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化け猫

 エントランスのソファーに腰を下ろし、エレベーターの現在地を知らせるランプが一つ、一つ昇っていく様子を見守る。

「大丈夫かな……」

アンドロイドとはいえ、疲労はある。急な出向に続き、同胞との敵対。心身ともに疲れているだろうに、金髪ツインテールらしいといえばらしいどこまでもひた向きで、思い煩《わずら》う表情がそこにあった。

「心配しないでいいよ。アニーさんはあんな風に言ってたけど、ママだって快楽殺人者じゃないんだから。無闇やたらに人の命を奪ったりしないよ」

「……うん」

殺人者ではないけれど、サイコパスではある。あの部屋に入ったが最後、「寸止め」の狂気を耐え抜くか、先にママが飽きるか。出口はその二つしかない。

だけどそんな血も涙もない現実を今のモリサに突きつける勇気は、私にはない。

その代わりに頭を撫でた。こんな小さな女の子が、あんな修羅場を前にして一歩も退かなかったんだ。加えて、大声で自分を主張した。それだけで十分褒められるべきことだと思ったから。

 そうは思いつつも、てっきり彼女に手を払いのけるものだと思っていた。彼女はどこまでも自分の属性に忠実だから。

 ところが、彼女の頭は撫でつける手の重みに耐えられなくなって、みるみる、みるみる沈んでいく。

「……ごめんなさい」

彼女はさっきの戦闘で結果的に足手まといになったことやポルミスを説得できなかったことを悔やんでいた。

「私、大奥様の信頼に応えられなかった」

どうしてこんなにも金髪ツインテールなんだろう。

真面目で、融通が利かなくて、言われたことがすべてだと思いがちで。どうにも愛さずにはいられない女の子。

 だけど、こういう「素直過ぎる子」は一度大きなショックを与えておくか、いろんな反面教師を見せておかないと後々苦労することになってしまう。

そして、私にそれをするだけの勇気があるかと言えば……ない。でも森田さんから託された以上それなりに面倒を見るべきだとは思う。

「じゃあよろしく、パンダ先生」

「……本来、俺はお前にこんな風になってほしかったんだぞ?それなのに……」

どうして人を使うことばかりを覚えてしまったのか。そう落胆する年長者の背中を私は遠慮なく押し、彼は舌打ちまじりにモリサに向き合った。

「やい、金髪娘」

「……なによ」

子ども扱いをされていることに気づいたモリサはとりあえず俯くのを止めて渋々パンダを睨みつけた。対してパンダも負けじと睨み返すけれど、そんな不機嫌な表情とは裏腹な言葉を並べ始め、モリサは困惑することになる。

「大した奴だよ、お前は。俺やワコでさえ手を焼く利かん坊相手に逃げずに立ち向かったんだからな。その勇気は貴重だぞ?」

「う、うん……」

「森田も言っていたようにお前はまだ若い。その勇気さえ忘れず前を向いていれば自ずと求める力は付いてくる。まだ焦る必要はないんだよ」

「……」

「誇らしく思っていい。お前はすでに十分頑張っているんだからな」

初めは怪訝《けげん》な目で身構えていたモリサも、先生のセリフを聞き終わる頃にはその小さな目尻に今まで堪えてきた勇気の塊がポツリ、ポツリと溢れてくる。そこへ私が寄り添って抱きしめてあげれば拍手喝采、雨あられ。

 なんか私の思ってたのと違うけれど、さすがは年の功。こういう頑固な子を落とさずに上げられるなんて、なかなかできることじゃない。

「……なんか、ごめん」

ひとしきり泣いたモリサは私を押しのけ、そう言った。それは、今のが演技だとわかっている声だった。それでも誰かにそう言って欲しかった。そんな謝罪だった。――――そんな笑顔だった。


