第一章:灰色のゆりかご
たった数十年前、この地上には「空」と呼ばれる無窮の蒼が存在したという。
植物という名の生命が地表を埋め尽くし、緑色の巨大な丘が波打つように連なり、人々は肺いっぱいに自由な空気を吸い、太陽という名の暴力的なまでに眩い明かりを仰いでいた。朝、昼、夜という刻の巡りは、機械が決めるものではなく、天体の運行がもたらす神聖なリズムであった。高度な文明を誇り、人々は徒歩という原始的な移動手段を捨て、鳥のように空を、あるいは光のように地上を駆け抜けていた……。
古びた文献に残るその記述を、タタラは何度読み返したか分からない。そのたびに、指先に残る紙の感触が、あまりに現実離れした御伽話のように思えてならなかった。
「……馬鹿馬鹿しい」
タタラは、湿り気を帯びたコンクリートの壁に背を預け、低く毒づいた。
視界のすべては灰色だ。足元から頭上まで、逃げ場のない灰色のコンクリート。天井の高さは、せいぜい四メートル。その天井に埋め込まれた乳白色のパネルが、二十四時間、規則正しく「最適化された光」を振りまいている。この街「サンクチュアリ」に、朝も夜もない。あるのは、ただ管理された静寂と、人々の吐き出す湿った溜息だけだ。
父母世代は、時折、焦点の合わない遠い目をして呟く。見上げても無機質な天井しかない上を見ながら、あたかもそこに美しい女神でも住んでいるかのように懐かしむのだ。
「あの頃に戻れるのなら……たとえ寿命を半分にしても構わない」
そんな大人たちを見て、タタラは憤慨を通り越し、虚脱感すら覚えていた。
本当に勝手だな、と思う。今のような色彩のない世界に自分たちを陥れたのは、他ならぬ、昔の世界を望んでやまない大人たちではないか。彼らは「自分は何もしなかった」「自分は流されただけだ」と被害者面をしているが、静観していたこと、行動を起こさなかったこと、それ自体が世界を焼き尽くす薪となったのだ。彼らもまた、同罪であった。
全人口は二千万人足らず。全世界の平均年齢がまた下がったというニュースが、掌のテセラ(透過型表示器)を通じて流れてくる。人々は均等に区切られた、四角い檻のような区画に住み、均等に配置された鉄製のドアには、名前か、あるいは申し訳程度の看板を掲げている。
タタラの住む第七区の中央には、広場とは言い難いほど小さな公園があった。
そこにはなんの数値を刻んでいるのか分からない、巨大なデジタル時計がある。
『65年 1ヶ月 16日 15時間 26分 45秒……』
一秒単位で冷酷に刻まれるそれを、人々は「世界歴」と呼び、生活リズムの指標にしていた。だが、その秒針の音が、タタラには誰かの首を絞める手の動きのように感じられてならなかった。
父は、この世界に絶望した男だった。
世界歴十五年に生まれた父は、常に情報を集め、当たり前を疑う変人だった。
「タタラ、いいか。この数字を信じるな。数字は、お前の鼓動を奪うための鎖だ」
父はそう言い残し、十年前、外の世界を目指して姿を消した。それ以来、タタラにとって「家族」は文献の中の言葉になり、自分を支えてくれるのは親友のマシロだけになった。
マシロは優秀だった。タタラが「あの換気扇の向こうはどうなっているんだろう」と空想を語れば、マシロは翌日には、どこから拾ってきたかも分からない廃材で、音もなく錠前を外す工具を作り上げた。
「タタラの想像力は、このコンクリートより自由だ。僕は、その自由を形にしたいんだよ」
そう言って笑っていたマシロもまた、三年前、何の前触れもなく忽然と姿を消した。
大切な者が一人、また一人と、灰色の闇に呑み込まれていく。
タタラはいつしか、生きる目的を失っていた。ただ、死なないために生き、配給されるニュートリ・キューブを噛み、いつか父が、あるいはマシロが帰ってきた時に「おかえり」と言えるだけの体力を維持する。それが彼のすべてだった。
その日も、タタラは公園で支給される食料を待ちながら、ぼぅっと世界歴を眺めていた。秒針が『46』から『47』に変わる瞬間、背後に気配を感じた。
「あれ、気になる?」
耳元で、冷たく澄んだ鈴の音のような声がした。
あまりに不意を打たれたタタラは、飛び退くようにして振り返る。
そこに立っていたのは、見たこともないほど鮮やかな、青い瞳をした少女だった。
この街の人間は、誰もがコンクリートと同じ灰色の、あるいは濁った茶色の瞳をしている。だが、彼女の瞳は、文献に書かれた「蒼穹」そのものの色をしていた。
「……誰だ、お前」
「私はスバル。あの数字、気にならない? みんなは『歴史』だと思ってるけど、本当は……」
彼女は、時計の秒針が切り替わる「一ミリ秒前」に、正確に言葉を止めた。その動作はあまりに精密で、人間というよりは、高度に調整された弦楽器のようだった。
「あの時間は、何だい? あれは僕たちの再出発の証だろう?」
「あはは。君は何もかも知ってるって顔をしといて、なにも知らないんだね。タタラ」
名前を呼ばれ、タタラの耳が熱くなる。一度も教えた覚えはない。
「ねぇ。わたしと旅をしない?」
「旅? この狭い世界のどこへ行くって言うんだ。どこへ行っても灰色だ」
「まぁ、知らないままでいいのなら気にしないで。でも……」
スバルは一歩、タタラに近づいた。その時、タタラは不思議な感覚に陥った。
彼女からは、人間特有の「匂い」がしなかった。汗の臭いも、服の洗剤の匂いも。ただ、微かに「熱を帯びたオゾンのような香り」だけが漂っている。そして、彼女がタタラの腕にそっと指を触れた時、その熱さに驚いた。
高熱にうなされているのではない。機械が駆動している時に発するような、一定で、力強い熱。
「君……体が熱いぞ。病気じゃないのか?」
「……ううん。これが私の『正常』なの。タタラ、君の心臓は、もっといい音を奏でられるはずだよ」
彼女の青い瞳に見つめられ、タタラは自分の鼓動が早まるのを感じた。それは恐怖ではなく、何十年も止まっていた歯車が、強引に回され始めた時のような軋みと高揚だった。
この子は気が触れているのかもしれない。あるいは、治安局の差し金かもしれない。だが、このままここで灰色の塵になるくらいなら、彼女の語る狂気に身を委ねるほうがマシだという気分が、タタラの足を動かした。
「行くよ。お前がどこへ行くつもりか知らないが……このままここにいても、僕はいつかコンクリートと同化してしまいそうだからな」
スバルは満足そうに微笑んだ。その笑顔は、どこか悲しげで、けれど、これから始まる破滅を祝福しているようでもあった。
タタラはまだ知らない。
スバルの体温がなぜこれほど高いのか。
なぜ彼女が、世界歴が刻まれるよりも早く、次の「時」を予見できるのか。
そして、彼女の青い瞳が、この世界の真の支配者が住まう場所と同じ色であることを。
二人の影が、灰色の地面に重なる。
一キロメートル上の地上で、赤紫色の空が血のように燃えていることも知らずに、彼らは地下の深淵へと一歩を踏み出した




