第三章:灰色の極楽
マシロの遺した秘密の作業場を後にした時、タタラの胸元には、彼の生きた証である手帳が重く鎮座していた。たかだか数百グラムの紙の束が、一キロメートルの岩盤よりも重く感じられるのは、そこに記された「真実」という名の毒が、タタラの血管に回り始めたからだろう。
隣を歩くスバルは、暗い通路の中でも迷いがない。彼女の瞳は、時折、何もない空間を凝視しては、微かな青い燐光を放つ。そのたびに、通路の隅でうごめいていた監視カメラのレンズが、まるで意志を失ったかのようにあらぬ方向へ向くのを、タタラは見逃さなかった。
「スバル……さっきから、何をしてるんだ?」
「ノイズを撒いているだけ。この街の『神経』が、私たちの座標を見失うように」
「神経……中央管制室のことか?」
「それも含めて、すべて。……タタラ、私の手を離さないで。今の私は、この街の論理から切り離された『迷子』なの。君が手を引いてくれないと、私はどこへも行けなくなってしまう」
彼女の指先が、タタラの掌の中で微かに震えた。それは機械的な振動ではなく、凍える子供が救いを求めるような、あまりに切実な震えだった。やはり彼女は熱い。冬の湿った風が吹き抜ける管理通路の中で、彼女の周りだけが、真夏の午後のような熱を帯びている。タタラはその熱を奪うように、彼女の手をさらに強く握り返した。
二人がたどり着いたのは、第七区の目抜き通り、通称「虹の通り(レインボー・ストリート)」だ。
そこは、この地下監獄の中で最も「幸福」が氾濫している場所だった。
天井に埋め込まれた巨大なプロジェクターが、ひび割れたコンクリートの壁を、まばゆいばかりの黄金色に塗り替えている。人々は掌のテセラを覗き込み、虚空に向かって「いいね」のサインを送り合っている。彼らの網膜には、存在しない豪華な食事や、着ることもないシルクの衣服が映し出されている。
「……見てごらん、タタラ。あそこにいる男を」
スバルが指差した先には、汚れた作業服を着た老人が、壁に向かって必死に何かを語りかけていた。老人の瞳は焦点が合っておらず、口元からは恍惚とした涎が垂れている。
「彼は今、テセラの中で亡くなった妻と再会しているの。管制室のAIが、彼の過去の記憶から、最も『幸福』を感じるシミュレーションを生成して流している。その報酬として、彼の心拍データや感情の揺らぎが、地上の戦争を最適化するための演算資源として吸い上げられているわ」
「……そんなのは、ただの死刑宣告だ」
「そうね。でも、彼にとってはこれが唯一の救済なの。この街は、絶望を燃料にして、幸福という名の麻酔を生成する。資本主義が最後に行き着いた、究極の効率化よ」
タタラは吐き気をこらえ、その場を立ち去ろうとした。その時、聞き慣れた、そして最も不愉快な笑い声が、背後から突き刺さった。
「おぉぉい! タタラじゃねえか! こんな極上の別嬪さんを連れて、どこへランデブーに行くんだよ、相棒!」
振り返ると、そこには薄汚れたジャンク品の山を背負った男が立っていた。
ロク。
タタラが物心ついた頃から、常に隣の区画でコソ泥やジャンクの転売をして生きてきた男だ。彼は要領が良く、卑屈で、金と食料のことしか頭にない。タタラがマシロと秘密の計画を立てるたびに、どこからともなく現れては「分け前をよこせ」と騒ぎ立てる、文字通りの『足引っ張り』だった。
「ロク……。お前に構っている暇はない。あっちへ行け」
「冷てえこと言うなよ! 俺の鼻は、クレジットの匂いよりも『面倒事』の匂いに敏感なんだ。お前、そのお嬢さんを連れて第七廃棄区に向かってただろ? マシロの野郎がいなくなった場所に、何があるのか、俺もずっと気になってたんだよ」
ロクはタタラの拒絶を意に介さず、ズカズカと二人の間に割り込んできた。そして、スバルの顔をじっと覗き込む。
「……しかし、不思議なお嬢さんだ。お前の目、テセラの光を反射してねえな。まるで、この街の光そのものを吸い込んでるみたいだ」
ロクの言葉に、タタラの心臓が跳ねた。
この男は、学こそないが、どん底で生き抜いてきた野生の勘だけは鋭い。
「ロク、彼女に関わるな。彼女は……」
「彼女は、君たちの言葉で言うところの『パスワード』よ。ロクさん」
スバルが静かに答えた。彼女は、ロクの無礼な視線を遮ることなく、むしろ楽しむように微笑んだ。
