戻れない過去を語る
朝からハラハラと雨が降っている。
今年は空梅雨の様で、昨日まで真夏みたいに暑い日が続いていたが、今日はどんよりと厚い雲が太陽を隠していた。
兄貴の母、そして俺の義母……6歳の時から育ててくれた折出 文江の七回忌の法要。
兄貴と夢、札幌の伯母と数名の友人、そして俺。
雨音と一緒に住職の唱えるお経が静かに流れ、全員が神妙に聞いている。
一通り終わると兄貴が一礼し住職は本堂へ戻って行った。
……その姿が見えなくなると全員が少しホットした様に表情が柔らかくなった。
兄貴は法要に来てくれた母親の友人達に一人一人礼を述べて、俺はその姿をぼんやりと眺めていた。
一人、また一人と帰って行く……雨で少し霞んで見えた。
「……裕子伯母さん、今日は遠い所有難う御座いました。母も喜んでいると思います。」
「そんな、いいのよ。妹の七回忌なんだから当たり前よ。
兄さんも来たかったんだけど……盲腸で入院だなんて、間が悪いわね……謝ってたわ。」
「いえ、伯父さんにも宜しくお伝え下さい。」
「……夢ちゃん雨の中偉かったね。」
伯母は夢の頭を撫でた。
子供らしく笑顔を見せる。
あれは作り笑いだな…………
「じゃあ、これで失礼するわね。」
「少しゆっくりして行っては?」
「有難う……でも、飛行機の時間もあるし……また今度。」
そう言った伯母は少し背後で控えていた俺と目が合い、まゆを寄せた。
俺は、深く頭を下げたが、顔を上げた時には、既に伯母は背中を向けて数メートル先を歩いていた。
……仕方ない。伯母は俺の事が嫌いなのだ。
墓の前には3人だけが残り、厚い雲から落ちる雨がしっとりと傘を濡らし故人を偲んで泣いているのかの様だった。
伯母と入れ違いに誰かがこちらへ歩いてくる。スラリと背の高い女性、喪服に身を包み傘を差していて顔はわからない……墓の前で立ち止まると、顔を見せた。
「お久しぶり……やっぱり遅れてしまったわ。……ごめんなさい。」
艶やかな笑顔でよく通る声が響いた……艶やかなんて、この場に相応しくないが、彼女を形容するにはこの言葉がピッタリだった。
彼女は、坂本 あゆみ。
兄貴の元妻で夢の母親。今は、ファッション雑誌の編集長をしている。
あゆみさんは、墓前に花を供え線香をあげると暫くの間手を合わせていた。
ゆっくりと目を開けて立ち上がると兄貴の方を向いて微笑んだ。
「変わりない?」
「あぁ。相変わらずかな……忙しいのに来てくれて有難う。」
「有難うなんて……数年だけだったけど私の義母だった方ですもの当たり前よ。」
意志の強そうな少しきつめの瞳が哀しげに和らいだ。
あゆみさんが現れてからずっと兄貴の背後に隠れている夢に顔を近づけて声を掛けた。
「夢…元気だった?」
触れようとした母親の手から逃れるみたいに今度は俺の背後に隠れた。
あゆみさんは肩を落として、今日の天気みたいに暗い空の色をした瞳になった。
伸ばした手を軽く握り引っ込め、哀しそうに小首を傾げるが、気を取り直し俺の方に目を向けた。
「……航太君も久しぶりね……CM見たわ。
相変わらずかっこいいわね。今度、うちの雑誌の仕事して貰おうかな……」
「女性向けのファッション誌ですよね……俺の出る幕じゃないですよ。」
口に手を当ててクスリと笑うが、ずっと姿を見せない夢を気にしている。
見兼ねた兄貴が夢に顔を見せるように言ったが、俺の喪服の裾を握って動こうとしなかった。
「……いいのよ、帰るわ。」
「悪いな……。」
「……悪いのは私。じゃあ近い内連絡入れるから……」
あゆみさんは、もう夢に声を掛けず歩き出した。
「……ママ行っちゃうぞ、いいの夢?」
「航太うるさい!」
背中をおもいっきり叩かれた。でも……その直ぐ後に顔を少し出して母親の後ろ姿を見送ったのを見逃さなかった。
…………素直じゃないな…例え一緒に暮らしてなくとも、たった一人の母親なのに……
いつの間にこんな溝ができたのかわからないが、後悔する様な事するなよ夢。
……どんな事情があっても生きて会えるって事は羨ましい……俺には2人母がいたけど、どちらも、もう此の世にはいない……話したい事や聞きたい事が沢山あった。でも、愚かな俺はそのタイミングと選択を間違ってしまった……。
……義母さん、今、貴方に会いたい……
叶わない事だけど、伝えたい事があるんです。
風が吹いた。
空を見上げると厚い雲の隙間から、微かに太陽の光りが差してきた……いつの間にか雨が止んでいる。
◆◆◆
家に戻ると、夢は眠いと言って2階へ上がってしまった……兄貴は心配そうに階段を登っていく後ろ姿を目で追い、ドアが閉まる音が聞こえると難問の数式でも解こうとする数学者の様な表情でリビングのソファにゆっくりと腰を下ろした。
「仕方ないか……。」
そう呟いてから再び立ち上がり、冷蔵庫からビールを取り出して持ってきた。
「航太、今日は飲もう。」
いつもの穏やかな笑顔の兄貴に戻っている。
「飲み始めるには随分早い時間だけど、たまにはいいね。
とことん飲もう、兄貴。」
2人で同時にビールを胃の中に流し込んだ………。
…………美味い!