 そうこうしている内に、思ったよりも早い呼び出しがかかった。

「お手柄ですね、和子巡査」

エレベーターに乗るなり、彼女はいつもの調子で私たちを優しく迎え入れてくれた。その笑顔を見るに、昨日の口喧嘩はもう水に流してくれているのかもしれない。

それは彼女なりのスマートな対応なんだろうけど、私は彼女に負けじとスマートに返しながら、そんな彼女の笑顔を見て少しだけ悲しくなった。

 その流れであのバカみたいな合言葉を口にするもんだから、モリサは自分の言語モジュールがおかしくなってしまったんじゃないかと戸惑いの表情を浮かべてしまっていた。

「モリサさん」

そこへ問題のエレベーターガールが声をかけてきたもんだから自分も何か妙なことを言わされるんじゃないかと身構えていた。けれどエレベーターガールの次の一言はそんな警戒心も軽々と飛び越えて彼女を驚かせてしまう。

「これは伝言ではありませんが、『久しぶりに母に叱られた気分になった』。あの人はそう溢していましたよ」

「……」

「こういうことだ。お前の頑張りはどこかで必ず息をしているんだよ」

警戒心が完全に仇となったモリサは、パンダに言われても実感が持てず固まっている。だけど私がまた頭を撫でるとピクリと体を震わせ、「わ、私は大奥様に言われたことをしただけよ……」と顔を赤く染めながらそっぽを向いてしまった。


 連日ママの部屋に呼ばれるのは、くだらない悪戯を覚えたばかりの幼少期以来だ。なんと、その頃は私がママを悩ませていたらしいけど――そんなこともあって私の教育係にパンダが付けられたんだけど――、今やその立場は完全に逆転してしまっている。

「どうしたの?なんで扉の前で突っ立ってるの?」

モリサは何も知らない。猫派のトップともあろう人が、その実力や経歴の全てを差し置いて、どうして「性悪女」なんて呼ばれているのかを。

「じゃあ、行くよ?」

「な、なによ。いちいちアタシに聞かないでよ」

それは、あの人が楽しみたい時に起こる。こっちが仕事直後でクタクタだろうと、失恋した後で落ち込んでいようと、可愛いエレベーターガールにうつつを抜かしていようと関係ない。そういう心構えでいないといつかうっかり殺されてしまうかもしれないのだ。

 私は扉から生えた黒猫の尻尾を慎重に打ちつけた。「どうぞ」今日は少しご機嫌な声が返ってくる。それでも油断は禁物だ。最高傑作過ぎて、今か今かと抑えられなくなっているだけなのかもしれない。

だけどそうやって身構えている時に限って何も仕掛けてこないからこそママは侮《あなど》れない。また獲物の気が緩むのを、気配を殺してじっくりと待つ――どちらかと言えばこっちの方が心臓に悪い――ドキドキの期間がやってきただけなのだ。

「ワコ、パンダ、まずは無事に帰ってきたことを嬉しく思うわ。ご苦労様」

そんな労《ねぎら》いの言葉までかけてくれるママの背後を見て、ようやくそのご機嫌な理由がわかった。




――――柊和子が笹原きり江の私室に入る十数分前


「初めまして、ポルミス・ベルノーマ。私が猫派の長、笹原きり江よ」

ポルミスを届けるとなぜか鬼たちは部屋を後にし、残されたのは猫派の長と岬の幹部の二人だけ。しかも、いまだポルミスには手錠の一つもかけられていない。そんな異様な空間にポルミスは僅かに困惑した。

「どうしたの?遠慮せずに掛けてくれていいわよ」

「……」

 シックな調度品でまとめられた落ち着いた空間。陽の光は入り口と対になるように設けられた大きな窓しかないのに、しっとりとした空気に居心地の良さを感じたそれらは、反射して外に帰ることもなく、ほんのりと部屋全体を照らすように居座っている。そうして照らされた部屋のあちこちには、花のように色とりどりの葉をつけた観葉植物が調度品を引き立てるように楚々(そそ)と茂っている。

なんとも子ども心をくすぐるおとぎ話のような空間だ。

 こんなにも幻想的な空間に仕上がっているのに心安らぐおとぎ話に浸《ひた》り切れないのは、そこにどうしようもなく権力を謳《うた》う「玉座」があるからだ。

派手な装飾がされている訳でもない。素材が高価な訳でもない。

そこに腰掛ける人間の態度が、どこまでも人を見下していたからだ。

そんな威厳甚(はなは)だしい姿に、俺は吐き気を覚えた。

「噂には聞いていたが、随分と傲慢《ごうまん》な人間のようだな」

「そうかしら?これでも昔と比べたら丸くなった方だと思うのだけど」

早速、バカにされている。「そう見えるのは単に、お前の見てきた世界が狭いからだ」と。そして、それを語ったのは言葉ではない。忌々(いまいま)しいまでに無礼《なめ》くさった目付きだ。

