不可逆な体温
演習室で思いを確かめ合ってから、数週間が過ぎた。
大学の夏休みが始まり、キャンパスから人の姿が消えていく。その日の夜、二人は課題の締め切りに追われた勢いそのままに、悠馬の部屋へと向かっていた。
「……すみません。私、人の部屋に行くの……初めてで……」
玄関をくぐった里緒は、小さく縮こまりながら部屋の中を見回していた。いつも通り大きめのパーカーに身を包んでいるが、その肩は緊張でかすかに震えている。
「そんなに緊張しなくていいよ。……冷たいお茶でも飲む?」
「あ、はい……いただきます」
悠馬がコップを手渡すと、里緒の手が触れた。指先は氷のように冷たくなっている。悠馬はその手をごく自然に包み込み、自分の胸元へと引き寄せた。
「手、冷たいね」
「……っ、狭川さ……悠馬さんの手が、温かいだけです……」
照れたように目を伏せる里緒の姿に、胸の奥が熱くなる。
今夜、この部屋で二人きり。静まり返った室内には、エアコンの微かな動作音と、互いの呼吸の音だけが響いていた。
「……里緒」
名前を呼んで引き寄せると、里緒は抵抗することなく悠馬の腕の中に収まった。少しだけぎこちなく、けれどしっかりと悠馬の背中に細い腕をまわしてくる。
「私……ずっと、誰かと深く関わるのが怖かったんです。エラーが出るのが怖くて、自分の世界に鍵をかけてた……」
悠馬の胸に額を押し付けながら、里緒がぽつりと呟く。
「でも、悠馬さんに触れられると……胸が熱くて、解けていっちゃいそうで……怖いくらい、気持ちいいです……」
「俺もだよ。里緒のこと、もう離せる気がしない」
悠馬は里緒の細い顎をそっと持ち上げ、唇を重ねた。演習室のときよりも深く、ゆっくりと熱を確かめ合うようなキス。吐息が交ざり合い、里緒の口から「ん……っ」と甘い漏れ声が零れる。
繰り返されるキスに、里緒の体がゆっくりと力を失っていく。悠馬はそのまま彼女を抱きかかえ、静かにベッドへと押し倒した。
暗がりの中、部屋の外を走り抜ける車のライトが、一瞬だけ天井を照らした。
ベッドの上に広がる里緒の黒髪。濡れた瞳で自分を見上げる彼女の姿は、息をのむほど妖艶で、壊れてしまいそうなほど儚かった。
悠馬の手が、里緒のパーカーの裾に触れる。
「……嫌なら、言ってね」
そう優しく囁くと、里緒は首を小さく横に振った。
「……嫌じゃないです。悠馬さんになら……全部、壊されてもいい……っ」
パーカーをゆっくりと脱がせると、露わになった華奢な肩と白い肌が、室内のほの暗い光の中で浮かび上がった。悠馬の手指が肌をなぞるたび、里緒はびくっと身体を跳ねさせ、甘い熱を帯びた吐息を漏らす。
「っ……あ、悠馬、さん……熱い……っ」
「里緒、すごく綺麗だ」
首筋から鎖骨へ、そして熱を帯びた肌へと唇を落としていく。触れられるたびに里緒の手が悠馬の髪に絡みつき、背中を強く抱きしめてきた。不器用なほど必死に、自分を求めてくれる彼女の熱量が、悠馬の理性を溶かしていく。
計算もロジックも存在しない、ただ互いの体温と鼓動だけが響き合う世界。
二人は互いの境界線を失うように、夜の深い闇の中へとお互いを貪り合っていった。
窓の外がうっすらと白み始めた頃。
乱れたシーツの上で、里緒は悠馬の胸に顔をうずめて小さな寝息を立てていた。汗ばんだ額に張り付いた髪を優しく払ってやると、里緒は心地よさそうに身を寄せ直す。
その白い肩には、消えない赤みがうっすらと残っていた。
もう、後戻りはできない。完璧で安全だった昔の自分には、二度と戻れない。
けれど、腕の中で愛おしそうに呼吸を重ねる彼女の存在が、何よりも確かな「今の自分」を証明していた。
悠馬はそっと里緒の額に唇を寄せ、静かに目を閉じた。




