨深げにマスターは言った。
「……其れから2人は付き合いだしたんですか?」
「いやいや。……でも、折出さんの方は随分意識する様に成りましたねぇ…今迄そんな事無かったが、店に来るとその席に座ってチラチラ智美ちゃんの姿を目で追ったりしてましたからね。」
「じゃあ…きっかけって……いつなんですか?」
マスターはコーヒーをひと口ふた口飲んでから遠い日の出来事を探す様に宙に目を向けた。
「…………あれは…」
その日は大型台風が接近していて、外は大荒れだった。
店に客は1人もいなく、店じまいしようかと考えていた所に親父が飛び込んで来たそうだ。
雨はまだ酷くはなかったが風が強く、傘も役には立たず、乱れた服に髪の毛、湿っぽい背広といった状態だったと言う。
そんな時マスターの自宅に、飛んできた看板が窓ガラスに直撃して大変な事になっているから帰ってきて欲しいと電話が入った。
「私は店の戸締まりを智美ちゃんに頼んで先に帰ったんですよ。……その後、この辺一帯停電になってね。復旧作業にかなりの時間がかかった。
……その時2人は暗い店の中で一緒にいた。
おそらく…この時一気に距離が縮まったんじゃないかと……私は思っているのですが……」
息をするのも忘れて聞いていたので、酸欠の脳に酸素を送りそして深く吐いた。
「その台風の後から智美ちゃんどんどん綺麗になっていって……元々美人だったから眩しい位でした。
折出さんの態度も変化していって、店でも話す様になってたね。
…………1度だけ2人がデートしている姿見た事ありますよ。」
でも……2人の仲は1年も経たない内に終わったそうだ。
母が突然店を辞め、アパートも引き払い行方がわからなくなったのだと……親父は必死に探したが見つからなかった。
……母が姿を消した理由は俺だった…
子供ができ、このままでは親父に迷惑がかかると思い妊娠した事も告げずいなくなったのだろうと……
マスターの目がサイフォンの中で揺れる艶やかな琥珀色のコーヒーを見つめる。
「……君の事はどうしても産みたい。
でも其れは好きな人の家族を壊し兼ねないと……そういう女性です。
楽しそうに折出さんの事を話していても、フッと…悲しそうな、辛そうな表情を見せる。
罪悪感なんでしょうね……
幸せだけど、幸せじゃない……この言葉を逆にした言い方もあります。」
「…………幸せじゃないけど、幸せ。
母は姿を消す事で贖罪したかったのでしょうか……」
「…そうなのかも知れません。
長い事客商売をしていると色んな方に会いますが……本気の恋は、ましてや不倫は辛いものがあります。」
「…………。」
「新しいの…淹れましょう。」
空になったカップをマスターが下げた。
……母の記憶はとても少ない。
ただ、よく抱きしめてくれた事は鮮明に憶えている。
優しく微笑んで細い腕で力一杯抱いてくれた。時折、そうやって母は俺に見られない様に泣いているんじゃないかと思う時があった。
そんな時は必ず…〝ごめんね″と、小さな声で謝る……多分、愛するが故なにも告げず別れた親父を思い、その穴を埋める様に息子を抱きしめ涙を流し、父を与えてやれなかった事に泣いて詫びるしかなかったのだと……
「……どうぞ。」
「ありがとうございます。」
いい香りが鼻から脳に伝わり身体全体をリラックスさせてくれる。
「このスペシャルコーヒー智美ちゃんがブレンドしたんですよ。」
「母が⁈……これを?」
「はい。……半分冗談でブレンドしていたら、此れが良くてね……折出さんが凄く気に入って、智美ちゃん、このコーヒーは折出さんだけのスペシャルブレンドにしますって言ってね。だから此れは折出さんと息子の航太君だけが飲めるコーヒーなんです。」
「母のコーヒー。」
「……航太君を此処に連れて来る様になってからよく言ってました。
〝このスペシャルブレンド、息子は何時になったら飲める様になるんだろう……今から楽しみなんだ″…とね。」
俺は両手で顔を覆った。
……親父が何故此処に連れて来たのか、やっと本当の理由がわかった……母との出会った場所、思い出のある場所、そして母のコーヒー……
いつか2人で此れを飲みながら、大人になった息子に母の事を話したかったのだろう。
其れが親父の楽しみで、願いだった。
……親父、貴方はやはりとても不器用だ。
……涙が溢れるのが止められなかった。
「マスター……2杯目…なんかしょっぱいよ。」
マスターは俺に背を向けて〝淹れなおしますか?″…と言った。
「いいえ……此れは…此れで美味しいです。」
そう言い、流れる涙と一緒に母と父のスペシャルブレンドを味わった。
◆◆◆
月曜日、いつも通り兄貴は出勤し、夢は学校へ行った。
俺は家の事を済ませ、ノートをバックにしまい喫茶店へ行くために外へ出る。
今日の天気は晴天とはいかないが雨は降りそうにないので自転車に乗って行く事にした。
昨日は溢れる涙を止める事が出来なくなり、また店の方も客が立て続けに入って来たので話しを聞くのは無理だと判断し帰る事にした。でも、聞きたい事が有るので明日も店に立つのか尋ねたが、今日1日だけだと言われた。
「久しぶりに航太君に会えたし、まだ聞きたい事有るなら明日は客として店に来ましょう。……10時頃で宜しいですか?」
「10時……大丈夫です。ありがとうございます。」
そう約束を交わして店を出たのだ。
店のドアを開ける。