 促された三人掛けのソファに座ると、柔らかな革が全身を包み込むように沈み込む。平時であればさぞ心地よく感じただろうが、あの目の前では鳥肌を誘う沼のような感覚でしかない。それでも女は俺にリラックスするように強要する。

「何か飲み物は?それとも先に手当が必要?もしそうなら医療部に声をかけるけど?」

よほど俺に手を出してほしいらしい。いちいち癇《かん》に障《さわ》る話し方をする。

 鬼どもにやられた顔の傷や全身の打撲は痛むが、それよりも今は力を使った反動で気怠《けだる》さがひどい。汗で不快だし自慢のスーツもボロボロで、むしろシャワーを浴びてスッキリしたいくらいだ。

だが、それを言えばコイツはまた別の切り口で俺を挑発しにかかるだろう。俺は何も要求しなかった。

「自分の家のようにくつろいで。その方がいろいろ話も弾むでしょ?ああ、だけどタバコの臭いは嫌いだから遠慮してもらえると助かるわ。あと、こう見えて綺麗好きだから。その辺にガムや唾は吐かないでね」

「……お前にとって俺はそこまで小物に見えるのか?」

我慢できずに喉につっかえていたものを吐き出した。すると、女は途端に眉間にシワを寄せ、唐突なカウントダウンを突きつけてきた。

「どうしたの?ひどくつまらないことを聞くのね。砂江子から聞いてた話と違うわ。お前は人を操る側の人間だと思っていたのだけれど。もしもそれが私の勘違いなのだとしたら……ひどく残念だわ」

軽率なことを言ったつもりはない。相手を操るために自分の本心を曝《さら》すのも一つの基本だ。だが、この悪名高い女はそれすらも生温いと言いたいらしい。

「なら話題を変えようか。どうやらお前は俺を使って岬を壊滅させたいらしい。なら俺がそれに乗ったとして、その報酬にお前は何をくれる?」

それでも渡り歩いて行かなければならない。俺はこんなクソ女に命をくれてやるためにあの人の下を離れたんじゃない。

 女はそれを見透かすように不気味に笑った。あの、クモやカエルを入れた鍋を煮込んではほくそ笑む気味の悪いババアのように。

「あら、報酬が必要だったの?」

女は尻尾のように太い一方のおさげをいじりながら「困ったわね」と呟く。

「私の手料理なんてどうかしら?」

服、土地、女、権限……。女は間を繋ぐように適当な言葉を並べ立て、俺が首を振るたびに「じゃあ、何なのかしらね」と笑う。明らかに俺の方からアレを吐くのを待っている。だというのに……

「『ミラ』が欲しい」

いざそれを口にすると、女の笑みは凍りついた。

それはやがてゆっくりと溶けだし、笑みから嫌悪へのグラデーションを俺に見せつける。

「そう、やっぱりそうだったのね」

俺の吐いた一言で、女は俺の背景を見抜いた。いや、ただ確信を得たというだけなのかもしれない。女は嫌悪の上から張りぼての笑みを被せ、なおもお喋りを続けた。

「どう、あの男は元気にしているかしら?」

「そうだな。お前のもどかしい動きに堪えきれず、俺を送り込んで裏を掻こうとするくらいにはな」

「変わらないわね。そういう空回りしてる自分に気づけないところは」

「……一つ、尋ねたいことがある。いや、これは提案と言うべきかもしれないな」

「どうぞ」

女はテーブルの上の小洒落たキャンディボトルからピンク色のものを一つ取り出し、口に放り込んだ。

「お一つどう?」

「いらん」

「あら、そう」

その一挙一動に、他を寄せ付けない賤《いや》しさ感じた。獲物を前に舌なめずりをする狡猾《こうかつ》な獣臭さを。俺では届かない、あの人のための希望を。

「笹原きり江、岬のトップになる気はないか?」

だが、女はやはり俺を見下し、笑った。本性を隠した淑女のようにあざとく、鬱陶しいほどに甲高《かんだか》い声で。

「慎んでお断りするわ。そもそもどうして私にそれを願うの?私はお前たちの意見に反対しているのよ?お前たち自身にもまるで興味がない。大人しくしていれば放っておくし、目障りならくびり殺す。それだけよ」

