ノイズと共鳴
あの日を境に、悠馬の頭から葉山里緒の存在が離れなくなった。
大学の演習室。悠馬は教授からの頼みで、学部内のシステム開発プロジェクトの補助に入ることになった。そしてそのチームには、教授が「特別枠」として呼び寄せた里緒の姿もあった。
「葉山さん、この部分の仕様なんだけど……」
周囲の学生たちが関わりづらそうにする中、悠馬は積極的に里緒へ声をかけた。里緒は相変わらず人と目を合わせるのが苦手で、悠馬と話すときも俯きがちで、声は蚊の鳴くように小さかった。
「……あ、そこは……ロジックが、無駄……です。こう、書き直せば……速くなります」
細く綺麗な指がキーボードの上を滑る。彼女がコードを打ち込む瞬間、その瞳には迷いがなく、神聖なまでの輝きを宿していた。
世間体や周囲の評価ばかりを気にして生きている自分とは違う。里緒は不器用で、傷つきやすく、生き生きとした自分の世界をただまっすぐに生きている。その圧倒的な純粋さに、悠馬は強烈に惹きつけられていった。
「葉山さんって、本当にすごいね」
「……え?」
「自分の『好き』にすごく素直だ。俺、そういうの羨ましいよ」
悠馬が笑うと、里緒はパチパチと瞬きをし、真っ赤になって俯いた。
「……狭川さん、だけです。私のコード、ちゃんと見てくれたの……」
小さな呟きだったが、悠馬の胸を鋭く締め付けた。
「悠馬、お前最近、心ここに在らずだな」
放課後、大学近くの居酒屋で、星太がビールジョッキを置きながら言った。
「そうか? 普通だと思うけど」
「嘘つけ。知里ちゃんと話してるときも、どっか上の空だろ。知里ちゃんは笑って流してるけど、俺にはわかるぞ」
鋭い視線に、悠馬は思わずグラスを握る手に力を込めた。親友の目をごまかすことはできなかった。
「……なあ、星太。もし、正しい選択と、どうしても惹かれる選択があったら、お前ならどうする?」
「は? なんだよ急に」
「……なんでもない」
「なんでもなくないだろ」星太の声から冗談の色が消えた。
「お前、まさか別の女ができたのか? 知里ちゃんっていう、誰が見ても完璧な彼女がいながら?」
「違う! 浮気とか、そういうんじゃないんだ」
「じゃあなんだよ。知里ちゃんがどれだけお前を大事にしてるか、お前が一番知ってるはずだろ。優しさに甘えてんじゃねえぞ。知里ちゃんを傷つけるような真似したら、俺はお前を許さねえからな」
星太の言葉は、正論だった。ぐうの音も出ないほどの「正解」だった。
知里は優しく、自分を愛してくれている。知里を裏切るなんて最低だ。頭では分かっているのに、胸の奥で渦巻く「ノイズ」を消し去ることができなかった。
週末、悠馬は知里と約束していた話題のカフェにいた。
木漏れ日が差し込む店内、運ばれてきた色鮮やかなパフェ。知里は嬉しそうにスマートフォンで写真を撮り、悠馬に微笑みかけた。
「すごく綺麗! 悠馬くん、一口食べる?」
「あ、うん。いただくよ」
知里のスプーンを受け取り、口に運ぶ。甘い味が広がる。
いつもの、平和で満たされた時間。のはずだった。
(葉山さんは今、何をしてるんだろう)
ふと、そんな思考が頭をよぎった。昼食を食べるのも忘れてコードを打ち込んでいた彼女。一人で不器用に佇む彼女の姿が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
「……悠馬くん?」
声にハッとして顔を上げると、知里が心配そうに自分を見つめていた。
「顔色、あんまりよくないよ? やっぱり最近、疲れが出てるんじゃない?」
「え……あ、ごめん。大丈夫だよ。ちょっとぼーっとしてただけ」
「ううん、無理しないで。今日は早めに帰ろうか? 悠馬くんが元気なのが一番だから」
知里はどこまでも優しかった。自分の体調を気遣い、微笑んで手をつないでくる。
その手が、あまりにもあたたかくて、そしてあまりにも重かった。
知里の優しさに触れるたび、悠馬の胸には黒い罪悪感が積み重なっていく。
「ごめんね、知里」
「ううん、なんで謝るの? 悠馬くんは優しいね」
知里の笑顔の裏に、かすかな揺らぎが見えた気がした。知里は気づいているのかもしれない。自分が目の前にいながら、全く別の誰かを見ていることに。
整えられた「正解の世界」に、修復不能な亀裂が入り始めていた。