夜に飲んでも同じ筈なのに、昼間から飲むアルコールはひと味違う気がする。
……なんでだ?
ちょっとした贅沢感だろうか?
……まぁいいか。美味いに越した事はないのだから……
「……航太。」
「ん?」
「お前、初めてだよな……お袋が死んでから墓前に手合わせたの……」
「……いや、1度だけ…ある。」
意外な返事を耳にして、兄貴は口に持っていったビールを持つ手を止めて、マジマジと俺の顔を見つめている。
…………そう、1度だけある。
海外渡航中だった俺に突然兄貴から電話がはいり義母さんが倒れたと……心臓が悪く、今度発作をおこしたら命の保障はないと医者から宣告されたと、かたい声で連絡してきた。
……直ぐに戻って来いと……
俺は急いで空港に向かい、成田行きのチケットを購入し搭乗時間になるのを待っていた。
しかし、いざその時刻になった時俺はゲートをくぐる事が出来なかった。
チケットを握りしめ次々とゲートを通って行く人々をただ見つめ立ち尽くしていた。
乗る筈だった飛行機は空高く舞い上がり、それを空港の中で見送った……日本に向かって飛び立った飛行機を俺は一生忘れないだろう……そして思い出す度自分を責めるんだ。
俺は義母さんの最後を看取る事はなかった。
「……航太、いつ墓参りしたんだ……知らなかったよ。」
「亡くなって……1ヶ月たった位かな?」
「あぁ…その頃戻って来たな、そう言えば……」
「黙っててごめん。
1人で手を合わせたかったんだ。」
「そうか……」
兄貴は何も聞こうとしない……それは有難くもあり、不満でもあった。
「兄貴は……何も聞かないね。……気にならない?」
「聞いたら答えてくれるのか?」
澄んだ瞳が真っ直ぐに俺をとらえる。
飲みきったビールの缶を軽く潰して、冷蔵庫から次の2本を出して持って来た。
1本は俺の前に置いた。
「今なら……答えられるよ。」
最初のビールの残りを一気に飲み干した。
「……んん、これがタイミングってやつだろうな……話してみろ。
この親不孝者が……」
どんな事も受けとめてくれる様な穏やかな笑顔を見せてくれる兄貴……いつもそれに甘えてばかりだ。
全て話せそうな気がする……兄貴の言う様にこれがタイミングなんだろう……亮もそう思わないか?