女の表情には一片の淀みもない。すべては己の思うがままだと、神を騙《かた》る面構えだ。

「だけど貴方には少しだけ感心したわ。無駄だとわかって単独行動し、私の子に手をかけてまで私に会いに来るなんて中々の度胸だわ。ここまでくると砂恵子が少し妬ましく思えるわね」

お前がそういう奴だからこそ、俺はここまでやって来たんだ。

「ねえ、教えてくれない?どうしてそこまで砂江子のために体を張れるのかしら?」

ダメもとでここまで乗り込んだ結果、一方の道を塞がれた俺の決断は速かった。

「言うまでもない。俺たちの望みは常に一つだからだっ!」



「―――!?」

男の大きな手の中で、女の心臓が躍っていた。

脈打つ悲鳴、熱く絡みつく血は怒りに狂え、握れば押し返す生々しい肉質は紛れもない本物の感覚。幻術を得意とする自分がそれを見間違えるはずがない。そういう確信があった。

 男はきり江の問いに答えた瞬間、放たれた矢のようにソファを蹴り、女の胸に爪を滑り込ませた。

これまで幾度となくやってきた動作。爪がプリンを突くように肉を裂き、直後、骨を断つ指先に激痛が走る。マタタビの力がなければ一度で指が使い物にならなくなる荒業。けれども、命の遣り取りとして悪くない痛みだと男は気に入っていた。


正直、返り討ちに遭うと覚悟していた。


 しかし、男は間違いなく慣れ親しんだ痛みを覚えた。握りしめる弾力や臭いにも違和感はない。それなのに、女は命尽きる直前につまらないことを聞いてきた。

「恐怖と向き合った時、お前が一番強く感じるものは何?」

「……ものに依るな。それと、生憎と俺はオカルトが嫌いでね」

「ふふ…そう……」

男の確信は脆《もろ》く、魔女の憎たらしい笑みはこれ見よがしに真実を包み隠していた。


 女は自分の胸に埋まる太い腕を見下ろし、愛撫をねだる女のようにぐったりと体を預けてきた。引き抜こうとすれば逃がすまいとしがみつき、微動だにしない腕力は完全に怪物のそれだ。

俺は、完璧に判断を誤った。

 貫かれた心臓もまた、個別の生き物として本体に倣《なら》い、しなだれる血管で腕を締めつける。

腹に埋もれた肘は蠕動《ぜんどう》運動する内蔵に揉まれ、胃液と腸液が肌の奥まで染み込んでくるようだ。

血がスーツを伝い、ヒルのようにジワリジワリと這い上がってくる。服の繊維を縦横無尽に行き交《か》い、肌を探し当てるとソっと唇を押し当てる。

 やがて、体の一部で感じていたこの不快感は全身をも侵《おか》してしまう。

蜘蛛の糸で雁字《がんじ》搦《がら》めにされ、蛙に丸呑みにされる圧迫感。

……俺は、魔女の手で一匹の虫に変えられる錯覚に陥《おちい》った。


 これが幻術だったとして、こんなにも細かい感覚を与えられるものだろうか?