「お、おう。パスワードねえ。……タタラ、お前、ついにマシロの遺産を掘り当てたのか? この不景気な監獄を、このお嬢さんの力でぶち抜こうってのか?」
「……そんなんじゃない」
「嘘をつけ! お前の目は、十年前の親父さんと同じ目をしてる。あの、すべてを疑い、コンクリートの向こう側の『何か』を信じ切ってる、イカれた変人の目だ」
ロクは、背負っていた荷物の中から、錆びついた通信機を取り出した。
「いいか、タタラ。この街の治安局は、最近ピリピリしてやがる。特に『青い瞳の未登録者』に関する不穏な噂が、情報屋の間で流れてる。お前らだけで動けば、三区も進まないうちにパトロールに捕まって、脳ミソを再フォーマットされるのが関の山だ」
ロクはニヤリと笑い、タタラの肩に手を置いた。
「俺を連れて行け。俺なら、パトロールの巡回ルートも、テセラの監視が届かない『盲点』も全部頭に入ってる。報酬は、外の世界に出た時のお宝の、そうだな……三割で手を打ってやるよ」
「外の世界に宝なんてない。あるのは火の海と、灰だけだ」
「それでも構わねえさ。この不味いキューブを食いながら、死んだ親父の幽霊と語り合う生活よりは、地獄の方がマシだ」
タタラはスバルを見た。彼女はゆっくりと頷く。
「連れて行きましょう。この人の持つ『不純な意志』は、時にシステムの予測を上回るノイズになるわ。……それに、ロクさん。君の左肩にあるその古傷……それはマシロが十歳の時に、実験の失敗でつけたものね?」
ロクの顔から、一瞬だけ余裕の笑みが消えた。
「……お嬢さん。お前、本当に何者なんだよ」
「言ったはずよ。私はパスワード。君たちがかつて失った時間を、もう一度動かすための、ただのきっかけ」
こうして、奇妙な三人連れの旅が始まった。
テセラが見せる極彩色の偽りの空の下、誰にも祝福されない叛逆者たちは、監獄都市のさらに深部、管理の目が届かない廃棄区の境界へと向かって歩き出す。
タタラは、背中に感じるマシロの手帳の重みを、今度は少しだけ心強いものとして感じていた。
だが、彼はまだ気づいていない。
ロクが時折見せる、タタラの背中を見つめる哀切な視線の意味を。
そして、スバルの体温が、一分ごとに一・二度ずつ、確実に上昇し続けているという、死を孕んだ異常事態を。
虹の通りの輝きが遠ざかるにつれ、大気は急速にその「偽りの生気」を失っていった。プロジェクターの光が届かない通路の隅々には、数十年にわたって堆積した沈黙と、機械油の腐敗した匂いがこびりついている。
ロクは、腰にぶら下げたジャンク品の山をガシャガシャと鳴らしながら、迷いのない足取りで進んでいく。彼は時折、通路の天井にあるセンサーを見上げては、手元の古びた端末で奇妙なノイズを発信した。
「いいか、タタラ。ここから先は『幸福』の配給が届かねえ場所だ。つまり、治安局の連中にとっちゃあ、人間が住んでるはずのない、ただの排泄路なんだよ。見つかれば『故障した部品』として処理される。わかってるな?」
「わかっている。……だが、なぜお前はそこまで詳しいんだ。ただのジャンク屋にしては、ルートが鮮やかすぎる」
タタラが問うと、ロクは立ち止まり、肩越しにニヤリと笑った。その瞳には、テセラの光に毒されていない、野生の獣のような昏い輝きがあった。
「俺の親父さ。あいつは最期まで、このコンクリートの向こうに『本物のステーキ』があると信じてた。テセラの中の幻じゃなくて、血の滴る、獣の肉がな。あいつは酔っ払うたびに、この管理通路の地図を俺の脳ミソに叩き込みやがったんだよ。結局、あいつは餓死したけどな。口の中に、味覚パッチの吸い殻を詰め込んでさ」
ロクの言葉に、タタラは奥歯を噛みしめた。この街の「平和」は、そうした無数の絶望の上に、薄氷のように張られているのだ。
ふと、隣を歩くスバルの足取りが乱れた。彼女の肩が激しく上下し、その吐息は、冷え切った通路の中で白く濁ることなく、熱風となって消えていく。
「スバル……?」
タタラが彼女の腕を支えようとした瞬間、掌から伝わってきた熱に、思わず手を離しそうになった。熱い。沸騰した湯気の中に手を突っ込んだような、暴力的な熱だ。
「待て、ロク! スバルの様子がおかしい」
ロクが振り返り、スバルの顔を覗き込む。
「おいおい、冗談だろ。お嬢さん、顔が真っ赤だぜ。オーバーヒートかよ」
「……大丈夫。演算……密度が、上がっているだけ……」
