エラーの露呈
季節は梅雨に入り、連日のように湿った雨がキャンパスを濡らしていた。
悠馬と知里の間の空気は、表面的には何も変わっていないように見えた。毎週のデート、毎晩のメッセージ。けれど、二人を包む空気は確実に薄く、冷たくなっていた。
「悠馬くん、来月の私の誕生日のことなんだけど……」
キャンパスのベンチで、知里が控えめに切り出した。
「あ、うん。どこか行きたいところある? 予約しておくよ」
「ううん、どこでもいいの。ただ……悠馬くんと、ゆっくり話ができたらいいなって」
知里は手元の温かい紅茶のカップを見つめたまま、静かに言った。その側面をなぞる指先が、かすかに震えている。
「最近の悠馬くん、遠くにいるみたい。目の前にいるのに、手が届かない場所にいる感じがするの」
「知里、それは――」
「ううん、責めてるんじゃないの。ただ……私、悠馬くんの『一番』でいられてるのかなって、時々怖くなるだけ」
知里のどこまでも穏やかで悲しげな瞳が、悠馬を射抜く。
責め立てられた方が、いっそ怒られた方が楽だった。知里の圧倒的な優しさは、悠馬の不誠実さを何よりも痛烈に突きつけてくる。言葉を詰まらせる悠馬に、知里はいつもの優しい笑顔を無理やり作ってみせた。
「ごめんね、変なこと言って。講義、遅れちゃうね。また連絡するね」
背中を向けて歩き出す知里を、悠馬は呼び止めることができなかった。
その日の夕方、激しい雷雨が街を襲った。
悠馬が帰宅の途につこうとした時、スマートフォンが振動した。画面には、めったに連絡を寄越さない里緒の名前が表示されていた。
『狭川さん、すみません。大学の部室のサーバーが……止まってしまって。復旧させようとしたのですが、エラーが消えなくて……』
メッセージの文面からも、彼女のパニック状態が伝わってきた。里緒にとって、自分の組んだシステムは命の次に大切なものだ。
『今、どこにいるの?』
『講義棟の裏の、古い資料室です。落雷で停電して……暗くて、動けなくて……』
悠馬の脳裏に、雷の音に怯え、暗闇の中で一人震える里緒の姿が浮かんだ。
「行かなきゃ」
胸の奥で、理性のタガが外れる音がした。
知里への罪悪感や星太の忠告、すべてが激しい雨音の中に吹き飛んでいく。悠馬は傘もささずに雨の中へ飛び出し、濡れるのも構わずキャンパスへと走り出した。
暗闇に包まれた資料室の扉を開けると、非常灯のわずかな光の中に、膝を抱えて丸まっている里緒が見えた。
「葉山さん!」
「……あ……狭川、さん……?」
顔を上げた里緒の頬には、涙の跡がついていた。悠馬が駆け寄り、濡れた自分の上着を脱いで彼女の肩にかけると、里緒はすがりつくように悠馬の服の袖を強く握りしめた。
「こわ、かった……っ。データも消えちゃいそうで、暗くて……っ」
「大丈夫、大丈夫だから。俺がいるよ」
震える彼女の体を、思わず強く抱きしめていた。
雨の匂いと、里緒の儚い体温が伝わってくる。抱きしめた瞬間、悠馬の中で長らく抑え込んでいた感情が決壊した。
「……ずるいよ、葉山さん」
「え……?」
「俺には、ちゃんと選ばなきゃいけない『正解』があったんだ。誰も傷つけない、正しい道があったのに……君と出会ってから、全部狂っちゃったんだよ」
悠馬の声が震える。知里への申し訳なさと、自分の不誠実さへの自己嫌悪、そして目の前の少女を愛おしく思う衝動が混ざり合い、胸が張り裂けそうだった。
「君というエラーのせいで、俺の人生はもう元に戻らない」
里緒は驚いたように目を見開いたが、やがてその大きな瞳からボロボロと涙をこぼしながら、悠馬の背中に細い腕をまわした。
「……私にとっても、狭川さんは……バグです」
「え……」
「私の世界には、コードと数字しかなかったのに……狭川さんが入ってきてから、胸が痛くて、何も手につかなくて……世界が、ぐちゃぐちゃになりました……」
小さな手が、悠馬のシャツを強く握りしめる。
「でも……修正したくないです。このエラーのまま……狭川さんと、一緒にいたいです」
雨音が激しく屋根を叩く中、二人の鼓動だけが重なり合っていた。
もう、誰も偽ることはできない。悠馬は自分の引き返せない選択を、強く噛み締めていた。




