第七十三話 イーシ王国制圧(4)
シュテンとユウシュンの率いる部隊は、城塞の外縁にのたうつ貧民街を、文字通り無人の野を行くがごとく突き進んでいた。人族の王都。その華やかな響きの裏には、階級社会という名の鋭い刃が隠されている。堅牢な城壁に守られているのは、甘汁をすする貴族や上級国民のみ。壁の「外」に遺棄された民は、ただ生命を削り、労働力を搾取されるだけの家畜に過ぎなかった。
「王都の南大門へ続く大通りだというのに・・・この惨状は、一体何だ」
鼻を突く饐えた悪臭に、ユウシュンは思わず眉をひそめ、不快そうに鼻を覆った。土を踏み固めただけの大通りは天気が良いにもかかわらずぬかるんでいて、そこからもひどい臭いを放っている。見れば周りの住居から汚水が流れてきているのだ。そして通りの両脇に立ち並ぶのは、今にも自重で崩れ落ちそうな薄汚い掘っ立て小屋ばかり。そのひび割れた板壁の隙間、暗がりの奥底から、怯えきった住人たちの無数の視線が、まるで息を潜め隠れるネズミのそれのように突き刺さってくる。ここは街などではない。ただの「貧民窟」、世界の澱みだった。
かつてはアンジュン辺境伯領にも、これと似た影があった。規模こそ王都の比ではなかったが、そこにもやはり、すべてを諦めたような腐臭が漂っていたものだ。
ほんの数年前まで、ユウシュンにとってそれは「世界の当たり前」であり、疑問を抱くことすら忘れていた光景だった。あの方、信長と大賢者様がこの世界に現れるまでは。
信長の手によって、アンジュン領の貧民街は見違えるほど生まれ変わった。彼はまず、悪臭の源たる汚物を集積する公衆便所を設け、街の衛生を一変させたのだ。それだけではない。汚物の回収や、それを用いた堆肥作りというだれもが避ける職に貧民たちを雇用し、彼らの手に真っ当な銀貨を握らせた。そして荷運びの労働力や土木作業に活用したのだ。そしてその労働力を使って多くの井戸を掘り、共同の湯殿を築いた。環境の劇的な改善は、瞬く間に疫病を駆逐した。病に倒れる者が減れば、それだけ健常な「手」が増える。
『国力とは労働力よ。五体満足で生きておるなら、死ぬまで使い倒してやればよいわ』
信長はいつも、そんな風に冷徹な悪役を気取って嘯く。だが、ユウシュンは知っている。その苛烈な言葉の裏にある、底知れない先見の明を。額に汗して働く者が増えれば、彼らは得た報酬で腹を満たし、服を乞う。そこに「貨幣」の血流が生まれ、「経済」という循環が育っていく。巡り巡って、それは民自身の暮らしを、生命を豊かにしていくのだ。
民の営みが豊かになることこそが、真の国力となる。信長はその真理を誰よりも深く理解し、実践し、そして自分たちに背中で示してくれた。大賢者様と共にこの混迷の異世界を導く、本物の救世主。この数年間、彼の背中を追い続けてきたユウシュンの胸中には、もはや一片の疑念も残っていなかった。
ただ、最も尊敬している大賢者ガラシャ様が「あれ、本音よ。あの守銭奴に人を思いやることができるわけ無いじゃない」と言うのがちょっと気がかりだが。
「ユウシュン、本当にひどい状況ね・・・。こんな絶望を放置して平然としているなんて、やっぱり今の国王は、一刻も早く玉座から引きずり下ろさなきゃ駄目よ」
うらぶれた貧民窟の惨状を見つめ、ガラシャは痛ましげに、しかし毅然とした声で呟いた。その瞳には、旧体制への明確な拒絶の炎が宿っている。
「はっ、大賢者様。無知蒙昧の闇に喘いでいた我らに、信長様と共に『開明』の光をもたらしてくださったのは貴女様です。その大恩に報いるためにも、必ずやイーシ国王の首を上げ、この悪政に終止符を打って見せましょう」
ユウシュンは、絶対的な忠誠と信頼を込めて、ガラシャに真っ直ぐな、そしてひどく端正な笑顔を向けた。唇の間から少しだけ見えた白い歯からは、光りの欠片がこぼれ落ちているよう見える。至近距離でその笑みを浴びたガラシャは、「えっ、あ、うん……!」と声を上ずらせ、みるみるうちに顔を林檎のように真っ赤に染めてしまった。現代の知識はあっても、好意を寄せる男にこれほど真っ直ぐ見つめられることには、まだ免疫がない。彼女は恥ずかしさを隠すように、大慌てでそっぽを向いた。
やがて部隊が貧民街を抜け、王都を囲む巨大な外堀へと達した、その瞬間だった。
城壁の狭間から、無数の矢が一斉に放たれた。空を覆いつくす死の豪雨。
敵の放った無数の矢が、放物線を描いてガラシャたちへ降り注ぐ。