耳を澄ませたが返事は聞こえない。ただ、静かな部屋に時計の針が進む音だけが規則正しく聞こえてくるだけだった。
俺は鼻で自分を笑った。
「……聞いてくれるか、兄貴。」
何も言わず口にした缶ビールから覗いて見える目が〝いつでも、どうぞ″と、言っている様に瞬きをした。
少し間を置いてから、1度深呼吸し覚悟を決める。
そして話し始めた。
◆◆◆
兄貴から電話が入る少し前に、友人の家で目を覚ました。昼はとうに過ぎていた。
夜、クラブでバイトをしているので、仕事のある日は何時もこんな時間に起きる。
窓を開けると風に乗って潮の香りがしてくる。
冷蔵庫を覗くと大量のビールと何時の食べ残しがわからないピザ、チーズと牛乳だけで、その中から牛乳を選び、量も少なかったのでそのまま口にして、空っぽの胃の中に流し込んだ。
……携帯電話が鳴った。
ソファのクッションをどかして画面を見ると兄貴からだった。
滅多にかけて寄越さない相手からの電話は何か気持ちを不安にさせる。
少し躊躇ってから出た。
……やっぱりだ。
いい話ではなかった……義母さんが倒れたから帰って来いと言う内容だった。
心臓の鼓動が激しくなり胸が大きく波打つ感じがした。
俺は電話を切ると荷物も適当にまとめ、世話になった友人にメッセージを残し、顔を引きつらせながら部屋を出た。
でも……結局飛行機には乗らなかった。
今から思うと……いや、その時点で選択を間違ったと気付いていた。
何故乗らなかったか……それは……
……ゲートの前で親父の通夜の日を思い出した……夫を亡くした義母さんの姿が……脳の隅にしまっていた記憶が鮮やかに蘇った。
……すすり泣く姿。
血の繋がらない愛人の子供に会いたくないだろうと思った……死を前にした時1番見たくない顔、看取って欲しくない人間、それが俺だと……
その思いが全身を支配し日本に帰るという選択をさせなかった……。
「最初の連絡から後、1度も電話でなかったな……何故帰ってこないのか訳わからなかったよ。」
昔を思い出してか目尻を少し吊り上げて恨めしそうに俺を見た。
「大体自分の夫が亡くなったんだから泣くの普通だろ……それとも…もっと深い理由があったのか?……お袋が会いたくないだろと航太に思わせる何かが。」
「あぁ。理由があった。」
……そう、普通に人の死を悲しんで流す涙ならこんなに苦しい思いはしなかった。
これから話す俺しか知らない義母さんの姿……眉間に力がはいる。
…………親父が亡くなってベットから遺体を移した後、枕の下に1枚の写真があるのに気付いて手にとった。
写っていたのは俺の実の母……6歳の時亡くなった島村 智美の若い頃の姿だった。
母は幸せそうに笑っていた……懐かしくて母を思い出すというより、何故、今更6年前にこの世去った母の写真を枕の下へ忍ばせていたのか……親父の気持ちがわからなかった。と言うより義母さんに悪くて不快にさえ感じていた……このまま見つかる前に破いて捨ててしまおうと思っていたら……突然後ろから手が伸びて、写真を取り上げられた。
迂闊だった……義母さんがいつの間にか立ってた。
母の写真を見つめる顔になんの感情も読み取れなくて……そう、まるで能面の様だった。
〝……この写真何処にあったの?″
俺は躊躇いながら答えた。
〝そうなの……これ、預かっておくわね″
笑顔で言ったが全然笑っている様には見えなかったのが背すじを寒くした。
…………兄貴は右手を額にもっていき溜息をついた。
「親父も……最後の時までやってくれるな。
……その事何で俺に話さなかった?」
「言えないよ。
愛人の写真だぜ……義母さんでも、兄貴でもない。家庭を壊しかけた女が写っていて、俺の母だ。言える訳ない。」
「……そうか……そうだな。
航太から簡単に話せる事じゃないか……」
兄貴は煙草に火を点ける。
煙が小さな渦を時折りつくりながら部屋の中を漂っている……それを見ながらあの日初めて義母さんが煙草を吸っているのを見たんだ。
テーブルの上の写真を手にして徐々に表情が崩れていった……唇を震わせ写真の母を刺す様な瞳で見つめ……そして、ライターの火で写真を燃やした。
薄暗い部屋の中央で写真を燃やす炎が、義母さんの今まで見た事のない、哀しくて冷たい顔を浮かび上がらせていた。
それをドアの隙間から覗いている俺は、怖かった……何かが崩れていく音が身体中の細胞という細胞を破壊していくみたいに感じた。
…………義母さんは俺をこの家に受け入れてくれ、兄貴と同じ様に扱い育ててくれた。
血は繋がっていなくとも母親だった……俺の存在を許してくれていると……そう思っていたし、大好きだった。でも、あの日の義母さん女で、俺の母は憎い女で、その子供は本当は目にしたくない存在なんだと思い知らされた気がした。
……自分は義母さんを苦しめている……普通に接してくれる事に甘えて、なんて勘違いをしていたんだろう……ごめんなさい……ごめんなさい……消えてしまいたかった。
そして、義母さんは肩を震わせすすり泣いた……
渇いた喉にビールを流し込む……
「そんな義母さんを見ていた俺が最後の時に会いに行けると思う?……無理だ。
情けないけど、俺を見て不快な表情で拒絶されたら……。
色んな想いがあっても、ここでの生活が自分の一部になっていたから……義母さんから最後通告を受けるのが怖かった。何より、そんな不快な気持ちで逝って欲しくなかった。」
「航太……」
煙草の火を灰皿に押しつけた。
目を伏せて、何か考えているみたいだったが、ゆっくりと俺の方に顔を向けると意外な言葉を言った。
「航太……お袋最後までお前の来るのを待ってた。」
「えっ?」
「大学中退して突然旅に出て滅多に帰らない時も何時も心配してた。
ちゃんと食べているのか、お金は大丈夫なのか、病気にかかったりはしてないだろうか……って、」
「まさか……」
「本当だ。
たまに帰って来た時にもっとそういう気持ちを伝えればいいのに、何故かそんな素振りは見せない。
俺はもどかしかったし、少し嫉妬もしたな……」
2本目のビールも飲み干してしまった兄貴は、次に日本酒の一升瓶とコップを2つ持って来て注いだ。
2階から人が動く音がした。
夢が起きたのだろうか?天井を見上げ耳をそばだてる。
…………………部屋に戻る音がして静かになった……どうやらトイレに起きただけみたいだ。
軽く息を吐いて注いでくれた日本酒を飲む……トロリとした口あたりで香りが鼻から抜けていく……いい酒なのか?
