『不幸な男の幸福論』外伝
――生まれた場所が違っただけなのに。
諸君。
人は、いつから人生の不公平を知るのだろうか。
努力した者が報われるとは限らない。
優しい者が優しく扱われるとも限らない。
そして、生まれた瞬間から、誰かが持っているものを自分は持っていないこともある。
これは、そんな男の物語である。
物語の舞台は、深夜の廊下。
すぐ隣の部屋では、愛する女性が眠っている。
男はその部屋の前から少し離れた場所に座り、一人で泣いていた。
声を出せば彼女を起こしてしまう。
だから、声を押し殺す。
誰にも聞かれないように。
誰にも気づかれないように。
彼は、これまで何度も苦しい思いをしてきた。
それでも、こんなふうに泣くことはなかった。
しかし今、彼は泣いている。
なぜだろうか。
彼女を愛しているからか。
彼女を信じられなくなったからか。
それとも、自分が歩んできた人生と、彼女が歩んできた人生の違いを、どうしても受け入れられなくなったからだろうか。
彼は考え始めた。
自分と彼女は、そもそも同じ場所から人生を始めたのだろうか、と。
### 第一節 生まれたときから違っていたもの
彼女の家は、非常に裕福だった。
お金に困ることもなく、家族に愛され、周囲から大切にされてきた。
彼女の親は、経済的にも恵まれており、彼女のことを心から大切にしているように見えた。
もちろん、お金があるからといって、人生の悩みがなくなるわけではない。
裕福な家庭にも、きっとその家庭なりの苦労があるのだろう。
それでも男には、彼女が眩しく見えた。
何かあれば頼れる親がいる。
帰る場所がある。
自分を愛してくれる人がいる。
それは、彼にとって当たり前ではなかったものだ。
彼は思った。
もし自分も、そんな家庭に生まれていたら。
もし自分にも、幼い頃から味方になってくれる人がいたら。
もし自分が、誰かに守られることを疑わずに育っていたら。
今の自分は、もう少し違う人間になっていたのだろうか。
彼女の親を恨みたいわけではない。
彼女が幸せに育ったことを責めたいわけでもない。
むしろ、彼女にはその幸せを大切にしてほしいと思っている。
それなのに、どうしても比べてしまう。
そして、比べるたびに、彼の心には一つの感情が浮かんでくる。
――どうして、自分だけ。
### 第二節 母親を恨みたくなる夜
男は片親で育った。
今の母親は、彼に愛情を注いでくれている。
それは彼自身も分かっている。
だからこそ、母親を悪者にしたいわけではない。
しかし、幼い頃の彼にとって、世界は決して優しい場所ではなかった。
彼が生まれる前、母親はまだ十八歳だった。
相手は、定職もなく、ギャンブルにのめり込んでいた男性。
母親はその男性と結婚し、彼を授かった。
いわゆる、できちゃった結婚である。
そして、男が生まれる前に、家庭は大きく崩れた。
母親の実家には、親が長い時間をかけて貯めていた五千万円ものお金があったという。
しかし、そのお金を父親に持ち去られ、母親と父親は実家を追い出されることになった。
残されたのは、生活の苦しさだった。
生まれてくる子どもに罪はない。
それでも、男は生まれる前から、すでに貧しさの中にいた。
やがて母親は、彼を育てるために必死に生活を続けた。
そして、彼が不憫だからと、祖母の家に母親と彼が受け入れてもらえることになった。
ようやく、落ち着ける場所が見つかった。
そう思ったのかもしれない。
しかし、そこにも彼の味方はいなかった。
### 第三節 家の中にいた敵
祖母の家には、母親の弟がいた。
働かず、家に居座っていた彼の叔父は、幼い男にとって、安心できる大人ではなかった。
保育園の頃から、小学五年生になるまで。
男は、毎日のように叔父から暴力を受けていた。
幼い子どもにとって、家とは本来、守られる場所であるはずだ。
外で嫌なことがあっても、家に帰れば安心できる。
怖いことがあっても、親や大人が守ってくれる。
そんな場所であるはずだった。
しかし、彼にとって家はそうではなかった。
逃げ場であるはずの場所に、恐怖があった。
誰かに言えば助けてもらえると思ったこともあっただろう。
しかし、彼の話によれば、誰に伝えても助けてもらえなかった。
誰も止めてくれなかった。
誰も、彼の代わりに立ち向かってはくれなかった。
彼はまだ小さかった。
自分を守る力も、環境を変える力も、助けを求めるための十分な手段も持っていなかった。
ただ、そこにいるしかなかった。
そして、いつしか彼は、苦しさを誰かに見せないことを覚えていった。
泣いても何も変わらない。
訴えても誰も助けてくれない。
そうやって、彼は自分の感情をしまい込んでいったのかもしれない。
