第二章:空白の席
スバルという少女が隣に並んで歩き始めただけで、見慣れたはずの灰色の景色に、微かな、けれど決定的な「狂い」が生じ始めた。彼女の歩調は、驚くほど正確だった。コンクリートの亀裂を避け、等間隔に配置された支柱を通り過ぎるそのリズムは、まるでメトロノームが歩行を覚えたかのようだ。タタラは彼女の横顔を盗み見る。彼女の視線は前方をまっすぐに見つめているようでいて、時折、何もない空間を凝視することがあった。それはまるで、タタラには見えない「何か」の情報を読み取っているかのようだった。
「スバル、君はどこから来たんだ?」
タタラが尋ねると、彼女はふと足を止め、ゆっくりと首を傾げた。その動作一つをとっても、人間の筋繊維の動きというよりは、高度に調整されたアクチュエータの駆動を思わせるほど滑らかだった。
「遠いところ。でも、君のすぐ近く」
「……またそれか。はぐらかすのは君の趣味か?」
「ううん。事実を言っているだけ。言葉には『座標』が必要なの。今の君には、私の故郷を指し示すための言葉がまだ足りないだけ」
彼女はそう言って、再び歩き出す。タタラは舌打ちを一つして、その背中を追った。
二人が向かっているのは、第七区のさらに外縁、居住区から最も遠い「第七廃棄区」だ。そこは生活排水が淀み、機能しなくなった旧世代の電子機器が山を成している場所。そして、三年前までマシロと二人で過ごした、あの秘密の作業場がある場所だった。
道中、配給されたばかりのニュートリ・キューブを齧る人々を追い越していく。
この街の人々は、テセラ(透過型表示器)を通じて「美味な食事」の幻影を見ている。無味乾燥な白い塊を口に運びながら、脳内には高級なステーキや、かつて実在したという『寿司』という料理の信号が流し込まれているのだ。彼らが恍惚とした表情で咀嚼を繰り返す様は、タタラにはいつ見ても薄気味悪く映った。だが、スバルは違った。彼女は配給の列に見向きもせず、腹を空かせた様子もない。
「君は食べないのか?」
「……効率が悪いの、あれは。それに、私の体は君たちが言うところの『栄養』では動かない」
「じゃあ、何を食べて生きてるんだ。空気でも吸ってるのか?」
「そうね。あながち間違いじゃないわ。熱と、情報があれば、私は私でいられる」
タタラは彼女の言葉を、ただの風変わりな比喩として片付けようとした。だが、彼女の指がふとタタラの袖に触れたとき、その考えは再び揺らぐ。熱い。
やはり、彼女の体温は異常だった。冬の地下道で凍えるような冷気が漂っているにもかかわらず、彼女の周りだけは陽炎が立つような熱を帯びている。高熱の患者のような苦しげな熱ではない。それは、膨大な演算を繰り返す基板が放つような、力強く、暴力的なまでのエネルギーの奔流だった。
やがて、二人は錆びついた巨大な換気ファンの影に辿り着いた。
その裏側にある、一見するとただの壁に見える部分。タタラが慣れた手つきで特定の配管を三度叩くと、隠されたボルトが緩み、小さな隙間が顔を出した。
そこが、マシロとタタラの「聖域」だった。
中は、三年前の空気のまま止まっていた。
埃を被った作業机の上には、使いかけのはんだごてと、半分分解されたままのテセラが転がっている。壁にはタタラが描いた荒唐無稽な「地上脱出計画」の地図が貼られていた。
「……マシロのやつ、掃除くらいしていけよな」
タタラは強がって笑おうとしたが、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
マシロは優秀だった。彼はこの世界の「仕組み」を誰よりも理解しようとしていた。父が消えた理由を、世界歴が刻まれる本当の動機を、彼はこの暗い部屋で一人、孤独に計算し続けていたのだ。
「いい場所ね。……孤独で、けれど意志に満ちている」
