再起動
雨が上がった翌日の夕方。悠馬は知里を大学近くの公園に呼び出していた。
オレンジ色に染まる夕暮れの中、ベンチに座る知里の隣に腰を下ろす。吹き抜ける風が、少し冷たかった。
「悠馬くん、お話って……なぁに?」
知里は静かに尋ねた。いつもの優しい笑顔を浮かべているが、その瞳はすべてを察しているかのように静かだった。
「知里……本当にごめん」
悠馬は頭を深々と下げた。膝の上で握りしめた拳が震える。
「俺、知里にずっと嘘をついてた。完璧な彼女でいてくれる知里に甘えて、優しさに逃げて……一番大切なことを誤魔化してた。俺、好きな人ができた」
言葉にするたび、知里を傷つけている刃が自分にも突き刺さる。
「葉山さんのことが……好きなんだ。知里を傷つけるって分かってても、どうしても彼女のことが頭から離れない。俺たちの関係を、これ以上続けることはできない」
静寂が二人を包んだ。遠くで遊ぶ子供たちの声だけが虚しく響いている。
知里はゆっくりと息を吐き出し、空を見上げた。
「……うん。知ってたよ」
「え……」
「悠馬くんが私といる時、どこか遠くを見てること。スマホを気にしてること。私に向けられる顔が『好き』じゃなくて『申し訳なさ』になってたこと……全部、気づいてた」
知里の目から、一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。けれど、彼女は最後まで泣き叫ぶことも、悠馬を責めることもしなかった。
「私ね、悠馬くんの『正解』になりたかったの。悠馬くんを幸せにできるのは私だって、思いたかった。でも……悠馬くんを本当に変えたのは、私じゃなくて彼女だったんだね」
知里はバッグからハンカチを取り出し、そっと目元を拭うと、悠馬に向き合って優しく微笑んだ。
「正解を選ぼうとしてくれて、ありがとう。でもね悠馬くん、恋愛はテストじゃないよ。間違いでもなんでも、悠馬くんが本当に愛おしいと思う方を選んで」
「知里……っ」
「バイバイ、悠馬くん。私を好きでいてくれて、ありがとう」
知里は立ち上がり、一度も振り返ることなく歩き去った。その背中を見送りながら、悠馬は溢れ出る涙を止めることができなかった。最高で、最高の優しさを持った彼女を傷つけた罪を、一生背負っていこうと心に誓いながら。
数日後、悠馬は大学の講義棟の裏手にあるベンチにいた。
「悠馬」
声をかけてきたのは星太だった。星太は缶コーヒーを一本、悠馬の隣に無造作に置いた。
「……星太。俺、知里と別れたよ」
「知ってる。知里ちゃんから聞いてた」
星太は深くため息をつき、空を見上げた。
「お前は本当に最悪な奴だよ。あんな良い子を振るなんてな」
「……うん。分かってる」
「でも……嘘ついたまま知里ちゃんと一緒にいるよりは、ずっとマシだ。自分の不誠実さから逃げずに、ちゃんと向き合ったのは……まあ、認めてやる」
星太は缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲んだ。
「行くんだろ、あいつのところ」
「……いいのかな」
「知里ちゃんを傷つけてまで選んだんだ。中途半端な気持ちで迷ってたら、それこそ知里ちゃんにも、その葉山って奴にも失礼だぞ。行ってこい、馬鹿野郎」
星太が悠馬の背中を、バシッと力強く叩いた。痛みに顔を顰めながらも、悠馬の心から迷いは消えていた。
「……ありがとう、星太」
夕暮れの演習室。
扉を開けると、オレンジ色の斜光が差し込む部屋の隅で、里緒が一人パソコンに向かっていた。
カチカチと規則的なキーボードの音が響いている。悠馬の足音に気づくと、里緒は弾かれたように顔を上げた。
「狭川……さん……」
悠馬はまっすぐに里緒のもとへ歩み寄り、彼女の前に立った。
「葉山さん。俺、彼女と別れてきた」
里緒の大きな瞳が揺れた。息を飲んで悠馬を見つめている。
「俺の人生は、ずっと『間違いのないもの』にしようとしてた。でも、君と出会って、全部壊れたんだ。君の笑顔を見るだけで、世界がまったく違うものに見えた。……俺は、君と一緒にいたい。君というエラーを、俺の人生で一番大切なものにしたい」
里緒の胸が大きく上下する。ボロボロと大きな涙がその瞳から溢れ出し、彼女は不器用に、けれど力強く、悠馬の手をぎゅっと握り返した。
「……計算も……ロジックも……届かないくらい、狭川さんのことが、好きです……っ」
「……里緒」
初めて名前で呼ばれ、里緒が息をのむ。悠馬はそのまま彼女の華奢な腰を引き寄せ、逃がさないように深く抱きしめた。
「あ……っ」
里緒の甘い香りと熱い体温が、ダイレクトに伝わってくる。悠馬はそっと身を離すと、涙で濡れた里緒の頬を両手で優しく包み込んだ。
「顔、見せて」
親指で涙を拭うと、里緒の白い頬が瞬く間に朱に染まっていく。戸惑うように揺れる瞳、少しだけ開いた柔らかそうな唇。そのすべてが愛おしくて、悠馬は我慢できずにゆっくりと顔を近づけた。
「……ん」
重ねられた唇から、甘い吐息がこぼれる。
一瞬目を見開いた里緒だったが、すぐに力を抜き、キュッと目をつむって悠馬のシャツの胸元を小さく掴んだ。
はじめは触れるだけの静かなキスだった。けれど、握りしめられた指先の震えと、唇から伝わる里緒の狂おしいほどの熱量に、悠馬の胸の奥で何かが爆発した。
もう一度、今度は逃がさないように角度を変えて、深く唇を重ねる。
「っ……ふ、ぁ……」
すき間から漏れた甘い声が、静かな演習室に小さく響く。悠馬は包み込んでいた手で里緒の後頭部を支え、そのまま何度も、慈しむようにキスを繰り返した。熱く、甘く、互いの存在を確かめ合うようなキスに、里緒は身体の力を奪われたように悠馬にしがみついてくる。
ゆっくりと唇を離すと、二人の間にうっすらと熱い余韻が残った。
里緒は完全に顔を真っ赤にし、上気した息を乱しながら悠馬を見上げている。潤んだ瞳はどこか茫然としていて、熱っぽく揺れていた。
「……はぁ、っ……狭川、さん……」
「……悠馬って、呼んで」
「っ……ゆ、ぅま……さん……」
消えそうな声で名前を呼ばれ、胸の奥が甘く痺れる。悠馬は愛おしさに耐えかねて、真っ赤になった里緒の耳元に優しく唇を落とした。
「もう絶対、離さないから」
「……はい。私のこと……ずっと、上書き保存してください……」
「え?」
「狭川さんのことだけで……私の中を、いっぱいにしてください……っ」
恥ずかしさに耐えかねたように、里緒は悠馬の胸元にぽすんと額を押し付けてぎゅっとしがみついてくる。その不器用で、けれど溢れんばかりの愛おしい言葉に、悠馬は思わず優しく吹き出した。
「……了解。他の何にも消せないくらい、上書きし続けるよ」
夕闇が二人を包み込んでいく中、悠馬はもう一度里緒の顎をすくい上げ、重なる唇に甘い熱を注ぎ込んだ。
完璧な正解なんて、もういらない。
愛おしいエラーに満ちたこの世界で、二人はどこまでも深く、解けない結び目を結んでいく。