周囲の人間からも嫌われていたと、彼は感じていた。
家の中にも味方はいない。
外にも味方はいない。
幼い彼にとって、世界はあまりにも広く、そして冷たかった。
### 第四節 それでも泣かなかった男
諸君。
ここで、一つ考えてほしい。
この男は、幼い頃から何度も苦しんできた。
自分ではどうにもできない環境に置かれ、助けを求めても届かなかった。
それでも、彼は泣かなかったという。
少なくとも、人前では。
どれほど辛くても、どれほど傷ついても、誰かの前で涙を見せることはなかった。
それは、強かったからなのだろうか。
いや、もしかすると、泣くことに意味を見いだせなくなっていたのかもしれない。
泣いても助けてもらえなかった子どもが、いつしか泣かなくなる。
それは強さというより、悲しいほど早く身につけてしまった諦めだったのかもしれない。
そして、年月が流れた。
男は成長した。
自分で働き、お金を貯め、学校に通うための道を探し、将来の夢を持った。
美容師になりたい。
自分の力で生きていきたい。
いつか誰かを幸せにできる人間になりたい。
そう願っていた。
そして、愛する女性と出会った。
彼は彼女のそばにいるために、住み慣れた場所を離れた。
今度こそ、誰かと幸せになれるかもしれない。
今度こそ、自分にも安心できる居場所ができるかもしれない。
そう思ったのだろう。
しかし、現実は簡単ではなかった。
彼女を愛しているのに、信じることが難しい。
彼女に大切にされたいのに、自分の不安をうまく伝えられない。
彼女の幸せを願っているのに、自分の人生が少しずつ失われていくように感じる。
そして、とうとう彼は泣いた。
幼い頃、誰にも助けてもらえなかったときでさえ、泣かなかった男が。
自分の人生で初めて、愛する女性を信じられなくなったことに涙を流した。
それなのに、返ってきた言葉は、
「なんでお前が泣いてんの?」
だった。
彼は、その言葉を忘れられない。
なぜなら、彼にとって涙を見せるということは、簡単なことではなかったからだ。
誰にも見せなかった弱さを、初めて見せた相手だった。
それでも、その涙は理解されなかった。
### 終節 彼が欲しかったもの
諸君。
この男は、彼女の家が裕福であることを責めたいのではない。
彼女が親に愛されて育ったことを、否定したいのでもない。
むしろ、彼女にはこれからも幸せでいてほしいと思っている。
ただ、時々考えてしまうのだ。
自分にも、幼い頃から味方がいたなら。
自分にも、帰れば安心できる家があったなら。
自分にも、何も証明しなくても愛してくれる人がいたなら。
今の自分は、こんなにも人を疑う人間にならずに済んだのだろうか。
彼女の親を見ていると、羨ましくなる。
彼女を大切にしている親を見ていると、自分の母親まで恨みたくなる夜がある。
けれど、母親もまた、若くして厳しい人生を歩んできた一人なのだ。
母親だけを責めれば済む話ではない。
母親が今、自分に愛情を注いでくれていることも知っている。
だから、彼は誰かを恨み切ることさえできない。
恨みたい相手と、恨みたくない相手。
愛している人と、信じられなくなった人。
羨ましい人生と、自分が歩んできた人生。
そのすべてが、彼の中で絡まり合っていた。
そして今、彼は廊下で一人、涙を流している。
彼が本当に欲しかったものは、五千万円でも、豪邸でも、裕福な暮らしでもなかったのかもしれない。
幼い頃に欲しかったのは、たった一つ。
「大丈夫。君は悪くないよ」
そう言ってくれる人だったのかもしれない。
何もできなくても。
何かを失敗しても。
誰かに嫌われても。
それでも、自分の味方でいてくれる人。
彼は、そんな存在をずっと探していたのだろう。
だからこそ、愛する女性にそれを求めてしまったのかもしれない。
しかし、彼女一人に、幼い頃からのすべての孤独を埋めてもらうことはできない。
彼女は彼の過去を作った人ではない。
そして、彼もまた、過去に傷つけられたことを理由に、自分の人生を犠牲にし続ける必要はない。
愛することと、自分を失うことは違うのだから。
さて、諸君。
本編では、男が幸福を手放さないために苦悩する姿を描いた。
だが、この外伝で明らかになったことがある。
彼は、幸福を手に入れる方法を知らなかったのではない。
そもそも、幸福を安心して手にしていていいのだと、教えてもらう機会が少なかったのかもしれない。
それでも彼は、誰かを愛そうとした。
誰かを幸せにしようとした。
そして、今もなお、自分自身の幸せを探している。
廊下に座る男は、まだ泣いている。
けれど、彼の人生は、ここで終わるわけではない。
なぜなら、彼にはまだ、自分自身を幸せにするという、最後の冒険が残されているのだから。