スバルが部屋の中心に立ち、ゆっくりと視線を巡らせる。彼女の青い瞳が、暗闇の中で微かに発光した。
「スバル……君には何が見えているんだ?」
「マシロの残響。……彼は、君に何かを伝えたかったのね。タタラ」
彼女は、棚の奥にある古いデータブックを一冊取り出した。それはマシロが肌身離さず持っていたはずの手帳だった。タタラは驚いて駆け寄る。
「なぜ、それが……」
「私には聞こえるの。情報の塊が、ここにあるよって叫んでいるのが」
スバルは手帳を開き、タタラに見せた。
そこには、マシロの几帳面な字で、衝撃的な仮説が記されていた。
『世界歴62年。ついに確信した。この地下都市のすべての電力、通信、そして人々のテセラから収集される精神波データは、一つの巨大な「演算回路」として機能している。僕たちは生存者ではない。地上の戦争を自動制御するための、生体プロセッサだ。』
「演算回路……? 僕たちの心が、兵器を動かしているっていうのか?」
タタラは吐き気を催した。
老人が懐かしむ過去も、母親が子供を想う慈しみも、恋人たちが交わす愛の言葉も。そのすべてが電気信号に変換され、一キロメートル上の地上で、誰かを効率よく殺すための計算に使われている。
そして、手帳の最後に、殴り書きのようなメッセージが残されていた。
『タタラ。もし僕がいなくなったら、青い瞳の案内人を待て。彼女は僕たちが夢見た「空」の一部だ。……そして、彼女こそが、この檻を壊すための唯一のパスワードだ。』
タタラは、震える手でスバルの肩を掴んだ。
「……お前、マシロの知り合いなのか? マシロはどこにいる! 答えろ!」
スバルは逃げなかった。彼女の青い瞳が、真っ直ぐにタタラの瞳を射抜く。
「私はマシロに作られたわけじゃない。でも、彼は私を見つけたの。……エリュシオンのネットワークから、一粒のノイズとしてこぼれ落ちた私を」
「エリュシオン……?」
「空の上に浮かぶ、神々の椅子。君のママが座っている場所」
その言葉を聞いた瞬間、タタラの脳内に、記憶の奥底に封印されていた光景がフラッシュバックした。
白い服を着た美しい女性が、赤ん坊の自分を抱きしめ、空を見上げていた記憶。
「……母さん……?」
「彼女は、この世界の『管理者』。タタラ、君は彼女の最高傑作として、この檻の中に守られていたの」
スバルの顔が近づく。彼女の吐息には、やはり生物的な匂いはなかった。代わりに、純粋な酸素が放出されるような、透き通った冷たさがある。それなのに、彼女の唇から漏れる言葉は、あまりに熱く、タタラの心臓を焦がした。
「ねぇ、タタラ。私を壊してでも、君は外を見たい?」
「……壊す? 何を言ってるんだ」
「私は、君を案内するためにここにいる。でも、その案内が終わるとき、私の回路はきっと焼き切れてしまう。……それでも、君は私を連れて行く?」
タタラは答えられなかった。
この少女を、ただの便利な道具として扱うことはできない。
彼女の青い瞳の中に、マシロが最後に託した希望と、そして、名前のつけられない深い「孤独」を見たからだ。
「……行くよ」
タタラは彼女の熱い手を、今度は逃がさないように強く握りしめた。
「マシロが君をパスワードだと言ったなら、僕はそれを入力するだけだ。……君を壊したりはしない。僕が、君の演算を止めてやる」
スバルは一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして、初めて、プログラムされたものではない、本当の少女のような微笑を浮かべた。
「……バカだね、タタラ。君の心臓、さっきから壊れそうなほど速く動いてる。……これじゃ、演算が追いつかないじゃない」
二人の影が、古い作業場の壁に揺れる。
コンクリートの静寂の中で、新しい鼓動が二つ、不揃いに、けれど確かに共鳴し始めた。
地下千メートル、灰色の楽園に、叛逆の灯がともった瞬間であった。