日本酒の善し悪しはわからないが、美味いと思った。
「……義母さんがそんな風に心配してたなんて知らなかった。」
「……遠慮するなと言っても航太の立場ではそうもいかないよな…でも、親父が亡くなるまではそうでもなかった筈だが……」
「……義母さんのあの姿を見てからだよ。
親父も逝ったしな……この家に居ていいのかと悩んだ。」
そう……血の繋がった親父が亡くなった今、義母さんの所に居てはいけない存在だと……でも中学生だった俺はどうしたらいいのかわからなかった。
……だから中学を卒業したら進学せず家を出て働こうと決めていた…でも、それは許されなかった。義母さんが猛反対した……それでも家を出ようと思えば出来たが行動には移せなかった。
世間体と言うくだらない周りの目。
自分のではない……義母さんのだ。
勝手に家を出たら世間……近所の口さがない人間はある事ない事噂をし、義母さんが愛人の子供を追い出したと言われるのではと……
傷付けたくなかった。
義母さんからどんな風に思われていたとしても、俺は折出 文江という育ての母が好きだった。だから、悶々と悩みながらも高校まではちゃんと卒業をした。
「お袋、世間体で航太を高校、大学と進学させた訳じゃないと思うぞ……多分…多分だけどプライドなんじゃないか?」
「プライド……?」
「そうだ。航太を引き取り母親になると決めた時、責任を持って育てる、自分の子供…つまり俺だな……同じ様に育てると自分に誓い、きっと航太の母親にも誓ったんじゃないだろうか……」
「……じゃあ、あの写真は義母さんのプライドを酷く傷付けた筈だ。」
俺は、親父のした事に腹の中がふつふつと煮えたぎる想いが改めて湧き上がった。
「……写真の事を言っていたのか今では確かめようもないが、お袋が葬儀の後独り言みたいに言っていた。
……〝酷い事をした……まだ女の部分があったのね″ってな……
今日写真の話しを聞いて、ふとあの言葉はその事だったんじゃないかと思ったよ。
お袋……後悔してた。」
……義母さん、貴方は何処まで深い人なんだ。後悔なんてしなくて良いのに、親父が悪くて、母が酷い女で、俺が憎むべき人間なのにどうして許して、愛せるんだ。
貴方を想うと浅はかで愚かな自分が恥ずかしい。
「兄貴……結局俺が臆病で、聞く事を恐れ避けつずけてしまった結果が自分自身を苦しめていたんだな。
素直だったら……そうすれば、義母さんを看取る事も出来たのに……」
「それは航太だけじゃない、お袋もそうだったと思う。
お互い大切だったから、踏み込めなかった……
その部分は2人共遠慮…があったという事かな……?」
トントンと階段を降りてくる足音、軽快ではないテンポの不規則な音。
リビングのドアがゆっくりと開き、目を擦りながら夢が立っていた。
「……お腹すいた。」
一体どんな寝方をしていたのか髪の毛があちこち飛び跳ね凄い寝癖だ。
「夢……髪の毛がダンスしてるよ。」
笑いながら言った俺を不思議そうに見てから頭に手をやり、口をへの字にしてバタバタと洗面所へ向かった。