スバルは壁に手をつき、荒い息をつきながらも、必死に前を見据えた。彼女の青い瞳が、これまでになく激しく点滅している。その光は、彼女の内側で何かが限界に達しようとしていることを告げていた。
「演算密度? 何の計算をしてるんだ」
「……この街の……呼吸。……タタラ、聞こえる? 壁の向こう側で、何千、何万というドローンが、誰かを殺すために飛び立とうとしている音が」
スバルが壁を指差した。その瞬間、通路全体を揺るがすような、低い振動が響いてきた。それは機械の唸りであり、同時に、地上の地獄を代弁する悲鳴のようにも聞こえた。
ロクが慌てて端末を操作する。
「マズいぜ。地上の戦闘が激化してやがる。演算資源の需要が跳ね上がって、この区画の『感情回収率』を上げようとしてやがるんだ。……お嬢さん、お前、まさかその負荷を一人で肩代わりしてんのか!?」
「……私が、ノイズに……ならないと……タタラたちが、見つかってしまう……」
スバルは膝から崩れ落ちそうになった。タタラは今度はためらわず、その熱い体を抱き寄せた。服越しでも、彼女の肌がどれほど異常な状態にあるかがわかる。
「やめろ、スバル! そんなことのために、君が壊れる必要なんてない!」
「……壊れるのは……私という……インターフェースだけ。……タタラに……空を、見せてあげるって……マシロと……約束したの……」
スバルの意識が混濁していく。彼女の体温は、もはや生物の限界を超えようとしていた。
タタラは、彼女の首筋に浮き出た、青い血管のような回路が光るのを見た。それは、彼女が紛れもなく「こちら側」の存在ではないことを物語っていた。だが、彼女が流す汗の匂いや、必死にタタラの服を掴む指の震えは、この世界の誰よりも人間らしかった。
「ロク、どこかに休める場所はないのか!」
「……すぐ先だ。第七廃棄区の境界ゲート。そこなら、監視の回路が死んでる小部屋がある。だが、あそこを開けるにはマシロの暗証番号が必要だ」
「マシロの……?」
タタラは、懐の手帳を思い出した。マシロが最後に残した、「青い瞳の案内人を待て」という言葉。
三人は、限界に近いスバルを抱えながら、闇の回廊を駆け抜けた。背後からは、システムの異常を検知した治安局のドローンの羽音が、不気味に近づいてくる。
たどり着いたのは、重厚な鉛色の扉だった。
タタラは震える指で、手帳の裏表紙に刻まれていた数字をキーパッドに叩き込んだ。
『0615――スバルの誕生日だ。』
マシロの殴り書きが脳裏をよぎる。
カチリ、と硬質な音がして、扉がゆっくりと口を開けた。
三人が中に滑り込み、扉を閉じた瞬間、外の通路を数十台のドローンが高速で通り過ぎていく音が聞こえた。
部屋は狭く、埃っぽかった。だが、そこには確かに、マシロがここで生活し、何かに抗っていた痕跡があった。
タタラはスバルを床に寝かせ、自分のコートを脱いで彼女にかけた。
「……スバル、聞こえるか。スバル!」
彼女の瞳の光が、ゆっくりと落ち着いていく。体温も、限界値を超えたところでかろうじて踏みとどまったようだった。
「……タタラ……。私、……君の心臓の音を、ずっと聞いていたいの。……プログラムのノイズじゃない、本当の……不器用な、君の鼓動を」
スバルが、熱に浮かされたように微笑んだ。その瞬間、彼女の瞳から、一滴の雫が零れ落ちた。それは、オイルでも冷却液でもない、本物の、透明な涙だった。
ロクは、部屋の隅に積み上げられたモニターを見つめながら、静かに呟いた。
「……マシロの野郎。こんなものを作ってやがったのか」
モニターには、歪んだ映像が映し出されていた。
それは、一キロメートル上の地上――。
厚い雲の隙間から、一瞬だけ差し込んだ、燃えるようなオレンジ色の光。
「……空だ」
タタラは息を呑んだ。
文献にあるような蒼穹ではない。戦火に焼かれ、煤に汚れた、凄惨な空。
だが、それはコンクリートの天井よりも、数千倍も広く、残酷なまでに「生」に満ちていた。
スバルが、その映像に手を伸ばした。
「……あそこへ、行くのよ。……タタラ。……たとえ、そこが地獄だとしても」
「あぁ。地獄だろうと、僕は君を連れて行く。……そして、マシロに文句を言ってやるんだ。こんなに重い荷物を僕に預けやがって、ってな」
タタラは、スバルの熱い手を握りしめ、自分の中の「灰色」が剥がれ落ちていくのを感じていた。
監獄の夜明けは、まだ来ない。
だが、彼らの心には、本物の太陽よりも熱い火が、静かに灯り始めていた。