風を切る不吉な風切り音が、死の接近を告げていた。だが、最前線に立つガラシャの瞳に怯えの色は皆無だった。彼女は静かに、しかし力強く右手を前方へ突き出す。
この世界に来て、ガラシャは魔法の研究に余念が無かった。そしていくつか解ったことがある。
―― ほとんどの魔法は物理学で説明ができる ――
魔法という未知のエネルギーがレイラインを通して供給されている事がわかった。そして、魔法が発動した後は、一部未解明な魔法もあるが基本的に物理学の法則に従っているのだ。どんなに不思議な現象であったとしても、そこには“エネルギー保存の法則”や“熱力学の法則”が存在している。
現代で培った物理学の記憶が、彼女の脳内で魔力と結合する。 必要なのは、矢を「止める」物理的な障壁ではない。その「動きのエネルギー」そのものを奪い、別の形へ変換する場の展開だ。
「熱・エントロピー変換!デビル オブ マクスウェル(マクスウェルの悪魔)!!!!」
ガラシャの唇が、この世界には存在しない概念を呪文として紡ぐ。 彼女の手の先から、複雑な数式と幾何学模様が編み込まれた、黄金に輝く障壁が展開された。
その刹那、無数の矢の雨が障壁へぶつかり、そして力なくパラパラと落下した。
矢はその慣性、すなわち運動エネルギーが、障壁の魔力によって行き場を失ったのだ。失われた運動エネルギーは、そのまま等価の熱エネルギーに変換された。矢と周りの空気の温度を少しだけ上昇させ、運動エネルギーを失った矢はそのまま地面に落ちていく。
この世界にも物理防御魔法は存在する。基本的には迫ってくる運動エネルギーに対して、こちらも魔力によって運動エネルギーを作り出し正面からぶつけるというものだ。老練な魔導師であれば強力な防御結界を展開できる。だが、その対価として膨大な魔力を消費してしまう。
しかし、ガラシャが使った防御魔法はほとんど魔力を消費しない。なぜなら、新たに力を作り出すのでは無く、矢が持っているエネルギーを別の形に変換するだけだからだ。これは、物理学者マクスウェルの思考実験にある「マクスウェルの悪魔」に通じるものがあった。
※マクスウェルの悪魔 エントロピーの逆行が発生するケースを想定した思考実験
※魔法「デビル オブ マクスウェル」 無詠唱魔法なのだが、言葉に出した方が、ユウシュンが喜ぶことに気付いたので、ガラシャが命名して詠唱している。
「さすが大賢者様!このような魔法、魔族の大貴族でも使うことは出来ますまい!」
ユウシュンから尊敬の眼差しを向けられたガラシャは顔を赤らめる。
「うふふ、ユウシュン、あの城門を破壊するわ!『フェーリーメドウズ!!』」
ガラシャの手のひらから放たれた光球は音速を超える速度で城塞の南大門に激突し、そのエネルギーを解放した。数万度を超える圧縮されたプラズマは瞬時に膨張し、衝撃波となって城門を粉々に砕く。
「大賢者様が突入口を作って下さった!全軍突撃!」
ユウシュンが歓声を上げたのも束の間、一同は足を止めざるを得なかった。城門の手前、外堀に架かっていたはずの巨大な跳ね橋は、すでに無残に切り落とされ、深い水底へと沈められていたのだ。行く手を阻むのは、容易には渡れぬ深く濁った堀の水。
「・・・大丈夫よ、ユウシュン。このくらい、想定の範囲内だから」
ガラシャは息を整えると、不敵に、そして少し誇らしげに微笑んだ。 彼女はまず、冷気を操る氷魔法の術式を展開する。激しい魔力の奔流が堀の主流へと叩きつけられ、轟音とともに、水面が分厚い白氷へと結晶化していった。
だが、それだけでは終わらない。凍りついた氷の表面は地面から数メートルの下にあり、またあまりの滑らかさに軍勢が走れば足をとられ、進軍速度が致命的に落ちてしまう。摩擦係数の不足――ガラシャの頭脳は即座にその欠陥を計算していた。
「水よ、大気より踊り出て雨となれ!」
※注 本当は無詠唱で水魔法を使える
今度は広域の水魔法を発動し、局地的な土砂降りの雨を降らせる。 凍りついた堀の上に降り注いだ雨水は、冷やされた氷の表面に触れた瞬間、次々と凍り付き、ざらついた霜の層を形成していく。それはまるで、人の足や馬の蹄が完璧にグリップを効かせられるように計算された、臨時の「氷の舗装道路」であった。
数秒前まで侵入を拒む絶壁だった堀に、突如として現れた頑強な白い進軍路。自然の理をも弄ぶその常識外れの魔法を前に、百戦錬磨のユウシュンもシュテンも、ただただ言葉を失い、ガラシャに尊敬の眼差しを向けることしか出来なかった。