コーヒーのいい香りが身体を包み込み心地よいジャズの音楽が店内へ誘う。
マスターは既に来ていてカウンターでコーヒーを飲んでいた。
「すいません、お待たせしました。」
「いいえ、私もさっき着いたばかりですから気になさらず。」
愛嬌のある顔から笑みがこぼれる。
「いらっしゃい航太君。」
2代目のマスターがやはり笑顔で迎えてくれた。
……あっ…親子だよく似ているな、目元が。
皺の感じも……
「今日はゆっくり親父の相手してやって下さい。」
「そんな……相手して貰うのは俺の方です。」
クスリと笑うとコーヒーを淹れ始める。
俺は改めて時間を作ってくれた事に礼を述べて話し始めた。
「……親父は、母が亡くなる半年前位に突然姿を現しました。其れは母が連絡をしたんでしょうか?」
「そう私は聞いてます。」
「それは……もしかして俺の為?」
深い皺の奥に見える人懐っこい瞳が穏やかな笑顔を見せ頷く。
「それ以外ないでしょうね。智美ちゃんが自分の命があと僅かだと医者に宣告され、まだ幼い航太君を1人残す事は死ぬより辛い事だと考えるでしょうし……
でなければ、一生折出さんに会う事はしなかったと思います。」
「…………。」
「折出さん……智美ちゃんに会い、命の期限を知らされた日、酔っぱらって此処へ来ました。」
親父は閉店間際の店へ転がる様に酒の匂いをさせて入って来たそうだ。
幸い店内に客はおらず、ふらつく親父の身体に手を貸し座らせようとしたが、それを振り払われて……〝何かあったのか?″と聞いたと言う。
そして……急に涙を流しながら笑い出し、吐き捨てるように言ったそうだ。
「……智美が後半年の命だって言うんだ!……やっと連絡して来たと思って会いに行ったら、死ぬ……って。
信じられますか?あの智美が此の世から居なくなってしまうなんて……」
「死ぬって……」
「……で、あいつ俺の子供産んでたんです。6歳になる男の子です。
何も言わず突然姿を消した理由が……子供だった。なんで……なんで教えてくれなかったんだ。」
そう言って床に突っ伏して泣いたそうだ。
「あの時の折出さん、本当に悔しそうで……ボロボロで見ていて辛かったですよ。」
カウンターの中からタイミング良く俺の前にコーヒーが置かれた。
それを飲み、突然親父がアパートに来た日の事を思い出していた。
アパートに見知らぬ男性が来て、この人が父親だと母から聞かされた時の驚き、戸惑いと不安……死んだと聞かされていた父親が目の前に座って、又その人も不安気に俺を見つめている。どうしていいかわからず母の背後に隠れ、心を波立たせていた。
親父が何か俺に言ったが憶えてない……おそらく、謝っていたのではないかと思う。
其れからは1日置き位にアパートに現れ、母が入院すると毎日見舞いに来た。
……そして、母が亡くなった日。
白い布を顔に掛けられた母の病室へ入って来た親父。
もの言わぬ母のベットへ魂が抜けてしまった様に近づき、布を外し声も立てず涙を流していた。
……俺はその姿を身じろぎもせず見ていた。
「……智美ちゃん亡くなる少し前、店に1人でやって来てね。」
「えっ⁈」
本当に突然だったらしい。
マスターも驚いて、体調は大丈夫なのか、1人で出歩いて平気なのかとオロオロしたそうだ。
……いつも何事にも動じず、鷹揚に構えているマスターしか知らないので想像がつかないが……〝娘の様に思っていたからね……″
と、言った。
随分痩せてしまっていたが、昔と変わらない笑い声を上げて平気だと言ったそうだ。
そして、あのスペシャルブレンドはあるかと尋ねられ、飲ませて欲しいと言い、自らコーヒーを淹れたという。
「……今、座っている席に腰を下ろしそのコーヒーを飲んで言いました。
〝…息子の航太が大きくなってこの店にもし来たら……このスペシャルブレンド出してくれますか?″ってね。
私は〝勿論だよ。このコーヒーは智美ちゃんが許可した客にしか出さないから……もし、息子さんが来たら必ず出すよ。″
と言ったら、嬉しそうにしてました。」
手にしているカップを見つめ、母も此れを飲んで欲しかったのだと……2人の深い願いが今ここで俺の中で重なる。
「……このコーヒーが好きで、こんなに美味しく思うのは……2人の息子だからかな?」
「そうですよ。」
マスターが満足そうに頷き俺を見ていた。
俺は自分で言った言葉に恥ずかしくなって、こめかみを掻いた。
「……コーヒーを飲み終えた母はどうしたんですか?」
「帰りました。
……その姿を私は忘れられません。
とても儚げで悲しい位穏やかで優しい笑顔を見せ…〝有り難う御座いました。……サヨウナラ″と、頭を下げ、そしてフワリと風に乗るみたいに軽やかな足取りで出て行って…………私が智美ちゃんを見たのは其れが最後でしたね……」
隣に座るマスターの瞳から光るものが見えた。
「……私が知っているの事は此れで全部です。」
「話しを聞かせて下さって有難う御座います。」
「私も航太君に話せて良かった。」
2人でカップに残っていたコーヒーを飲み干す。
「……お客様。コーヒーのおかわりは如何ですか?
特別に私が奢りますよ。」
カウンター越しのマスターが悪戯っぽい笑顔で聞いてきた。
「是非、いただきます。」
ミルで豆をする音とジャズのベース音が妙にマッチして、とても心地よかった。
きっと親父も母も同じ様に感じた時があったのではないかと……初めて亡くなった両親が身近に思えた。




