正解の世界
狭川悠馬の人生は、いつだって「最適解」で構成されていた。
予定通りの時刻に鳴るアラームで目を覚まし、整えられたシャツに袖を通す。大学のキャンパスへ向かう道すがら、スマートフォンの画面に届くメッセージ。
『悠馬くん、おはよう!今日の昼、講義室空いてたら一緒に食べようね』
彼女である真部知里からのメッセージだった。悠馬はすぐに『おはよう。2号館の空き教室で待ってるよ』と返し、小さなスタンプを添える。
知里は、誰もが羨むような理想の彼女だった。気配りができて、いつも穏やかな笑顔を絶やさず、悠馬の些細な体調の変化や気分の陰りにもすぐに気づいてくれる。知里と過ごす時間はどこまでも心地よく、穏やかで、波風ひとつ立たない。
「悠馬、また朝からニヤついてんのか?」
後ろから肩を叩かれ、振り向くと親友の豊海星太が缶コーヒーを片手に呆れ顔で立っていた。
「ニヤついてなんかいないよ。知里から連絡が来ただけだ」
「はいはい、ごちそうさま。本当お前らは安定してんな。そろそろ将来の話とかしてんの?」
「まだ大学三年だぞ。早すぎるだろ」
「いやいや、お前ら見てると熟年夫婦感あるからさ」
星太は笑いながら悠馬の隣を歩く。星太の言う通り、自分と知里の関係には一切の「間違い」が存在しなかった。周囲からの祝福、心地よい距離感、互いへの信頼。悠馬は自分の人生の選択に何ひとつ疑問を持っていなかったし、これからもこの「正解」が続いていくのだと信じて疑わなかった。
その日の昼下がり、知里と手作りの弁当を広げ、たわいもない会話を笑い合う。
「悠馬くん、最近忙しそうだけど、ちゃんと寝れてる?」
「ん、大丈夫。ちょっとレポートが重なってるだけ」
「無理しないでね。あ、今週末のデート、行きたいカフェがあるんだけどいいかな?」
「もちろん。知里の行きたいところに行こう」
知里の微笑みは、眩しいくらいに綺麗だった。
完璧な日常。満点のアラーム。何も狂っていないはずだった。
あの日、あの講義室に入るまでは。
それは、午後からのプログラミング演習の講義でのことだった。
教授の遅刻により、教室にはどこか弛緩した空気が漂っていた。悠馬がノートパソコンを開き、課題のコードを打ち込んでいると、後方の席で不意に大きな音が響いた。
ガタガタ、と机が揺れ、金属製の筆箱が床に散らばる。
「あ……っ」
かすれた小さな声。教室中の視線が一斉にその人物に集まった。
そこにいたのは、胸元まで伸びたボサボサの髪をひとつに束ね、大きめのパーカーに身を包んだ女子学生――葉山里緒だった。
周囲の視線に怯えるように肩をすくめ、里緒は慌てて床にしゃがみ込み、散らばったペンを拾おうとする。だが、焦れば焦るほど指先が滑り、ノートや参考書まで床にぶちまけてしまった。
周りの学生たちは「またあいつか」「関わらないでおこう」とでも言いたげに、気まずそうに視線を外していく。里緒は人付き合いが極端に不器用で、いつも一人でいて、周囲からは少し浮いた存在として知られていた。
悠馬は一瞬ためらったものの、席を立って彼女のもとへ歩み寄った。
「大丈夫? 手伝うよ」
「……あ、えっと……すみ、ません……」
里緒はビクッと体を跳ねさせ、消え入るような声で呟いた。悠馬と目を合わせようともせず、視線をあちこちに泳がせている。不器用で、危うくて、見ていてどこかハラハラさせる雰囲気を纏っていた。
拾い集めた参考書を渡そうとしたとき、悠馬の視線が、彼女の開いたノートパソコンの画面に留まった。
そこに映し出されていたのは、講義で出された課題など遥かに凌駕する、見たこともないほど複雑で、けれど信じられないほど洗練されたプログラムのコードだった。
「……これ、君が書いたの?」
思わず尋ねると、里緒はビクッと肩を揺らし、慌てて画面を閉じようとした。
「あ、あの……違っ、たくて……間違えて、遊んでただけで……」
「違う、責めてるんじゃない。すごいよこれ。こんな無駄のない美しいコード、見たことない」
悠馬の言葉に、里緒の動きが止まった。
ゆっくりと持ち上げられた彼女の顔。長い前髪の隙間から覗く大きな瞳が、初めてまっすぐに悠馬を捉えた。
その瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいて、どこか底知れない深みを持っていた。
「……きれい、ですか?」
「え?」
「このコード……きれいですか?」
消えそうな声だったが、そこには確固たる自負と、純粋な問いが含まれていた。
「うん。すごく美しいと思う」
悠馬がそう答えた瞬間、里緒の唇がほんの少しだけ、柔らかく綻んだ。
それは花が開くような、あまりにも不器用で、けれど息をのむほど綺麗な笑顔だった。
ドクン、と胸の奥で小さな音が跳ねた。
今まで一度も感じたことのない、胸を突き刺すような衝動。
完璧に整えられていた悠馬の世界に、小さな、けれど決して消せない「エラー」が侵入した瞬間だった。