感覚そのものは被害者の想像力に左右されるが、それをどこまで刺激できるかは術者の腕にかかっている。

そしてこれは、それを知(・)っ(・)て(・)い(・)な(・)い(・)と(・)できないレベルだ。

あのピーマン男が逆立ちしたところで真似できるものじゃない。

「お前は、いったい何者だ―――!?」

女の瞳孔が開いた。

そう感じた刹那、境を忘れた漆黒の瞳は宿主の目玉からはみ出してもなお広がり続け、体を塗り潰し、胸を貫く腕を伝って俺までも同じ色に染めた。


気がつけば俺の腕は女から解放されていて、黒々とした海の中を漂っていた。


 ついさっきまで蛇のように執念深く絡みついてきた臓物臭も、血痕も綺麗サッパリ消えている。それどころか、顔の傷も足の痛みもなくなっていた。

「いったいどういう幻術だ。……出口はどこだ」

無茶苦茶だ。ここまでくるともはや悪夢としか言いようがない。

 漆黒は、どこを掻いても空をまさぐるばかりで感触というものがまるでない。

ただ、俺はこの漆黒を知っている気がした。親しみ深く、安らぐ心を抑えられない。

「人も獣も『恐怖』という感覚があるから恐怖する。意味や根源を探ることも忘れ、ただただ本能に任せて怯えるだけ」

漆黒はどこからともなく聞こえてくる女の声をでたらめに反響させ、子守歌となり、やはり俺をあやしにかかる。

「なら、その本能を失くした時、私たちはそこに何を感じると思う?」

何か、何か答えなければ!

ふと我に返り、漆黒に溶けて意識を朦朧《もうろう》とさせる自分に鞭打つように焦燥感を掻き集めた。

何か……何か……!

「死か?」ようやく出た答えはひどく幼稚で情けない。それでも答えないよりはマシだ。俺は自分を励まし、遮二無二《しゃにむに》、口を開いた。

「―――!?」


しかし、男の口から懸命に考えた答えが出ることはなかった。……いいや、男の顔に初めから口などなかったのだ。


「違うよ」

耳を噛まれた感触があった。俺は反射的に拳を振るう。だがやはり何かに触れる感覚はない。


……いいや、男に拳など初(・)め(・)か(・)ら(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)の(・)だ(・)。


……落ち着け!幻術であろうと催眠であろうと、心を乱さなければ……?


男は違和感を覚えた。


俺は今、何を感じている?焦り?苛立ち?……恐怖?……いいや、違う。これは……




「幸せだろ?」

「うわああぁぁぁああ!!」




気づけば俺はベッドから飛び起きるように立ち上がっていた。

「……」

そこは笹原きり江の私室、きり江は俺の真向かいに座っている。出会った時と何一つ変わらない姿で。

「……」

俺は、極限状態に追い込まれ、恐怖を意識した瞬間、心からすっぽりとソレが抜け落ちたように感じた。焦りも、苛立ちも、何もかもを連れて。

すると次の瞬間、俺は世界のすべてに祝福されたかのような幸福感で満たされたのだ!初めてあの人と出会った時のような、得も言えぬ幸せ……

だが、次に女の声が聞こえた時、脳が焼き切れんばかりの「恐怖」で叩き起こされた。

……あれは、いったい……何だったんだ?

「どうかしら?これでお前はもう、恐いものなんて何一つなくなったんじゃない?」

「……」

この女はそれをわかってて言っている。この世にただ一つ、俺が恐怖すべきものが生まれてしまったことを。

「さあ、今のお前とならもっと実りのあるお喋りができるわよね?」

女の何気ない脅迫に眩暈《めまい》を覚え、俺はソファから滑り落ちてしまった。もはや、腰かけていたことさえ記憶にない。汗か涙かもわからない雫がスーツを濡らし、不様に女を見上げることしか……

「あら、壊れてしまったの?お前なら大丈夫だと思ったのに」

女は初めて玉座から立ち上がり、ホルスターから最後の道具を抜いた。

「言ったはずよね。私は綺麗好きなの。利用できない人間なんて、いても意味ない。……違う?」

今度こそ、何か答えなければならない。だが、また口がなくなってしまう恐怖が喉を堰《せ》き止め、出てくるのは喘ぎ声ばかり。

ギリギリ……ギリギリ……という、懐かしさすら覚える撃鉄の音が噓偽りないカウントダウを数える。


死ぬ、死ぬ、死ぬっ、死ぬッ、死ヌ!死ヌッ!!死ぬっ――――


「わ、私はッ!私はッ!」

気がつくと全身で息をしていた。沸騰するような疲労感と口一杯に広がる胃酸の味に耐え、叫んでいた。

「……私は、貴方に従おう」

「そう、それでいいのよ」

辛うじて見上げ、捉えた女の顔は、今もカウントダウンを続けているように見えた。

……綺麗好き?……嘘を吐くな。

俺は、この女に冗談を言うことができなくなっていた。

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